第四話 彫心(1)

 がちがちと、打ち鳴らされる音に目が覚めた。

 歯だ。寒さで根本からぐらぐらと揺れ動いた歯が打ち鳴らされ、今にも勢いのまま取れしまいそうで、少し面白い。


 全身が寒さに叫び声を上げ、手足がぎいぎいと軋むように痛む。抱き締めるように身に纏った毛布はその本分を忘れ僕から体温を奪い取っているんじゃないだろうか。熱が、篭るべき熱が毛布はおろか僕からも逃げ出したようだった。体の端から入り込んだ冷気が体を凍らせてしまったんだろう。

 ぶるぶると、がたがたと出来の悪い玩具みたいに僕は震えている。


 感覚がない。あまりに凍えているからだ。そもそも未だ本当に身体があるのだろうか。指先からぽろぽろと取れてしまって、もう何も残ってないんじゃないだろうか。だって感覚がない。自由も効かない。それに、ああ。朦朧とする思考は寒さでは固まらないみたいだ。なんでこんなに寒いんだっけ。

 ……。

 ああ、そうだ。

 寒いに決まってた。

 あんなことがあったのだから。こうも寒いのだから。深く眠れるわけがなかった。きっと覚醒と睡眠が交互に行われていたんだな。寝たというより、意識がない時間があったと言う方がしっくりくる。


 今更、目を開けてないことに気づいた。凍りついたみたいに痛む瞼を持ち上げるのは億劫で辛かったけど、なんとか目を開いて寒いのも頷けた。窓は大きく開け放たれ、カーテンが揺れるたび外から冷たい風が室内へと入り込んでいる。そっと風に舞う白いものが目に入る。

 ひらひらと舞うそれは彼女の上に乗っかって。

 頬に乗った雪は決して溶けることはなくて。

 ああ、それもそうだ。

 こんなに寒くて、冷え切って凍てついたこの部屋で。彼女もまた同じ様に冷たいのだから。


 寒いのは温度じゃない。気温じゃない。そんなことで寒いんじゃないんだ。そんなの、全然寒くなんてない。冷たくなんてない。本当に凍てつきやしない。


 どうして彼女は死ななければならなかったのだろう。


 僕が悪かったのだろうか。それとも彼女が悪かったのだろうか。それとも、それともなんだというんだ。どうあれ彼女は死に、僕はこうして生きていて。彼女を愛しているなんて嘯いておきながら生きながらえる僕はなんなのだろう。別段最愛を追い死ななければそれは愛ではないなんて思わない。思わないが。


 僕は報いなければならない。ならないのだと思う。

 彼女のためではない。口が裂けてもそんなこと、言えやしない。

 僕の為に、報いるのだ。

 きっと、彼女は僕以上に寒かったはずなのだから。


 頭が冴え渡っているような気がした。寒さに充てられて重いし痛いけど、そのお陰だろう狂った頭が容赦のない冬に冷まされたんだ。一晩経ってやっと落ち着いたんだ。たった、一晩で多少の冷静さを取り戻したんだ。


 昨晩の記憶通り、彼女は未だ僕の目前で横たわっている。雪は降り外気は時折その訪れを告げるけど、室内に積もるほどではないようだ。


 ……窓をあんなに開けただろうか? 意識の薄いままに恐れたのかも知れない。深雪が温まらないように。腐って、見るも無惨に傷んでしまわないようにと。その加減が分からなくて、知らず知らずに開け放ったのだな。


 ゆっくり立ち上がる。それだけでぐらぐらとして上手く立てそうにないから壁に手をつきながら姿勢を整える。熱があるのかもしれないな。雪に降られて、そのままこうやって寝ていたのだし然もありなんという気がする。

 肩はまるで固定されてしまったように、動かすだけで痛くて堪らない。膝の皿なんて接着剤でも流し込んだように軋んで音がしないのが不思議なくらいだ。


 シャワーでも浴びよう。何をするにしても状態を万全にするのは大切なことだ。別れを、心を納得させるにも、深山家へ行き全てを告げるにも、何をするにしても。こんな時だからこそ、気丈に振る舞わなければいけないのだと思う。少しでも、強く在りたい。在れればいい。


