第三十五話 聖職者の追憶
――私は私の中に意味を持って、十字架を掲げたことがあっただろうか。
「救いよ来たれ」
魔物を祓い殺す時、私は快も不快も抱いたことはなかった。息をすることと同じだ。それに理由を求めたことなどない。
ただ装置のように、武器のように、その行いの意義も理解しないまま力を使う。
それが羽山詩連、私の生き方だった。
退魔師の後継として拾い育てられた私は、俗世の光を見ぬまま二十と余年を生きて来た。
浸礼魔法、体術、処世術、暗殺術、魔を滅するための技術を叩きこまれた。世間から身を隠し、魔物を狩り、時に手遅れとなった人間を安らかに葬るための術を。
誰かがやらねばならない汚れ仕事というだけのこと。聖者でも罪人でもなかったあの頃は、ある意味で気楽だった。
「羽山、そっちは終わったか」
「今ちょうどだ。誰かさんがもっと早く来ていれば、楽だったんだがな」
葉巻を咥えた相棒が魔物を討伐した頃に送れて来た。私の嫌味にいつもは笑って返すそいつだったが、その日は違った。
「……昨日、ウィルソンが殉職した。取り憑いた魔物を道連れに、命を絶った」
「そうか。日本の退魔師もついに、私達二人になったな」
「すまないが俺も、この任務が終わったら引退する」
「……野垂れ死ぬなよ」
普通の人生を知らず、退魔師としての正解と不正解も分からない。そんな当時の私が言えたことはその一言だけ。
「魔物を相手に命を賭し、誰にも感謝されることもない。悪いが、もう限界だったんだ……」
去っていく相棒の背中を追うことはしなかった。いずれそうなることは、口に出さずとも悟っていたからだ。
そこから数年しない内に、退魔師連合は消滅した。後継不足にくわえ、どこか別の組織で魔物の対処が可能になったとかなんとか。
日の当たらない世界で生きて来た私は、ついに日陰からも追い出されることになった。
「――どうすれば良かったのかね」
顔も知らない人々を守るため、世の安寧と秩序のため。そんな大義名分など実感したことは一度もない。がらんどうな人格。人の世ではきっと生きていけなかった。
だから、良かったと思っている。私があの異世界で味わった地獄でさえも。
「っ、なんだ、突然。魔力が……」
この世界に未練なんてなかった。虚空に現れた時空の裂け目に、導かれるようにして私はその中へ入っていった。
※ ※ ※
「もう術式専用銃の弾が切れる。そっちは!」
「獣人騎兵隊がやられた。防衛戦線が突破されるのも時間の問題だ」
そこかしこで死が蔓延していた。血と硝煙の匂い、焦げた肉に魔力が迸る音、兵士たちの断末魔。塹壕では何人もの獣人兵が運び込まれ、魔法使い達も攻撃の暇がなかった。
「撤退しよう。これ以上はもう……!」
「いやまだだ。アイツがいる」
無線からその声を聴いた。
『こちら術式火力班。『十剣鬼』、聞こえるか!』
「こちら『十剣鬼』。状況は把握した。もう目の前だ」
塹壕の上を疾駆し、十字剣の柄を握り締める。
「今だッ、シレン!」
剣片手に防衛線を飛び出した。
「旧史に名を刻む獣、変性してなお繁栄する化生、その罪業に印を明かせ」
詠唱に共鳴した魔力は浸礼魔法の一部となり、彼らの銃火器から魔力を狂わせる浄化の力を戦場の中心に放出した。
浸礼魔法は人間に害を与える技術ではない。それゆえ武器類を無効化し、流れる血を最小にして敵軍を捕縛した。
「反逆者めが……神の怒りを呼んで何がしたい。侵略か? それとも圧政か」
「我々の目的は虐殺ではない、神々への反乱だ。民が血を流すことを我々は望んでなどいない」
「戯言を。では貴様らは、何故神に歯向かうか!」
「――保証しよう。我々は人としてあるべき権利のため戦場にいる。汝らも含む全人類が持ってしかるべき権利を、神から返上させるため戦うまで」
楽しかった。人との関りが、誰かのために戦っているという実感が、あまりに大きな光だった。
「降伏せよ。もし、その矛を収めて頂けるのであれば、その代価に条理なき神罰を我々が討ち払おう」
――――神縛解放大戦。そこからまずは語ろう。
天上の神々が地上の人間を統治し、その気まぐれと災いをもたらす代わりに人の世に安寧を与える。それがその異世界の理だった。
理なき災、贄、罰。人間界へ干渉し傲慢の限りを尽くす神々。それに反旗を翻したのが『神縛解放勇軍』。
彼らは神に従う隷属国家、神の使徒、神そのものと戦争を繰り広げた。種族も国も問わず、腐り果てた統治者を討つ同志と共に、全人類の解放を掲げて戦ったんだ。
魔法も魔物も亜人族もありふれた世界。戦場を駆けながら、私は全力でその世界を生きた。初めて空を見た子供のように……
あの日々はかつてないほど満ち足りていた。
「頼りになるぜシレン。お前のその魔法、戦力、一旅団に匹敵するんじゃないか?」
