第一章 『森の世界』

第一章1 『少女は救済を願った』

 一人の少女が、夕暮れ時の空の下で、家路を辿っている。ただ、少女の纏う制服は湿おり、夕風と共に少女の体温を奪う。

 その道は、決して田舎道とは言えないが、人通りが一切なく、都会として捉えるのももどかしい。

 しかしそんな些細なことを今まで気にも留めたことのない少女は、ただその中途半端な道を歩き、数分の後に我が家へと辿り着いた。


 少女の全身は未だ乾ききっておらず、おまけに湿った埃や泥が髪から靴先まで付着していた。

 学校で行われる、いつものの跡である。

 少女が玄関に足を踏み入れると、いつも通りの罵詈雑言がリビングから聞こえる。少女の両親の声だ。

 いつからこの関係が始まったか忘れる程、毎日毎日飽きもせず罵り合いを続けている。

 当然彼らは少女を出迎えたりなどはしない。

 最低限家の中を汚さないよう、少女はその場で汚れた制服を脱ぎ、洗面所へと足を運んだ。

 少女は、洗濯機に汚れた制服を無造作に放り込みながら、「自分ほど不幸な者は居ない、自分ほど人生を他人に穢された者は居ない」と考えていた。


 ――こんな人生ならば……いっそのこと……


 それは決して、少女の心の弱さがもたらした妄想でも、過剰な悲嘆でもない。

 リビングから響く男女の罵り合い、そして、たった今スイッチを押した洗濯機の中――少女にそう思わせるだけの紛れもない事実が、そこに存在しているのだ。

 外へ出ようと内に籠ろうと、少女に普通の人生は与えられない。

 そんな環境下で、唯一心を落ち着ける居場所――それは、少女の自室である。

 着替えを済ませた少女は、晩飯も用意されていないリビングになど目もくれず、その居場所へと向かった。

 あの夫婦の仲が良かった頃に気合いを入れて買ったこの一軒家では、二階に登れば一階の罵声はかなり緩和される。

 あの両親が少女の自室にまでわざわざ赴き、矛先を向けてくることはなかった。

 故に、ここが唯一の少女の居場所だったのだ。


 つい最近までは――


「……また……増えてる……」


 少女が自室の扉の前に立つと、その異変にすぐに気づく。

 部屋の扉の傷――刃物で意図的に付けられた傷跡。大きいのが二つ、小さいのが三つ。

 一昨日見た時は、小さい傷跡が三つのみだったので、どうやら加害者はそろそろ本気で壊しに来ているらしい。

 とはいえ、壊すために傷を付けられているわけではなく、加害者の行き場の無い憤怒が、ただ擲りつけられただけだということを、少女は理解していた。

 しかし、壊れていなければ何の問題も無い。

 建て付けが些か脆くなったその扉を開くと、少女は気にせず、自分だけの空間へ足を踏み込んだ。


 部屋に入ってすぐに鍵を閉め、少女は喟然きぜんとした。

 窓から夕日が差し込んでいるが、外を歩いていた時よりはかなり闇が混じっている。

 鞄をその辺に放り、カーテンを閉める。そして、部屋の電気を点けようと試みるが、点くことはない。

 少し前に、部屋の電気が切れてしまったのである。勿論、あの夫婦に相談するわけにもいかないので、数日間そのままにしている。

 日を跨げば良くなるかもしれないと思い、毎日帰ってきた時に壁のスイッチを押して確認していたが、恐らく直ることはないと、半ば少女も理解している。

 しかし、少女にとって部屋の暗さなど関係無く、スマホのライトで机周りを照らし、フックに掛けてあるワイヤレスヘッドホンを一度首に掛け、机上のパソコンに向かう。


 ――します。


 デスクチェアに腰掛けた瞬間、突如聞こえた謎の声に、無口な少女も思わず「えっ?」と発する。

 しかし、少女の声が部屋に響くのみで、謎の声がそれから聞こえることはない。

 パソコンの電源が入っていたのだろうかと思い、ディスプレイを確認するが、映っているのはスマホの光によって反射している黒い少女だけである。

 下の階にいる例の二人の声がこの部屋にまで、そして言葉が鮮明に聞こえるほど届くわけもない。そもそも、先程の声は夫婦のどちらの声でもない。

 不気味に感じつつも、数秒考えた後に疲れのせいだと方を付け、結局長考することはなかった。

 改めてヘッドホンをしっかりと装着し、パソコンの電源を入れようと本体の電源ボタンへ手を伸ばす。


 ――を開始します。


 ボタンを押す直前で、その声がまたはっきりと聞こえた。

 開始する……とは何のことだろうか?

