2024年3月 別れの季節
何も変わらず、お母さんに怒られる毎日が続いていた。
少しずつ成長していく娘の姿に、かろうじて生きる喜びを見出すお父さん。
しかしある日、当の娘が、体を異常なほどにかきむしり始めた。
それから数日すると、
グランドキャニオンのように巨大な膨らみをいくつも顔や首に並べる娘。涙を流すその姿は、見ているこちらまで泣きそうになってくる。膨らみは2,3時間で消えていった。そんな症状が毎日、何回も繰り返されるようになった。
猫アレルギー(※)である。
まさか。ありえない。親は二人とも生まれたときからの猫飼いだぞ? ……病院で陽性の検査結果を突き付けられ、お父さんの淡い希望は打ち砕かれた。お母さんからは感情が消えた。何せ我が家には、お母さんが長年愛してきた猫がいる。大切な家族だ。家庭内ではお父さんよりも圧倒的に優先順位が高い。お父さんはお母さんとのスキンシップを許されていないが、猫は触り放題・触らせ放題なのだから。
一歳になる娘も猫が大好きだった。
当然である。お母さんといつも一緒なのと同様に、猫ともいつも一緒なのだ。お父さんといる時間より、猫と一緒にいる時間の方が数倍も長い。そして娘が初めて喋った意味のある単語が「にゃんにゃ」だったのは、とてもとても悲しい話だ。
※
ともに猫アレルギーでない親の子が発症する確率は10%程度らしい。ソシャゲの単発ガチャであれば難しい確率だが、今回に限って引いてしまうとは……。
医者は、とりあえずのかゆみ止めだけ処方し、テンプレ的にこう言った。
「猫は手放してください。でないと、どんどん酷くなっていきますよ」
最終的には
お父さんは頭を抱えた。
「家、早く作って」
お母さんは混乱して、突然、一戸建てが欲しいと言い出した。詳しく話を聞くと、猫と娘が共存できるような間取りで家を作ってくれ、ということらしい。
「流石にそれは……」
「一番長いローンでも無理?」
「今はまだ、ちょっと……無理です、すみません」
お父さんとて、いつまでも手狭な賃貸でいいとは思っていない。だが、先立つものがないのだ。情けないが年収の低さゆえに、まだまだ頭金をためる必要がある。
「なんでそんなにお金ないの。もっと稼いでよ」
「…………」
取り急ぎ、1LDKの間取りで、猫と娘を接触させないようにする日々が始まった。
猫が娘にすり寄れば引き離し、娘が猫に手を伸ばせば静止する。自分たちもできる限り猫に触らないようにして、触った後は必ず手を洗う。粘着カーペットクリーナーであらゆる場所を無限にコロコロ。布団毛布は毎日洗濯。更にお母さんは、娘の寝るベッドの上に猫がのってこないよう、夜中は常に気を張り続けているようだった。
しかし、症状は出続ける。
お父さんもお母さんも、寝不足とストレスでボロボロだった。娘と猫も明らかに情緒が不安定になっていった。それでも猫アレルギーで苦しむ娘。結局、家庭内は険悪な雰囲気に。負の連鎖が終わることはなく、一ヶ月が経過して……限界がきた。
「お母さん、これはもう……サヨナラするしか」
◇◇◇
結局、かなりの無理を言って、猫はお父さんの実家で預かってもらうことにした。
預かってもらう……とは言っても、実質的なお別れである。たまに会いにいくことはできるが、別の家の子になると言っても過言ではない。お母さんはガチで泣いた。
別れのその日まで、お母さんは気を張って戦い続けた。お父さんも、すごい勢いで掃除&掃除&掃除をした。そして遂に、お別れの日を迎える。
12年間。
お母さんが(産後の里帰りを除いて)その猫と共にベッドで寝た年月。あまりにも長い。お父さんとお母さんの付き合いよりも、ずっとずっと長い。
猫がいなくなった部屋で、娘は少し悲しそうだった。
「にゃんにゃ?」
娘が初めて口にした疑問形はこれだった。
「(ムスメ)は猫と共存できないからね、仕方ないね」
お母さんは自分に言い聞かせるようにそう言っていた。
そしてしばらくの間、猫は体調を崩しまくったらしい。獣医の見立てでは、生活環境の変化などからくるストレス。動物病院→親→お父さんの順で、云万円の請求が降りてくる。動物は保険適用外。痛すぎるが、大切な家族なのだから仕方ない。
すったもんだの末、今では猫は順調に実家で馴染んだと聞く。夜中には叫びながら家の中を走り回り、おしっこをひっかけまくっているそうだ。……まじですまん。
それでも、
「やっとこれで落ち着ける……」
……怒涛の日々が終わった。しばらくは室内のそこかしこに残る猫の毛を減らすための掃除が続いたが、その程度。娘の症状も、なくなりこそしないものの、かなり落ち着ている。これからは、お母さんの負担もかなり軽減されるに違いない。
「色々やってくれてありがとう」
「どういたしまして」
お父さんも、珍しくお母さんからお礼の言葉を賜った。
よかった。お母さんも猫離れして大人になったのだ。これからのお父さんは、愛する妻子のために働き、そして感謝される。前よりも良い関係を築けるだろう──
──と、そんな幻想を抱いた。
「いい加減さ、家のこと、まともにできるようになって欲しい」
「洗面台の前に(私の)髪の毛が落ちてたんだけど。掃除も雑だよね」
「濃い味付けは嫌だってば。自分だけの感覚で料理しないで。何度も言わせるな」
「これ要らない。油モノは太るから。それで、お前はいつまでに何キロ痩せるの」
