落ちた事のある空

D.I.O

第一話【プロローグ】

 空が、剥がれ落ちた。窓ガラスが割られたみたいに。突然に。

 太陽が傾きかけた西の空。綺麗な夕焼けだった。その日、十二月二五日はとても寒くて、空気が澄んでいた。

 剥がれ落ちたガラスの空の向こう側に、新しい空が見えた。雲一つなく、澄みきっている。周囲の人達は皆、口をぽかんと空け、ひび割れた空の一点に視線を注いでいた。


 言葉が出ない。皆の顔がそれを物語っている。側に居たサラリーマンの男性は、驚きのあまり、手から鞄を放してしまった。チャックが閉まっていなかったのか、中の書類やら何やらが路面にばらまかれた。しかし、彼はそれを拾おうとはしない。それどころではなかった。


 私は、向こう側の空から、一点の白い光が流れ込んでくるのを認めた。それは流れ星のようであり、飛行機雲のような尾を引いていた。皆も私と同じく、白い光を見つめていた。

 見つめながら、ふと昨日の事を思い出す。妹から写真が送られてきた。携帯の中の写真で、彼女は赤いトレーナー姿で恋人とVサインを作って微笑んでいた。私も携帯で、Vサインで微笑んだ写真を撮って、彼女に返信した。それが昨日の十二月二四日の事だった。



 全ての物事が動作を停止してしまったのか、全ての物が動くことを辞めていた。バスや車の往来は止まり、車内の人々は空を見つめている。前を歩いていた婦人も、その婦人の手に連れられて散歩を楽しんでいたチワワも、電線に止まっていたカラスも、生きとし生けるものは全て空に釘付けになっていた。

 白い光は、私たちの空の上空をしばらく旋回していた。グルグルと回っては、何

かを捜している様子にも見えた。これは一種の催眠術だろうか。それともサブリ

ミナル効果か。はたまた戦争の始まりか。仮にそのどれかだったとして、一体誰

が何のためにこんなことを?

 


 ふと私は、周囲が静かすぎることに違和感を覚えた。これほどの事態が突然起こったのだ。街は混乱に包まれ、騒然とするのではないか。ところが、騒音どころか、誰の声一つ私の耳に届かない。沈黙。誰も声を発しない。加えて動作の停止。


 路面に書類をばらまいた男性の目はどこか虚ろだった。目の端に動くものを捉えたが、すぐに信号が赤から青に変わったのだと分かった。耳を澄ますと、遠くから何か賑やかな音楽みたいなものを認めたが、それはパチンコ店のものだと確認できた。

 機械は正常に動いているようだ。電気系統は生きている。それは、この状況になって得られた現実的な情報だった。



 間もなく変化が訪れた。それは静かに始まった。

後方に伸びていた私の影が移動を始める。それは、ゆっくりと私の正面に来るまで動き、停止した。そして、次第に膨らみを帯び始める。黒一色だった立体に様々な色が付き始める。

 変化は周囲の人々にも同様に起こっていた。鞄から書類を漏らした男性にも、散歩に連れられたチワワにも。

 私はその立体に色が付く様子を静かに見守る。色が付き始めたおかげで、それが何なのか分かりかけてきた。女の人。背は私と同じくらい。スタイルも私と同じくらい。


 でも、私じゃない。違う誰かだ。はっきりと、くっきりと、その女性が私の目の前に姿を現した。歳は同じくらいか、いや、少し下か。黒のトレンチコートを羽織り、その下にはグレーのUネックのニットソー。紺のジーンズにパンプスという格好だった。

 私は、周囲に視線を移す。チワワの目の前にはポメラニアンが、サラリーマンの男性の前には眼鏡をかけた少年が居た。

 私の影から生まれた女の子が、じっと私を見ている。そして、ゆっくりと笑顔を作った。



 夢から

 夢から覚めたこの世界では

 思い出さえ夢となり・・・



 私は理解した。あの白い光は、開始を告げる光だったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る