 このヘッドホンはワイヤレスではあるが、こちらもまだ電源を入れてないので、システム音声が聞こえるわけもない。

 二度も聞こえると、気のせいにしようにもやや無理がある。しかし、この声の正体が何なのかを突き止める術を持たない少女は、ただ振り返り、スマホをあちらこちらへと向けて辺りを見渡すしかなかった。


「……何……なの……?」


 返事を期待したわけではないが、そう言わずにはいられなかった。

 静かにしていれば、もう一度その声が聞こえるかと思い、暫く黙って目だけを動かし続ける。

 しかし、元から音源など存在していなかったかのように、その声は聞こえる予兆が無い。


 ――ザァーーーーーッ!


 突如背後から聞こえた大音量のノイズ音。耳を澄ませていたせいで、余計に驚愕が増す。


「――な、何!?」


 反射的に起立してしまったことで、ヘッドホンが外れてまた首に掛かる。

 振り返って見ると、使おうとしていたパソコンが砂嵐を起こしていた。

 本来ならディスプレイの障害だと冷静に疑えるはずが、先程までのホラー現象が残した不安のせいで、それは少女に追い討ちをかけることとなった。


「……こ、壊れた……?」


 無意識に非科学的な現象ではないと自己暗示をすることで、自身の心を落ち着かせようとする。

 しかし、もし本当に壊れていたら……という相反する気持ちが、余計に少女の心を乱した。

 砂嵐の要因が何であろうと、少女にとっては恐ろしい事実が待っており、中々ディスプレイを調査する気にならない。

 それでも、鳴り続けるノイズ音に急かされ、少女はその手を動かさざるを得なかった。

 恐る恐るディスプレイに手を近づける。しかし、少女の細く白い肌の手の動きは遅く、パソコンはすぐそこにあるにも関わらず、調査に時間をかける。

 ようやくディスプレイのフレームに触れたが、砂嵐の状況は当然変わらず、画面をじっと見続けることしかできない。パソコンの操作や設定については人並みに分かる少女も、内部の回路やら仕組みやらがどうなっているのかまではまるで知らない。

 しかし、少女の心を落ち着けるためには、分かるはずもない直し方を模索する他なかった。

 にも関わらず、突然少女は手を止めた。とある重大な問題に気づいてしまったからだ。


「――電源……点けてない……よね……?」


 口に出してしまったことで、少女の背筋が益々凍りついた。

 電源の入っていないパソコンのディスプレイが、黒の鏡以外の仕事をするなどあり得ない。

 しかし今、少女の目の前にあるそれは、間違いなく謎の動力で砂嵐を表示している。

 不思議と感じたり、驚愕したりといったことは最早もはやない。目の前に存在する単純な不気味が、少女を襲った。


「……な……何で……?」


 無意識に後ずさりしていた少女は、すっかり背を隙間なく扉に付けていた。

 手に持っていたはずのライト代わりのスマホもいつの間にか落としてしまっていたようで、デスクチェアの足元付近から、光が拡散しながら上へ伸びている。

 だが、それは冷静を欠いた少女の視界に入らない。少女は今、光と音を自動で発している謎のディスプレイにしか注意を向けられずにいる。


 ――だからこそ、その画面に何らかの変化が起こった時、すぐに気づくことができたのだ。

 ホワイトノイズの中に、何か文字が入力されていく。距離が離れているせいで、それが何と書かれているのかまでは視認できなかった。

 ――そうして、少女が入力された文字を読もうと、背後の扉から身体を離した瞬間だった。


 ――ガンッ!!


