僕の無口な妻
のじか
一話完結
僕の妻は無口だ。
僕も口下手で、つまり似たもの同士という事なのだろう。
満員電車が苦痛だった。
知らない人間の鼻息まで聞こえてくるような空間に
好き好んで閉じ込められる奴はいないだろう。
そこで僕は調べに調べ尽くして
コスパの良さげなワイヤレスヘッドホンを購入した。
口コミの評価は高く、搭載されたノイキャン機能が
かなり優秀とのことだった。
そしてそれは本当だった。
僕は毎日の通勤にヘッドホンを着けて行くようになった。
着け心地も快適だったから、そのうち家の中でも着けるようになった。
お笑いの動画や野球中継を聞き流しながらやる家事は捗った。
大した問題ではないけれど、難点もある。
妻に話しかけられても聞こえないのだ。
妻がかなり大きな声を出すか、僕の肩を叩いてくれないと気づけない。
一度だけ、スマホで動画を見ながら夕食をとっている時。
ふと顔を上げると妻がぱくぱくと口を動かしている。
僕に話しかけているらしかった。
ヘッドホンをすこしだけずらして
「全然聞こえないから、後にしてくれる?」
と言った僕の声は思いのほか大きくなってしまった気がする。
でもそんなことがあったのは一度だけ。
元々僕らは無口な夫婦だから、特に困ることは無かった。
しばらく経って
この日はプロ野球のドラフト会議直前だった。
ネットでは予想動画が競い合うように公開されている。
今日は僕が夕食を作る日でもあった。
僕は帰宅するとヘッドホンを着けたまま料理をしながら
推し球団の情報を念入りに、貪るように耳から摂取していく。
食卓に料理を並べる頃、向かい側に妻が座る。
食事を口にしながら、元プロ野球選手の解説動画を見る。
彼の予想とその理由に、僕は納得し、また彼の意見が僕と近しい事に
どことなく満たされた気分になる。
次の動画。
その次の動画。
その次、
次、
次、、、
欠伸がでた。
ふとスマホの時刻が目に入る。
随分と時間が経過していた。
いつの間にかテーブルの上は片付いており、妻は居ない。
そういえば食後に妻が片付けてくれていた気がする。
僕も寝る支度をする事にした。明日も仕事だ。
僕は伸びをして立ち上がる。
とりあえずトイレで用を足す。
「この監督のね、特徴みたいなもんで。気が合うかとかね、そうなんと言うか技術じゃないところを」
寝室の引き出しからパジャマを取り出す。
脱衣所へ持っていく。
「やはりね、今の球団は前田に頼り過ぎだからね、監督もここは問題視してるでしょ、流石に」
洗面所で歯を磨く。
歯間ブラシとマウスウォッシュをする。
「あそこは強豪だからね、今年の甲子園での活躍は言うまでもないしね。絶対にあの選手は候補に上がるでしょ、そうなると次に」
風呂場の戸に手をかける。
「あるね、あると思う。この選手はね、俺は結構いいと思うんだけどなあ。年齢がいってるからリスキーだけど。面白いからどこか獲ってくんないかな」
戸を開けるとそこには妻がいた。
あれ、と僕は思う。
風呂場の鏡が蜘蛛の巣が張った様にひび割れている。
妻は浴槽の縁に尻を乗り上げ
両足を不自然にこちらへ突き上げている。
湯船は真っ赤で
妻の上半身はその湯に浸かっていた。
「今回のドラフトはね、ほんと期待しかないでしょ、そりゃあね」
ハアハア
誰かがすぐ耳元で息をする。
ドッドッド
まるで滝が流れるような轟音もする。
それがどちらも自分のものだと気づいて
僕はようやくヘッドホンを外した。
その後のことはよく覚えていない。
「自宅での転倒事故で亡くなる方は、案外多いんですよ」
無感情な声で警察にそう言われた。
妻の死因は溺死だった。
風呂場で運悪く足を滑らせ
運悪く鏡に強く頭を打ちつけ
恐らくその時点で意識が朦朧としていたのだろう。
浴槽の縁に手をつこうとした痕跡があった様だけど
それは上手くいかなくて
運悪くそのまま頭から湯船に倒れ込んだようだ。
アパートの壁は結構薄いからか
隣人は重いものが落ちるような鈍い音を聞いたと言っていたらしく
恐らくその時刻に頭を打ちつけていたようだ。
僕が風呂場に行くより2時間以上前の出来事だった。
僕は
僕と妻は
それなりに仲が良くて
お互い仕事をして
お互い家事をして
妻は
家を持つなら戸建てにしたくて
いつか猫を飼いたいと思っていて
近所のカフェの週替わりランチが気に入っていて
それで
あれ
そこで僕は気づいた。
妻は本当に無口だっただろうか。
少なくとも僕と妻は、どこかの時点まではよく話しあっていたじゃないか。
お互いのこと、今後のこと。
話し合って聞き合って、すり合わせて来たじゃないか。
少なくとも以前は。
静かになったリビングでそれに気づいた時、僕は叫んでいた。
テーブルに置きっぱなしにしていた、ヘッドホンを床に叩きつけていた。
妻はどんな声をしていたっけ。
そんなことを考えながら。
僕の無口な妻 のじか @Nojikah
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