第2話 蒼い空


 僕は怖くて、本当に怖くて、スクールバッグを抱きしめてトイレの中で震えていました。何も考えられないくらいに、ただ怖かったんです。


 だけど僕の心臓が不協和音を刻み始めた頃、助けは突然現れました。僕がどれ位の間そうしていたのか分からないけれど、女性達の囁き声を搔き分けるように男性の声が聞こえたんです。


「救急隊の者です。ここに急病人がいると聞いて駆けつけたんですが、大丈夫ですか?」


 その声を聞いた瞬間、僕は情けないけれどその場に座り込んでしまいました。だって、本当に安心したから……




 病院に運ばれる救急車の中で、僕は先程の光景を思い出して震えが止まりませんでした。震えの原因は、担架に僕を乗せて運んでいく救急隊員の男性達を恨めしそうな顔でじっと睨んでいる女性達の表情です。子供から大人まで何十人もの女性達に睨まれている男性隊員も、訝し気な顔を彼女達に向けていました。


 制服姿の女子学生やスーツ姿の女性会社員、お洒落な服装に身を包んだ若い女性も中年の女性も、中にはまだランドセルを背負った小学生の女の子だっていました。でも年齢も何もかも違う彼女達が、皆一様に同じ表情で担架の上の僕を見つめていました。あの何かを訴え掛けてくるような、ねっとりとした熱い視線を、僕は忘れらそうにありません。


 病院に到着すると、僕は診察室の前の廊下で暫く待つ事になりました。僕の症状を診てくれた救急隊員の人が、あまり緊急性は無いと思うけど心臓の持病の事もあるので、ちゃんと診療を受けられるようにと手配をしてくれたんです。


 すると誰もいない廊下の長椅子に一人で座っている僕に、近付いて来る足音がしました。やっと一人になれて、落ち着きを取り戻し始めた矢先のことです。

 僕の胸に、またさっきの恐怖が蘇ってきました。もし誰か知らない女の人が僕に向かって歩いて来ていたら、どうしようって思った。でもね、違ったんだ。


 ドキリ……って、僕の胸が変な音を立てた。


 恐る恐ると足音のする方に向けた視線の先に、歩いてくる彼女の姿を認めた僕の心臓は、きっと動くのを一度止めたんだと思う。あっ…… えっと、これは別に大げさじゃな表現じゃなくって、本当にそれ位、驚いたってことです。


 だって…… だってね。


 僕がいつも駅で待っている人は、彼女だったんです。


 姿勢よく歩く、あの佇まいも……


 まるで踊るように揺れる、あの制服のスカートも……




 そして世界で一番綺麗な、あの…… 鳶色の長い髪と瞳の深い色も……



 僕の前まで来ると、彼女は歩くのを止めました。いつも僕の目の前をただ通り過ぎてゆくだけのあの女性ひと。その女性が今、僕の目の前に立っていて、あの鳶色の瞳に僕を映しています。



「……さっきは、大丈夫だった?」


 初めて聞く彼女の声は、思っていたよりもずっと優しい音色でした。でも、その音色はまるで……?


「さっき駅で、救急車を呼んだのは私なの。でも、このまま此処に居ても同じ事になる。だから直ぐに、場所を変えましょう」


 暫く待っても何も応えようとしない僕を、不思議そうな顔で彼女が見ています。小首を傾げた仕草が想像していた彼女とまるで同じだったので、僕は余計に夢の中から覚めることが出来ずにいました。でも彼女に優しく触れられて、僕はようやく我に返りました。


「……どうしたの?もしかして体調が悪かったり、怪我をしていたりする?」


「あ、ああ、ごめん。そうじゃないんだ。ちょっと驚いただけ……」


 僕の言葉を聞いた彼女が、安心したように息をつきます。


「……そう、よかった。あんな状況じゃ驚くのも無理もないわ。でも、もう少しだけ頑張ばれる?このまま此処に居たら、あなたが危ないの」


 危ないという彼女の言葉に僕が戸惑っていると、廊下の向こうから沢山の足音が聞こえてきました。その足音の正体は、大勢の女性達です。

 こちらに向かって歩いてくる、医師や看護師の服を着た女性たち。僕が本当に怖かったのは、その人達が一様に、またあの表情を浮かべていたからです。



「……何で、みんな僕を追いかけて来るんだ?」


 僕がゴクリと喉を鳴らすと、目の前の彼女が右手を差し出しました。僕が慌ててその手を握ると彼女は僕の手を引いて、足音とは反対の方向へと走り出しました。


「詳しい事は分からない。とにかく今は、此処から逃げましょう」






 病院を抜け出した僕達は、人通りの少ない裏路地へと逃げ込みました。そのまま二人で路地を駆け抜けて、一気に病院の裏手にある山の上の公園まで行く作戦。今の時期のその公園は、殆ど人がいない筈だから。


 ハァハァと荒い息をはきながら、僕は何だか少しだけ楽しい気持ちになってきました。爽快なくらいに早いスピードで流れていく景色が気持ち良かったし、体を駆け抜けていく風もとても心地良かった。

 繋いでいる手が離れない様に、僕達は肩を並べて走りました。そして無事に、公園へと辿り着いたんです。


 公園の中心にあるパーゴラの近くまで来ると、僕は思わず芝生の上にゴロンと横になりました。


 ……思いっきり走ったのなんて、何年ぶりなんだろう?


 肩で息をしながら見上げた空は雲一つなくって、とても澄んだ蒼です。綺麗に刈られた芝生の青い香りと体から湧き上がってくる熱気が合わさって、僕が今、生きているんだって教えてくれました。



「あはははっ……!」


 それが堪らなく嬉しくって、僕は思わず笑いだしてしまいました。すると辺りの様子を注意深く観察していた彼女が戻ってきて、僕の様子にその鳶色の瞳を丸くしています。


「どうしたの?何がそんなに可笑しいの?」


「いやだって……!空があんなに蒼いからさ!」


 僕が嬉しそうに空を指さすと、キョトンとした顔で彼女が空を見上げました。そして眩しそうに空を見つめながら、こう言ったんです。


「……本当に、笑っちゃうくらいに蒼い空。

      ふふっでもこんな状況なのに、おかしな人なのね」


「ぷっ――!本当だね。もう直ぐ死んじゃうっていのに、こんなに心から笑えるなんて、おかしいよね」


 僕の言葉に、彼女の顔から笑顔が消えました。



「……知って、いたの?」



 その問いに、僕は頷きました。


「僕は、寄生蝉に寄生されたんだろ?寄生蝉に寄生された雄は……」


 続きの言葉を聞きたくなかったのか、彼女がキュッと目蓋を閉じました。



「……一週間後に、死ぬ」


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