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 ルシアンは廊下の突き当たりにある小さな部屋に僕を連れて行った。中には確かに見覚えのある品々がぎゅっと詰めこまれていた。彼はできるだけきれいに並べようと努力したようだったが、僕の持ち物は勝手にごちゃついていた。


「私も一緒にいようか。ひとりの方がいいか?」


 僕は少し考えた。


「ひとりで」


 ルシアンは去り、僕は部屋の中の雑多に向き直った。

 部屋の三分の一を占めているのは化粧台だった。これは閉館した劇場からもらってきた役者用のもので、鏡の周りにぐるりと電球が配置されている。鏡の縁は銀箔が剥げかけていたし、一番下の電球に焼かれて台のペンキがめくれて黒ずんでいるけれど十分に素敵だ。

 かつて、僕はタダで手に入る美しいものはなんでも持ち帰っていた、それを覚えている。舞台で使った色んな形の帽子、止まった懐中時計、ドアノブは三ダースあるし、壊れた電話のベルは部屋の入り口にくくりつけていた。それはいま本棚の一角に置かれている。

 物言わず語りかける僕の仲間たち……。


 僕はコンセントを探し出し、少し手こずりつつ化粧台のプラグを挿した──スイッチが入りっぱなしだったらしく、すぐに明かりがついて部屋の中はふわっとオレンジ色になった。

 僕は少し埃をかぶった鏡の前に立ち、しげしげと自分を眺めた。下半身の石柱も上半身の瓶や管もみんな奇妙で、いつかお祭りで見た自動人形オートマトンみたいだった。ゼンマイを巻かれて、設計された通りの絵を描き続ける……つまり、人間と同じ?


 僕は片手を台についてぐっと自分の鏡像に近づき、じっと自分の瞳を見つめた。暖かな色味の光の中で、僕の目は茶色っぽく見えたが、どちらかといえば緑色に近いのを知っていた。

 僕は化粧台に付いている電気のスイッチに手を伸ばした。

 かち、かち。

 電気が点くと、光を浴びた瞳孔がぐっと縮まり、はしばみ色の襞の上に灰色の霜が広がる。ところどころに浮かぶ緑色は渦巻きながらどのクレバスの下に落ちていこうかと思案し、まつ毛の長い影が震えながら瞳孔に突き刺さるのを感じた。明かりを消すと、瞳孔の黒が色たちを押しやって動きを止めてしまう。

 僕は何度も電気のスイッチを押し、その変化を眺めた。かつて、僕は毎日のようにこれに夢中になっていた。今でもこれを美しいと思う。

 僕は恐れたほど変わっていない──変えられていない、という考えが浮かんだ。

 けっきょく誰も僕を治せなかったのだ。


 僕は思い出した。

 僕は病院に通っていた。最初のうち、僕は通院を面白いと思っていた。もちろん僕が病院に行くのはそういう決まりだったからだし、医者の方は僕を好きではなかった。僕は刑務所か病院か選ばなければならなかった。きっと刑務所には骨格標本やレントゲン写真や悪くなった臓器の模型は置いていない。病院の方がずっと楽しいはずだ──後に、僕が行くことになる精神科にはそういうものがないことを知り、少なからずがっかりするのだが。

 そもそも僕は刑務所に行くようなことはしていないはずだった。僕が過ちを犯したと言う人もいれば無実だと言う人もいて、本当のところは僕にもよく分からない……今でも。ともかく、僕がやったとされている恥ずべき行動は身に覚えがなかったので、覚えていないことをやったのだとしたら、やはり僕は医者にかかるべきなのだろう。


 僕が通っていたのは個人でやっている小さな精神科だった。清潔なのに大きな影に取り憑かれいる、病院特有の雰囲気のせいで、病気でなくても病気のような気持ちになった。

 医者は──確かエムリンソンという名前で──いつも自分を親切な人間に見せようとしていたが、出来はいまひとつだった。僕が彼を好ましく思っていた理由は彼が本物の良い人ではないからだ。ばら撒かれる親切心は僕の首を絞めて窒息させる。

 先生は僕に色々と尋ねてきた。最近どんな夢を見たか、という問いに「大きなロブスターと闘う夢です」と答えた時、彼はノートに何かをメモした。いったい何の暗喩だとみなしたことやら。

 しばらくして、僕がエムリンソン先生に飽き、先生も僕にうんざりした頃、僕はもっと本格的な施設に移ることになった。


 ……病院に通う間はルシアンに会えなかった。これは彼とは関係のない問題で、僕は彼を巻きこみたくなかった。ただ、僕は彼に会えないのが悲しかった、それを覚えている。


 僕は化粧台の引き出しを開いた。そこには僕の商売道具が入っている……まずは焼いた骨のように白いドーランの缶、僕は蓋を開けてたっぷり刷毛ですくいとり、むらなく顔に塗った。続いて灰色の影を入れる、照明は表情を白く飛ばしてしまうから……眼窩のくぼみ、鼻筋、頬骨、顎。それから黒々としたアイライナーと筆を取った。僕は自分の輪郭を縁取る……目のきわ、目尻、目頭、下瞼。アイライナーは乾いていて筆は毛羽立っていたので、上手くできなかった。