「ねぇ、自分は悪くないと思ってるでしょ。ごめんなさいは? 言わないつもり?」
「ゴメンナサイ」
これまで猫と娘の距離を空けることに全力で向かっていたお母さんのエネルギーは、その矛先をお父さんに変えたようだった。更には負の感情が上乗せされている。
とはいえ、元に戻っただけかもしれない。
前々回、前回。お父さんは何があろうとお母さんを幸せにすると心に誓った。愛しているからだ。理不尽(とお父さんが感じること)を強いられても、お母さんの立場に立って、決して言い返すことはない。謝罪して、ただ行動するだけだ。
そうすればきっといつか、分かってもらえる日がくるだろう。
それに、平日日中のお母さんは娘につきっきり。育児の負担が重い分、完璧主義なお母さんが神経質になってしまうのはよく分かる。一方、お父さんは夜に一人の時間があるし、仕事にいけば昼休みの一時間も約束されている。十分に『恵まれた環境』と考えられる……なぁに、メンタルは強い方さ。そう、お父さんが耐えればいい。
何とかなる。
「なに悠長にフライパンに油ひき始めてるの? 早くしてよ」
「はい、六時には食べられるよう準備していまs」
「さっさと終わらせて(ムスメ)の相手して欲しいんだけど」
「善処します」
何とかなる……
「ねぇ、ゴミ袋が空きっぱなし」
「レンチンが終わったらラップも捨てる予t」
「都度しめて。目障りだから」
「はい」
何とか……
「シンクに水滴あるじゃん」
「……まぁ、洗い物の後にまとめて掃z」
「ひとつひとつを、完璧にこなして。仕事帰りだからって甘えてない?」
「決してそんなことh」
「言い訳しない。そういうとこだから。疲れた顔してたら許されると思ってる?」
何とk……
「本当に、もっとがんばってよ」
「ア……アアア……」
お父さんは思った。
家事育児の分担には、各家庭の事情がある。
だから、ここで『お父さんはこれだけの家事育児をしていて……』と書き連ねるつもりもない。無意味だ。それぞれの家庭がうまく回ればそれでいい。
……ゆえに悲しい。 お母さんには「がんばっていない」ように見えるのか? 家族の幸せのために色んなものを捨てているつもりなのに、何も伝わっていないのか? 黒い感情がこみ上げ、言い返そうとしてしまって、お父さんはぐっとこらえた。
いつものように、こらえようとした。
ただ今回は何かが違った。
最後、こらえることができなくて、大切な部分が壊れてしまった。
「俺ダッテ、ガンバッテルンダヨオオオオッ!!」
視界が一瞬ノイズで覆われ、我慢しなきゃまずい、と思った次の瞬間には、世界がスローモーションでガクガクになっていた。我慢しようと力を入れたせいで、菜箸が折れて掌に突き刺さっていた。その場に崩れ落ちて、お父さんは泣いていた。
「くぁwせdrftgyふじこlp;@:「」」
「はぁ? いきなりどうしたの……ちょっと、落ち着いてよ」
「くぁwせd、くぁうぇdrf……くぁwせdrftgyふj……!!」
お父さんの記憶では、お母さんに悪意を向けることもできず、「これ以上どう頑張れって言うんだよ。無理だよ、ごめんね」的な中身のないことを言い続けていたはずなのだが、お母さんには何を言っているかまったく聞き取れなかったらしい。
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
確か、娘は泣いていた。火事を恐れてフライパンの火を止めたことは覚えている。夕飯からの娘の世話はいつ通り。それから確か……夜は掃除しようとして、棚が倒れてきて、大変なことになった。音を聞きつけたお母さんがやって来て話をし、謝罪を受けたが、それでもやはり大事な部分は伝わっていないようだったので、悲しくて悲しくて、泣きながら掃除していた……と、思う。起きたらトイレの中だった。
次の日、少しだけお母さんが優しくなった気もするが、すぐに元に戻った。
何度か話し合いを続けているものの、着地点が見つかる気配はない。頭と胸の痛みは酷さを増している。家だと吐き気がやばいおかげで、ダイエットだけは順調だが。
当然、ワナビ活動などまともにできるわけもなく。
思い出したように、ワナビとしての記録を残しておく。
応募中だったGA、OVLともに、あっけなく二次選考落ち。
……分かりやすい、完全な実力不足である。お父さんは評価シートを見て反省したが、軽い推敲でどうこうなるレベルではなく、新作を書かなければ前に進めない段階と思われる。メンタルに優しい「選考を受けている」という状態を維持したいがゆえに、使い回しで電撃とMFへ応募こそしたが、結果はそれほど期待できない。
家庭もワナビも、完全な雪解けにはほど遠く、春の足音は聞こえない。
……個人的にやりたいことは色々あるが、今は家庭を最優先すべきときなのだろう。家庭を最優先して残った時間で、ワナビとしてやれることをやっていく。睡眠時間を削るのも体の限界が近い気がするので、しばらくは牛歩になるだろうか。
そんなことを他人事のように思いつつ、久々に筆を取った次第である。
お父さんはこんなんですが、皆さんに良い春がやってくることを祈っています。
★★★★【以下、宣伝失礼】★★★★
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