第二章終 『夜明け』

 黒い蜘蛛の附属肢ふぞくしが、『暗夜』の赫い一つ目を容赦無く貫いた。

 目だけではない。恐らく手、脚、腹部に該当するであろう部位も、他の附属肢ふぞくしが次々と切り裂く。

 その先端は鎌のように鋭利だった。四肢を切断したかと思えば、今度は空中に放られた四肢を切り刻む。

 あの黒い巨体が、瞬く間に塵芥となって消滅していく。


 ――少女の記憶は、その光景を最後に途絶えた。


 しかし、既に意識は取り戻していた。

 少女はその目を開くのを恐れている。


 あの無尽の拷問が、『暗夜』ではなく、人間に対して行われるとしたら……凄惨という安い言葉では言い表せない。

 更にそれがただの人間ではなく、だったとしたら……想像もしたくない。

 強いて言えば、その最後の記憶の中で血が見えなかったことだけが幸いだった。

 それだけで、幾分か希望を見出せる。

 今すぐ目覚めて、の安否を確認すべきだろう。

 しかし、解っていても動けない。やはり、自分は臆病なのだ。


「――うなされてる……?」


「……えっ……!?」


 少女は思わず目を開いた。耳元で聞こえた声が、あまりにも心地良く、安心した。


 眩しい。

 空が青い。

 雲が白い。

 そして何より、


 ――あたたかい。


「あはっ! ……、ミズカ」


 彼女の金色の髪が、を反射している。

 眩しい。空に浮かぶ太陽よりも、彼女の――ヒカリの笑顔が眩しい。

 そして、気づいた。少女が動けないのは、ヒカリの膝枕が心地よいせいだ。


「……おはよう……ヒカリちゃん。……だね」


「そうっ! がこんな綺麗だなんて、本にも書いてなかったよね!?」


 せっかくというのに、ヒカリの調子は変わらない。


「ミズカ? 何か顔赤くない? もしかして風邪とか!?」


 不意に少女の頭が持ち上がる。

 次の瞬間、ヒカリと少女の額が互いに触れた。


「う〜ん……ちょっと熱い?」


 すべすべとした肌。後ろ首を支える柔らかな掌。

 ヒカリの呼気が少女の肌に撫でる。反対に、少女の息は止まっていた。


「……だ、大丈夫……っ! ……本当に……大丈夫……」


 脳を焼き切らんばかりに流れてきた情報の波を何とか抜け出し、慌ててヒカリと距離を置く。

 深呼吸を繰り返す。以前よりも澄んだ空気が身体を巡っているのを感じる。


「じゃあさ、街見て回ろ? 皆もう先に行ってるよ!」


 手が差し伸べられる。

 細くしなやかな指が、少女の震える指と重なる。


「……う、うん……行く……!」


 今まで手を繋ぐだけでここまで緊張したことは無かった。心臓の鼓動が直接耳に届いて聞こえる。

 きっと太陽を取り戻した街を見て回るのが楽しみで高鳴っているのだ。そうに違いない……はず……


 森の崖下から、緑色の草原を抜ける。

 街はよく輝いていた。至る所から声が聞こえる。皆揃って、太陽を喜んでいるのだろう。

 その中には、よく見知った姿もあった。


「おっ!? ミズカも来たか! 丁度さっき、自警団の先輩にお前の功績自慢しといたとこだぜ? なのに……おかしいな。……さっきまでここら辺に居たんだけどな……」


 アサヒは両手に食事の盛られた皿を携えていた。

 出店で買い物を頼まれた後だったのだろうか。


「あ、気が利くじゃ〜ん! ミズカ、一緒に食べよ?」


 アサヒの右手の皿を、音も無くヒカリが奪っていた。


「ちょ、おい! それは俺の分だ! 返せ!」


ほおふひふへはっはもう口付けちゃった〜」


 食い意地の張ったヒカリを、呆れた顔でアサヒが覗く。

 太陽の下であれば、この慣れ親しんだ流れにも笑みが増しているような気がする。


「……んんっ。はい、ミズカもあ〜ん」


「……ええっ!? ……だ、大丈夫! ……自分で食べられる……」


 ヒカリは自分が使った食器をそのまま少女の口に向ける。

 遠慮したところで、どうやらヒカリは引き下がる気は無いらしい。

 今までこれ以上に大きな覚悟を決めてきたのだ。これしきのこと――


「……どう? 美味しい?」


「…………うん……」


 正直、味も匂いも、何を食べたのかさえあまり理解していなかった。

 顔をまた赤くしないよう必死で、それどころじゃない。

 ヒカリに気づかれないよう、食事という名目を使って背を向ける。


「……はぁ……三人は楽しそうで何よりだね」


「お兄ちゃんとメイは街の人への説明で忙しいの。全然楽しめてないの」


 大きなため息を吐くレイと、頬を膨らませたメイが偶然横を通りかかった。


「いいじゃねえか〜。なんてったって、今日は『太陽記念日』なんだろ?」


 突如出現した太陽に住民がそれ程動揺していなかったのは、この兄妹が話を通してくれたからなのだろう。

 陰の苦労を担っているのはいつもこの兄妹だ。それなのに、一人はあらゆる出店に噛みつき、もう一人はメイの頬を指で突いて遊んでいる。

 しかし、レイとメイはそういう二人が見たいから、陰の苦労を担うのだろう。


 えも言われぬ充足感が、少女の心に溢れる。街の皆が喜ぶ善行をしたことによるものだろうか。