 僕はかつて、舞台の上にいるのが好きだった。僕は本物でいるのが──本物のふり・・をするのが苦手だった。きっと僕は本物なんて持っていない、何ひとつ。だから舞台の上で美しいにせものを演じていた。


 僕は少し後ろに下がって自分の姿を見た。すると、予想もしていなかった怪物が僕を見返してきた。


「あいつを見てごらん!」


 鏡の中には、暗い色の髪の、顔に白いドーランを塗りたくって隈取りをした、若い男の姿があった。僕自身、それとも僕ではない? にせもの、それとも僕が手に入れることはできない本物の僕?

 僕の胸にあるからの球体がカタカタと震えた。呼吸が早くなる……鳥籠の中の革袋がパタパタと伸び縮みしている。

 僕は間違っていたのか?

 僕は目を閉じ、自分を落ち着かせようとした。ここは舞台の上ではない。僕はひとり。本物であれにせものであれ、僕を見ている者はいない。


「恥知らず!」


 しかし、観客たちは現れた。彼らはみんな、にせものを本物だと感じるために来ている……そして、彼らは僕が演じているものの中に、自分が見たくないものを──むしろ、見たいもの・・・・・を見出したのだった。


異常者フリーク!」


 僕は間違っていたのか……?

 僕はここを離れたいが、動けない。脚がないからだ。僕の体の中の革袋が萎む。どうやって空気を入れたらいい? 僕の頭の歯車が軋み、隙間から色が漏れ出して耳の奥を濡らす……声が、とても多くの声が叫び始める、ひどい眩しさが僕をかじる、言葉は見えないが顔が見える、黄ばんだ歯と無精髭、下品な色の口紅と尖った舌、着飾った意地悪ないばら、僕を引き裂こうとする彼らの指、肉のついた、尖った爪の、茸のように増殖する──そして彼らの視線、音も影もなく襲いかかる棘、僕は視線から逃れたい、だが僕は動けない、僕をぐるりと取り囲む電球がじりじりと焼く、視線が僕をがんじがらめにする、頭の中で色がぐちゃぐちゃの洪水を起こし、僕は溺れている──。

 僕はドーランの缶を掴み、鏡を叩き割った。叫び声が聞こえた。これは僕の声。革袋が大きく膨らみ、萎み、また膨らむ……。

 床の上ではガラスの破片と共に、白い粉が床に撒き散らされている。

 ここには僕ひとり。

 だが、部屋の扉が開いて誰かがすっ飛んできた。


「リース──」彼は化粧をした僕の顔に驚いてから、割れた鏡と僕を見比べた。「怪我はないか?」


 ルシアン。彼は叫ばず指を差さない。彼の視線は棘を持たない、リラの枝のようにしなやかで優しい。


「たぶん……」僕は呼吸の合間に答えた。


 彼は僕の手を確かめ、頬に触れ、体の中の瓶や革袋を調べた。


「君をひとりにするべきではなかった」彼は呟いた。

「……仕方なかったんです」と僕。


 僕たちはお互いが違う時間について話していることに気づいていたが、いずれにせよ相手の意見に賛成できなかった。


「何があった?」ルシアンは言った。

「……僕が最後に舞台で何を演じたか、思い出しました」

「『青の物語』か……」


 むかし、僕とルシアンは一番美しいものについて話し合い、彼は「黄昏の青」だと言った。僕はそれを素晴らしいと思い一人舞台を作り、はじめのうちは評価もまずまずだった。しかし、誰がどんな噂を立てたのか、徐々に糾弾の声が上がるようになったのだった。

 彼はそのことで自分に非があると考えている、と僕は気づいた。

 

 ルシアンは化粧台の電気を消し、僕たちは一緒に物置きを後にした。彼が僕の化粧を丁寧に拭い取った後、僕は脳内に溢れる色の洪水の後始末に午後いっぱいを費やした。

 いつまで経っても水音が鳴り止まない、と思ったが、それは実際に外が土砂降りになっているせいだった。



 ルシアンは僕の夕食に色々な紙切れをどっさり出してくれた。辞書や新聞記事の切り抜き、仔馬が印刷された包装紙、吊り下げられた豚が描かれた肉屋の広告、フィレンツェやウィーンの消印の押された古い葉書、もう存在しない人びとの褪せた写真。