 背後の扉が揺れた。鍵も閉められ、金具で固定されているにも関わらず、壁との隙間という僅かな可動範囲で大きく揺れた。

 伴った大音量の衝撃音に、ディスプレイに意識を集中していた少女は扉の方を向いて尻餅をつく。


「――瑞香みずかァ!! ……アンタも邪魔よォ!! 開けろォ!!」


 扉の向こうから聞こえた獣の声は、確かに少女の母親の声だった。獣と例えるに相応しく、純粋な怒りや憎しみを込めて叫ばれた言葉は、威嚇そのものであった。

 「ガンッ!!」「ガンッ!!」と鳴り続けるその衝撃音は、鳴る度に音量を増していく。その音量と共に、少女の呼吸の荒さが比例していく。


 ――そして、とうとう扉から薄い紅の刃が飛び出した。瞬時に抜かれ、また突き刺す。また抜かれ、突き刺す。

 扉に空いた細い穴から、光が差し込むと同時に、殺人を全く厭わない母親の瞳が映り、少女の恐怖心を限界まで掻き立てる。


「……や、やめて……来ないで…………!」


 か細く震えたその声は、扉が破壊される音にかき消され、少女自身の耳にすら届かない。

 そして同時に少女は理解した。本当は死を恐れていたということを。

 少女に度重なる不幸が、死という概念に纏わり付く恐怖を失わせていた。そう思っていたが、いざ目の当たりにすると、失っていたはずの恐怖がまだ存在していたことに気づく。

 特別生きたいと思わせる目的があるわけでもないが、少女はただ、『』と心で感じていた。


 ――異世界転生を開始します。


 恐怖心で埋め尽くされていた少女の意識が、その刹那だけ緩和する。

 長い間を置いたわけでもないのに、その声は懐かしく感じた。しかも、今度は明確に言葉の意味を理解できた。


「――異世界……転生……?」


 少女にとって、それは馴染みのある言葉だった。

 部屋に籠り、ひたすらパソコンを使って見ていたアニメや漫画で、そんな言葉をよく聞いた。

 それを思い出すと同時に、ふとパソコンの方へ振り返ると、ディスプレイに表示されている文字が確認できた。


[YES or NO]


 ホワイトノイズの中に入力されていたのは、至ってシンプルな単語のみ。だが本当にその単語のみで、それがを『YES』とし、を『NO』とするのかまでは明記されていなかった。

 勿論少女も何を意味するのか理解していない。しかし、もしかすると……

 そう考えて、恐怖で震える足でどうにか立ち上がる。

 そして、ゆっくりとディスプレイに近づく。

 背後で扉が破壊され続けていることを一瞬忘れてしまうほど、少女はとある衝動に突き動かされていた。

 少女が机上のマウスを動かすと、カーソルがディスプレイ内に表示される。どうしてその動作に至ったのか、少女自身にも分からなかった。ただ無意識に、そうしていたのだ。

 背後の穿たれた扉の孔から、獣がこちらを覗いていた。しかしまだ扉は完全に壊れきってはおらず、錠か反対の金具が壊れて扉が開くまで、獣は破壊を続けるつもりらしい。

 その獣の様子を見て、少女は心を決めた。

 カーソルを慎重に動かし、その言葉まで持っていく。


「私は……」


 他人に人生を穢され、幸せになることを許されなかった。もし新しい世界で、やり直せるのなら……!


 ――決意を固め、その文字をクリックする。

 するとディスプレイは表示をやめて、ノイズ音を消した。お陰で背後の破壊音がより強調される。


 しかし、それも全てもう終わり。

 私はこれから、普通に生きることができるのだから。


 徐々に頭がぼんやりとしていく。視界もぼやけ、おともあまりよく聞こえなくなってきた。

 思考もうまくまわらなくなり、からだのちからもぬけて、そのばにたおれこむ。


 ――その瞬間、待ち望んでいた言葉が聞こえた。


《異世界転生を開始します》

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