「全く、たった一人で兵器みたいな暴れ具合だぜ」
「流石は『十剣鬼』。お前が来てから勇軍の死者も減った。本当になんてやつだよ」
退魔師にはない熱さを滾らせた戦友。彼らの前では私は調子の良いことを言っていたことだろう。
「苦しむ民の代弁者として立ち向かおう。私はただの剣だ、皆のために使ってくれ」
――ある集落に帰った日。人の温かさを知った。
「おお、新兵の兄ちゃんか。話にゃ聞いてるぜ。若ぇのに熟練の獣人戦士並みの強さだってな」
「シレンさん、この前はダチを助けてくれてありがとな! 今度ご馳走させてくれ」
「おじさんつよいね! それどんな魔法なのー?」
「兵士様、その魔法はどのようなものなのですか? 神々の魔法とは似ているようですが、それとは明らかに違って……」
「こらこら、皆さん。兵士さんがお困りだろう」
自分に向けられる感謝、目の当たりにする誰かの笑顔と幸福。その全てが私にとっての未知だった。だから初めは胸に込み上がって来るそれの正体に気付かなかった。
「そうか」
空の器に注がれたそれは、喜びに違いなかった。
「こうやって人は、笑っていたのか」
腹の底から出した声が、これほど心地の良いものだったとは思いもよらなかったさ。
「……ハハハっ」
私の人生は確かのこの瞬間から始まった。
それから間もなく、もう一つの感情を知った――――
「……なるほど、これを人は絶望と言うのか」
その集落が燃えて消えていた様を見た時、私は『悲しみ』を知った。
神罰として下った雷霆が落とされ、あれほど活気で溢れていた町は荒野と変わり果てた。その理由が解放勇軍に与した罪だと知った時、私は人生で初めて激怒した。
「……生存者は誰もいなかった。骨の一つも落ちちゃいねぇ」
「なあシレン、こんなのってあんまりだぜ」
「ああ、魔物にも劣る下卑た虐殺だ。度し難いな、うむ。今にも全身が沸騰しそうだ」
――激情は私を結論に至らせた。神という魔を世界から絶滅させねばならないと。
「退魔執行代理人、『十剣鬼』羽山詩連。神を名乗る害獣を、欠片も残さずこの世から屠り去ってみせよう」
※
だが地獄は思いのほか長かった。
「背信者どもめ! 神罰の代わりとして、鉛玉の巣となるがいい」
「すまない。銃を降ろしてほしかっただけなんだ」
「な、はやっ――――」
その兵士が言葉を終える前に、首を折った。
殺したいなんて思ったことはない。退魔師として生きて来た時とこの感情に変わりはない。だが決定的に違ったのは、人を殺す時の抵抗感の大きさだ。
魔物を討伐していた時とは違う。これは明白な罪、ただの人殺しだ。
時代が移り、いくら未来でこの行為を正義と讃えられようと、彼らの笑顔を奪ったことに変わりない。
「せめて、苦しまず……」
そんな言葉は加害者の良い訳に過ぎない。その死体の首に架かった写真入りのソケットがその証拠だ。
「家族がいたんだな。キミたちの笑顔も、私が奪ったのか」
それから戦場を駆ける度、涙を流さない日はなくなった。
※
「へい、しさ……た、すけ」
「すまない。私の魔法では、こうなってしまっては治せない」
「け、て…………」
名も知らない少年の吐息は静かに止まっていた。
硝煙と血の香りが漂う荒野を、十字架を持って駆けたあの焼けるような日々。意味を持たず魔物を狩っていた頃が懐かしく思えるほど、この胸に痛みを焦がしつけていた。
「涙の味なんて、知らない方がマシだった」
だが立ち止まるという考え自体、私の中には存在しなかった。
「だが知ってしまったからには、忘れはしない。いつかこの味を感じる必要がなくなる日まで、私の地獄が終わることはないだろう」
怒りが、悲しみが、かつて民からもらった喜びという無償の愛が、常に私の背を押してくれていたのだ。
――私は止まらなかった。たとえそれが、憎き神々の一柱の命に迫ろうとも。
『なんだこの人間は、なぜ死なん! なぜそこまでして、神に抗うッ』
「聖者を気取るか圧制者。私は怒りだ、怒りの代行者だ。人類が貴様らへ募らせた怨讐の牙が一つ」
『やめろ、ひれ伏せ! 我は――――』
「我、魔を滅する者なり。獣にかける慈悲はあらず」
浸礼魔法の詠唱を前にし、その神は燃えカスとなって消えた。
怒りも後悔も踏み越えた灼熱は私を鬼へと駆り立てた。
鬼になったからこそ、私は天上で嗤う者共の喉笛へ食らいつけたのだろう。
「たった一匹の神如きが。人間の決意に勝ると思うな」
――――たとえ世界の破壊者になろうと、神に刃を突き立てたことに後悔はなかった。
「今を生きる人間のため、私が全ての神を殺そう」
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