 僕は一つ一つ柄を確かめ、文章を読み上げながら飲みこんでいく。あるメモにはこんな詩が走り書きされていた。


《おお、かつて使い果たしたため息と涙が、

 我が胸に、我がひとみに戻って来れば良いものを》*


 僕はしばらくそれを眺めていた。ルシアンが横に来てそれを読み、僕の手から抜き取った。

 無言のまま、彼はそれをくしゃりと丸め、捨てた。


 食事を終え、僕の気持ちはだいぶ落ち着いた。

 ルシアンは壁にかかっている振り子時計の蓋を開け、鍵を取り出してゼンマイを巻いた。カチカチカチ、カチカチカチ……以前は、その作業は僕の仕事だったような気がする──それが終わると彼は僕の後ろに屈み、石柱にある鍵を回した。時計よりも固いカタカタカタ、という音がした。

 僕はぼんやり突っ立ったまま、まだ何か足りないという気がしていたが、その正体は分からなかった。


「今夜はどこで休む?」ルシアンが言った。


 僕はひとまず夜明けを過ごした部屋に戻ることにした。



 僕は再び寒々とした部屋でひとりになった。戻ると言ったのは僕だけれど、何となく落ち着かず、自分の体の中を覗きこんだ。魚のおぼろな影が瓶の底で揺れている。眠っているか分からないが、いずれにせよ目は開いたまま。僕は考える──夢の中にいる時、魚は何を見ているのか……。

 僕は顔を上げて暗い窓を眺めた。雨は止んでいたが、気温が低いらしくガラスが少し曇って見える。通りに車が停まり、ライトが窓に張りついた指紋を浮かび上がらせた……僕の知らないうちにこんなにたくさんの手が触れていたとは。この部屋には見えない手がどのくらいいるのだろう。

 車が走り去った。窓は再び暗くなり、そして闇の中から見えない手の影がぼんやりと現れた。彼らは僕が見ていることを知らない。だから僕も見えていないふりをする。彼らが僕の頬を撫で、髪の毛を引っ張り、忍び笑いを漏らす間、僕はただじっとその動きを目で追わないように耐えていた。

 知らんぷりをしていると、見えない手は僕をつつくのに飽きてしまって、再び窓ガラスに張りついて新しい指紋をつけて遊び始めた。


 僕は壁の文字があるあたりを凝視した。それは闇を吸収し、どんどん大きくなって部屋中を侵食するように思われた。

 頭の中で色が氾濫しそうな気配を感じた僕は部屋を出た。車輪がカラカラと回る。ルシアンは気づくだろうか。彼と一緒に夜を探検したいような、ひとりでいたいような。

 ガラス瓶の中で魚が宙返りをし、水がポチャンと鳴った。

 僕は廊下の電気のスイッチを探し当てた。照明のガラスは天井に柔らかな模様を描き、僕は少し安心した。僕はそのまま進み、エントランスに着いた。

 こちらのスイッチは見つからなかったため、僕は暗がりで蜷局を巻く階段と対峙することになった。それは廊下からの明かりのせいで影が奇妙に伸びて、恐ろしく巨大に見えた。剥き出しの裏側は文字通り蛇の腹のようで、このまま僕を締め殺すこともできそうだ。

 ふと、最後に階段を上った時のことを思い出した。この家ではない別のところだ。何者かが、僕を──僕の肉体を?魂を?──上の階のどこかへ連れて行こうとして、僕は混乱していた。彼らのうちの一人が「悔い改めろ、さもなくばお前は地獄に落ちる!」と濁声だみごえで言うのが聞こえた。それから……。


「リース」誰かが僕を呼んだ。


 ルシアン。彼が隣にいた。

 僕は嫌な記憶を振り払って言った。


「起こしましたか?」

「君の……動く音が聞こえたから。どうかしたのか?」

「ただ、眠れなくて……ここで、階段のことを思い出しました」

「そうか……」


 僕の視線が二階に移るのを見て、ルシアンが囁いた。


「落ちていきたいのか?」


 奇妙な質問だ。僕はその言葉を反芻した。


「落ちる……」


 頭の中で、位置のずれた歯車が動こうともがいている。


「君は病院で──落ちたいと言っていた、そう聞いている」ルシアンは悲しそうだ。


 落ちる……お前は地獄に落ちる……。

 僕は思い出した。


「僕は落ちたかった……」僕はゆっくりと言った。「そして、落ちた」

「なぜ?」


 僕は階段を見上げた。


「上に行ってしまうと……たぶん、あなたに会えなくなったはず」きっと彼らは僕がルシアンといることを許さなかったはずだ。「だから、落ちた」

「そうか……」


 僕はいま彼の隣にいる。つまり、あれはうまくいったのだ。その対価が、この奇妙な体だったとしても。

 僕は落ちた。


「僕はここにいます」僕は言ってみたが、このことがちゃんと伝わる気はしなかった。

「よかった」彼は相変わらず悲しそうだった。


 ルシアンは僕を部屋まで連れて行った。

 扉を閉める前に、彼は僕の頬にキスした。


「おやすみ、リース」




◆注

* ジョン・ダン『聖なるソネットⅢ』より。

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