The Folly Tower

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⚫︎


 僕は瞼を開けた。その部屋は薄暗かった。


 僕は何度か瞬きをして、目の前の壁に焦点を合わせた。どのくらい離れているかは分からないが、そこには何かの言葉が刻まれていた。

 僕は罅割ひびわれた声でそれを読み上げた。


「神の犠牲いけにえは砕かれた魂……悔い改め、砕かれた心……」


 その先は暗すぎて読めなかった。


 僕はぼんやりと明るい、右の方を向いた。カーテンも鎧戸もない窓。天井に届くほど長く、十二に区切られている。靄がかかっているのか、外の様子ははっきりしない。風がかすかに窓枠をカタカタと鳴らしている。

 夜明け前だ、と僕は思った。


 ふと、僕の頭に疑問が浮かんだ。僕はいま、立っているのか?

 僕は自分の体を見下ろした──ある意味、僕は立っていた。僕の体には下半分がなかった。肉体があるべきところには固い大理石があった。僕はその縁を指でなぞった。ひんやりした四角の柱。それはぴったりと上半身にくっついていた。

 その上半身も奇妙だった。僕は裸だった。体の前には肉がなく、中が剥き出しだった。鳥籠のように針金を編んで作られた肋骨の内側で、革でできた肺が萎んだり膨らんだりしていた。少なくとも呼吸はしている、つまり僕は生きているらしい。腹にはずんぐりしたガラス瓶とくねくね折れ曲がったパイプ、そして肺の間には金属の球体が収まっていた。僕が肋骨の隙間から指を差しこんで球体をつつけば、カンカンと軽い音がして中が空洞なのを教えてくれた。目を凝らすと、鍵穴と蝶番が付いているのが分かった。

 僕は鍵を持っていない。


 ここはどこなのだろう。そんなことはどうでもいい気もした。すべてが焼き尽くされた後の燃え殻、墓石の中で時間に置き去りにされた塵のような、虚ろな感覚。

 僕は窓の向かいの壁を向いた。そこには何もなく、僕と窓枠の影が不明瞭に混ざり合っていた。ここにいるのは僕ひとり。

 僕は朝が来るのを待った。そうすれば良かれ悪しかれ、なにかが起こるだろう。


 頭の中に煙のような思考が浮かんだ──世界でいちばん美しい色は黄昏の青。青い時。転げ落ちそうなほど深い藍色の中で、すべての光が金色に輝く魔法の時間。夜明け前の青ではいけない、それでは覆いを剥がされてしまう。

 覆いを剥がされる……僕は昔、それを恐れていた気がする。あとは何も分からなかった。自分の名前もこれまでに起きたことも、なぜ体がこんな風になっているのかも──かつてはこんな風ではなかった、それは間違いなかった。

 だが、少なくとも僕は青色を知っている。



 小夜啼鳥さよなきどりがジャグジャグと鳴くのが聞こえた。

 窓の外は多少明るくなったが、曇っているらしく暗い灰色から明るいトーンの灰色に変わっただけだった。

 部屋は床から天井まで白く、いよいよ墓場じみて見えた。何もないのではなく、すべてが拭い去られた後のような、淡い滲みと罅に彩られた空虚な隙間。

 鉛色の光を浴びて、壁に刻まれた言葉だけが黒々と浮いている……その続きを読めるようになっていた。


「神よ、あなたはそれを蔑まれない……」


 それは聖書の言葉のようだったが、確信は持てなかった。僕は信心深くなかった。それに、神が過ちを犯さないのなら、僕の苦しみは神が計画したことで、きっと彼は僕を愛していない……僕は彼を愛せない。


 僕の後ろで扉が開く音がした。誰かが部屋に入ってきて、僕の前に立った。

 その男を見て、僕は「美しい」という印象を持った。秀でた額、深い眼窩、鼻はやや右側に曲がっているが、アンバランスさが不思議と魅力を持つ、秋のような顔。褪せた色の髪は由緒ある銀食器のようにきらきらとしている。