 生まれて初めて、生きていて良かったのだと実感する。街の皆が太陽よりも眩しい笑顔を見せることが、少女の心を温かくする。


「――あっ、せんぱーい! こっちっす!」


 この世界に来て最初にした行動を悔やみたい。

 ヒカリには失礼なことばかりしてしまった。あれ程面倒で根暗だった自分を助けてくれたのだから、感謝してもしきれないだろう。

 そうだ……こういう時にこそ伝えるべきだろう――


「……ヒカリちゃん――」


 後ろを振り返ると、知らない男が立っていた。

 ヒカリの名を呼んでしまったために、少女は少し取り乱す。


「……あっ……すみませ――」


《今期の世界を終了します》


「……………………えっ…………?」


 記憶から完全に消えていた声が、再び少女の脳内に響いた。

 嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 何かの間違いだと、頭の中で何度も否定する。

 身体が急激に冷えていく。落ち着こうと深く息を吸っても、肺から空気が抜けていくようで……


「――ミズカっ!?」


「――テメェ! 何しやがんだっ!!」


 アサヒが目の前の男に掴みかかり拘束した。

 同時に、少女はその場に倒れ伏せる。足に力が入らない。酸素が巡っていないためだ。


「はははははっ! ヤコウ団長と『暗夜』様の報いだ! 当然の罰だ! アッハハハハハッ!!」


「――勝手に口開いてんじゃねえぞ、クソ野郎がっ!!」


 アサヒと取り押さえられた男が言い争っている。

 周囲の住民たちは騒ぎを聞き、瞬く間に集まってくる。


「イヤっ! ミズカっ!! 何で……何でなのっ!?」


 ヒカリの涙が少女の頬を濡らす。しかし対照に、少女の胸が鮮血で染まっていく。


「お兄ちゃん! ミズカ、助けられないの!?」


「……肺に穴が空いてるんだ。……この重傷じゃ……僕にはどうしようもない……っ!」


 兄妹はたかる住民を掻き分け、走り去った。

 向かった方向を見るに、恐らく街の医師を呼びに行ったのだろう。

 しかし、それが無意味であると少女は理解していた。

 あの無機質な声を伴った死は、きっと免れようがない。

 この世界が二度目の転生先であるというのが、何よりの証拠だ。


「……ヒカリ……ちゃん……」


「喋っちゃダメっ! まだ……まだ助かるかもしれないんだから……!」


 少女はゆっくりと首を横に振る。

 それを見たヒカリは、少女の肩を掴んで崩れ落ちた。

 泣いている。少女の首に何度も悲しみが伝っている。

 ならば、少女のすべき行動は一つだった。


「……泣か……ないで……? ……私……ヒカリちゃんが泣く姿を見るの……嫌だよ……」


 ――嫌なことには嫌って言う……ヒカリちゃんが言ったんだよ……?


「……そんなの無理っ! 私だって……ミズカが死ぬなんてイヤっ!!」


 死にたくない。それはだって同じだ。

 やっとヒカリと――皆と普通に生きられるって思った。だからまだ、死にたくない。


 ――でも、後悔は無い。


「私まだ、ミズカに何にもしてあげられてないっ! これからいっぱい、助けてくれた恩返ししなきゃって……思ってたのに……っ!」


「……違うよ……ヒカリちゃん」


 頭が朦朧とする。早く、伝えなければ……


「……最初に助けたのは……ヒカリちゃんの方だよ……?」


「……えっ……?」


 途方に暮れていたを――生き方に迷っていたを――

 暗い夜に呑み込まれていたを助けてくれたのは……


「……ヒカリちゃんが……私のから……!」


 だから、私もこの世界の夜を明かした。

 それが、ヒカリへの恩返しになると思って。


「……っ! ……覚えてないよ……そんな昔のこと……っ!」


 ヒカリは笑っている。顔は伏せているが、にはわかる。


「……ヒカリちゃん……最期くらい……顔見せて……?」


「……うんっ……! いいよ……っ!」


 少女に向けられた、一番

 彼女の頭に、以前貰ったをそっと添える。


「……ありがとう、ヒカリちゃん……! ……私と……になってくれて……!」


 伝えるべきことは伝えた。

 視界は涙で歪んで何も見えない。目を閉じるのに丁度いい。


「私の方が……もっとありがとうって思ってるからっ!」


 少女の額が何かに触れる。

 これは……ヒカリの額だろう。直前に覚えた感覚だ。

 せっかく目を閉じたというのに、これではヒカリを忘れられない。

 でも……それでいい。それがいい。

 これ程大切な存在は一生……いや、何度生まれ変わっても忘れたくない。


《異世界転生を開始します》


 少女の脳内に流れたその音声が、少女の終わりを告げる。

 しかし同時に響いた言葉があった。

 意識が明瞭でない少女に届いたかどうかは、定かではない。

 それでも、確かに呟かれたのだ。


「――大好きだよ」

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