 部屋を出る時、深雪を振り返る。寝入るようなその姿は陽の光に照らされて奇妙な美しさのようなものを讃えている。その姿に駆け寄って目を覚ましてくれ本当は寝ているだけなんだろう? 何もかもが嘘で、そう悪趣味なドッキリのようなもので、それで——

 そんな風に駆け寄ってしまいたい衝動に口元を歪め、一階へ降りた。情けない妄想だ。未だに期待するのは、死を受け入れられてないのだろう。


 外套を居間に放り投げ、そのまま風呂場へ向かう。向かってから、靴をいつまでも履いていることに気付いて玄関に置いてくる。

 洗濯機の横の収納に、畳まれた下着と寝巻きとがあるのを横目にしながら、浴室へ入り蛇口を捻るとシャワーから冷たい水が流れ出した。


 どうせ一人なのだしと洗濯した後に律儀に畳むのを面倒に思っていた僕に「手伝うからぱぱっと畳んじゃおうよ」と深雪が口にしたのは記憶に新しくて、微妙に顔を顰める僕を無視して畳んだ下着は、寝巻きは今そこにあったものだったな。思い出が、深雪を想起させるものが此処には沢山ある。


 シャワーから噴き出し始めた熱い湯は、手足に当たると痛みを伴った。余りに痛くて、ずっと当てていられない。こう冷えていると温かいとかそういう次元じゃないんだなあと独りごちる。火傷するような熱さが足元で跳ねては流れていく。


 随分時間を掛けて、浴びてしまったように思う。手足の震えは治まって思う通りに動く。それでも節々は油が切れたように痛むが随分と気分が良い。さっぱりするというのはどんな状況でも大事なんだな。意識がこう、切り替えられた気がする。


 畳む深雪を、その時交わした言葉を思い返しながら袖を通していく。寝巻きへと着替えた僕は、そういえばスマホに何か着ているかも知れないと思い至った。きっと心配しているはずなのだ。思えば、公園にレンタルショップの袋なんかそのままにしてしまったように思う。何か事件に巻き込まれてしまったと騒然としているかもしれないぞ。

 居間へ向かうのに通る廊下はとても冷たくて以前だったら駆け出していたかもしれない。そのまま足の裏をべったりと付けてればくっついてしまうんじゃないだろうか?


 半開きになった居間の引き戸へ身を滑り込ませると暖かな空気が身を包む。ああ、エアコン付けっぱなしにしてたんだ。帰ってきたら母さんなんか物凄く怒るだろうな。使わないのに付けっぱなしにするの嫌うから。


 転がった外套に手を伸ばして、僕以外音の無い空間にチャイムが鳴り響いた。


 居間に置かれたスリッパに足を突っ込み、ぱたぱたと玄関へ向かう。覗き穴を見れば、深雪の父だった。顔は焦燥に満ち、疲労が見える。


「どうしたんですか」戸を開けて、口にした声は熱のせいかくぐもった響きがあった。

「ああ、深雪が帰ってきてないんだよ。なあ、なんか聞いてねえか。連絡とか、なにか知らねえかな」

 俯き気味に言うその姿になんと声を掛けようか悩んでいると彼は僕を見て驚いたような表情をした。

「……お前、大丈夫か? 顔色が悪いなんてもんじゃないぞ」

「ああ、すみません。気にしないで下さい。深雪、結局帰ってないんですね」

「午後になっても音沙汰なかったら警察に行くつもりなんだ。それで一緒に来て欲しいと思ったんだ、ほら最後に一緒にいただろ? だから、だけどその様子じゃ……何も知らないんだろ? ならいいさ、ゆっくり寝ろよ。とにかくお前と来たらまるで幽霊みたいな顔してるぞ。暖かくして寝るんだぞ」


 気遣われた。僕なんかを。申し訳なくて、涙が出そうだった。こんな嘘つきを気遣わせてしまった。


「何か、分かったら連絡します。こんな時に、何もできなくて」

「いい、いい。気にすんなよ。じゃあな」


 そう言って去っていく姿を目に、ゆっくりと玄関を閉めた。

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