 僕は相手に名前を尋ねようとして言い淀んだ。自分はこの人物を知っているはずだという感覚があった。

 僕がなにか言葉を口にする前に、彼は微笑んで自分から名乗った。


「私はルシアン」それから念のためという風に続けた。「君はリース」


 その音はあっさりと僕の中に馴染んだ。R-H-Y-S。たった四つの文字。どうして思い出せなかったのか分からないほどだった。


「リース」


 僕が自分の名前を口にすると、男は頷いた。


「君の名前だ」

「あなたはルシアン」


 僕はすんなり男の名前を呼んだ。彼は僕よりずっと歳上だったが──自分が何歳なのか思い出せなかったけれど──僕たちは名前で呼び合うくらい親しかったに違いない。

 ルシアンは壁に書かれた「犠牲いけにえ」と「砕かれた」の間に立っていた。


「気分はどう?」


 僕は首を傾げた。僕は前からこんな風・・・・だったわけではないのは確かだったが、不快ではなかったし、この状況が間違っているとも思わなかった。


「悪くないと思います。あなたは?」

「私は嬉しいよ。君が目覚めたからね」

「僕は長いこと眠っていたんですか?」

「そう長くはなかった」


 おそらく、尋ねるべきことはたくさんあった。だが、頭の中は歯車の位置がずれたり欠けたりしていて、上手く回らなかった。言葉を掴もうとしても泥の中を進むようで、息をする前に沈んでしまう。

 ルシアンは辛抱強く、僕が話すのを待っていた。何か言わなければ。


「ここはお城?」僕は呟いた。


 どうしてそんなことを言ったのか自分でも分からないが、ルシアンは笑ってくれた。


「そうだね……私の城だ」


 僕は深呼吸してから、もっと現実的な質問をした。


「僕はここから動けるんでしょうか?」

「もちろん」


 ルシアンは僕の下を指し示した。なるほど、この石柱の両脇には脚の代わりに車輪がついていた。左側にはレバーが伸びており、これを操作して移動するというわけだった。レバーを動かしてみると、車輪は意外なほど簡単にカラカラと回った。動力はどうなっているのかと下を確認すると、石柱の後ろ側にからくり人形のようにゼンマイを巻く鍵がついていた。恐らく僕が寝ている間にルシアンが巻いておいてくれたのだろう。

 少し頭がはっきりした僕は、念のため聞いておくことにした。


「僕は──以前からこう・・じゃなかった、そうですよね?」


 ルシアンの表情がこわばった。


「ああ、その通り……君は何を覚えている?」

「さあ……何も思い出せませんが、何も忘れていない気がします」


 僕は壁に近づいた。モルタルは剥がれかけ、爪でつつくと粉が落ちた。僕は壁の上の文字をなぞった。凹凸はなく、ただ目に見える形だけ。


「これはなんでしょう」


 ルシアンは文字を読みながら言った。


「さあ……聖書かな」

「これを書いたのはあなた?」僕は尋ねた。


 ルシアンは僕の方を見た。


「君が書いたのかと思った」


 僕は首を横に振りかけて──やめた。それは確かに僕の筆跡だったからだ。

 ルシアンは僕の肩に手を置いた。


「お腹は空いていないか?」

「どうでしょう」


 僕は自分の体を見下ろした。今の僕に食事は必要なんだろうか。


「ついておいで、」ルシアンは言った。「ものは試しだ」


 僕はくるりと回って扉の方を向いた。扉は黒かった。

 ルシアンはそれを易々と開いた。


 僕は彼と一緒に部屋を出た。

 廊下も白かったが、何と言えばいいのか、ちゃんと家らしい様子をしていた。壁紙は淡い幾何学模様で、背の高いスツールの上にブロンズの山羊の彫刻が置かれていた。天井には涙型の照明が吊り下げられており、そういえばさっきの部屋には照明もなかったことに気づく。

 石の床の上を車輪が滑った。

 廊下を進んだ先のエントランスは二階まで吹き抜けで、天窓が付いていた。そして壁をぐるりと這うような階段があり、僕はその先に何があるか知っていたが、例によって思い出すことはできなかった。階段を上ったということは僕の体には車輪以外のものが付いていたはずだ。階段の上り口の壁は、かつてガス燈が置かれていたらしく黒く煤けていた。


 案内されたリビングにはほとんど色がなかった。大きな窓から差しこむ灰色の光に照らされた壁はやはり白く、フローリングや家具は暗い色の木材、黒い暖炉、戸棚には白い陶器が記念碑のように並び、テーブルの上には百合のようなランプが置かれている。

 とても静かだった。ただ柱の上の振り子時計がカタカタと時を刻む音だけが聞こえていた。

 ルシアンは椅子をどけて、僕にテーブルに来るように促した。それから僕の前に月のように丸くて平たい皿を置いた。

 彼は戸棚の引き出しを開けて何かを取り出した。


「君はこんなものが好きだった」


 彼は皿の上に色々なものを並べた。伸びきった発条ばね、穴の空いた巻貝、東洋の独楽こま、ガラスのペン先、懐中時計のチェーン。確かに僕はそういうものが好きだった。それを覚えている。

 僕はびついた螺子ねじを手に取った。ざらざらした表面、金属特有の硬さと重さ。これはどこからやってきたのだろう。もはや何の役にも立たない、小さな鉄屑。

 僕はそれを口に入れた。決して唾液と混ざり合うことはなく、舌に鋭く溝を作る……僕はしばらく口の中で転がしてから、それをごくりと飲みこんだ。螺子はカラコロと音を立てて管の中を進み、一番下まで落ちていった。これはいい、と思った僕はコルク抜きに手を伸ばし、尖った先っぽに気をつけながら同じように口に入れ、飲み下した。

 ルシアンは僕の向かいに座り、紅茶を飲んでいた。

 僕の咀嚼音がやたらと大きく響く。


 すっかりがらくたを体に収めた後、僕はもう一度部屋の中を見回した。棚には本とレコード、素朴ならっぱのついた蓄音機が鎮座している。革のソファ。サイドテーブルの上には金魚鉢が置かれ、ヴェールのようにきらめく長いひれを持つ魚が泳いでいた。

 僕はサイドテーブルに近づき、腰を曲げて横から鉢を覗きこんだ。魚は静かに鰭をひらめかせ、小さな鱗の一枚一枚に虹がかかっているのを見せてくれた。なんて美しいんだろう! それはオパールの目で僕を見返した。

 ルシアンも寄ってきて、魚と僕を見比べて言った。


「これが欲しいのか?」


 僕が頷くと、彼はそっと鉢を抱え、僕に渡した。

 僕は少し苦労しながら重みのある鉢を持ち上げて冷たい縁に唇を当て、ごくごくと水を飲んだ。ガラス瓶にジャボジャボと水が溜まる。口の縁からいくらか水が溢れた。途中でつるりとした感触があり、続いてポチャンという音がした。最後まで水を飲み干してから自分の体を見下ろすと、魚がガラス瓶の中で優雅に泳いでいるのが見えた。


「どう?」ルシアンが尋ねた。

「とても素敵です」僕はにっこりして答えた。

「それは何よりだ」彼も微笑んだ。


 だが、まだ何か足りない気がする……。


 ルシアンは平皿と紅茶のカップを片付けにキッチンに行った。

 彼を待つ間、僕は窓を眺めていた。留金は少し銹びており、木目に沿って黒い溝のできた白い枠の上で、一匹の小さな蜘蛛がぴょんと跳ねてどこかに消えた。

 半ば蔦が覆いかぶさるガラスの先には庭があり、青みがかった灰色のポピーがダンサーのチュチュのような花びらを広げていた。蜜蜂の羽音に混ざり、車のエンジンの唸りも聞こえる。この町の名前は何だっただろうか……。

 僕は軽い眩暈めまいを覚え、窓から離れた。

 ルシアンがリビングに戻ってきて言った。


「大丈夫か?」

「ええ、たぶん」


 ルシアンは僕の髭を剃ってくれた。肌に張り付く泡と冷たい剃刀の感覚にぞくぞくする。髭が伸びるということは、少なくとも首から上は以前のまま・・・・・のはずだ、と僕は考えた。それから彼は髪の毛を梳かした。僕の髪は暗い茶色で、少し癖がある。いつもより少し長いような気がした……それだけ長い間眠っていたということだろうか。

 僕の支度が済むと、ルシアンは完成した作品を見るように僕の頬に両手を当てた。彼の手は乾いていて温かい。

 彼は僕の目を覗きこみ、僕は彼の瞳に魅入った……金色の粒が浮かぶ、灰色の目。タティング・レースのように繊細で、雷のように荒々しく、凪の海のように静かで底が知れない……。

 ルシアンはふと目を逸らし、僕から離れた。


「ところで……君のものを預かっているんだ。見たいか?」

「そうですね……」


 あまり興味がわかなかったので生返事をすると、ルシアンが言った。


「無理しなくていい」


 気を遣われているのを感じて、僕は答えた。


「見たいです」


 外ではパタパタと雨が降り始めた。

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