第二十四章 家族風呂もあるのよ

 どこにも行かず旅館に残留しているのは、私と町田さんふたりだけになった。

 旅行に来る前、みのりちゃんと汐音で私たちが二人きりになるようなシチュエーションを用意してくれる、と言ってくれていたが、彼女たちが意図していた過程をたどってはないにしろ、結果的にそうなったのだから、町田さんと親密さを増すまたとないチャンスではある。

 幸せへの扉は目の前で全開になっているが、相手の女性の心を引くセリフを吐いたり、思わせぶりな仕草を自然にしてみせるといった、愛情表現スキルを私は持ち合わせていない。


 半世紀以上も生きてきて彼女歴が二人しかいないのは、世界規模で見てもやはりかなりの少数派だろう。

 その少ない交際経験がどちらも深い恋愛関係にまで発展した末の破綻だったがため、心的失恋後トラウマ状態をずっと引きずってきている。

 四十歳を過ぎて何度か、女性と恋人一歩手前くらいになるくらいのチャンスはあったが、相手の私への思いが深いと感じるほど、自分から距離をおいてしまい、結局疎遠となっていくパターンの繰り返しだ。

 だから本当のところ、いま現在の町田さんとの距離感が、実はいちばん心地よいのである。


 時刻は十時半。どこにも出る予定がないので、町田さんも私も旅館浴衣のままだ。

 「普段着に着替えてこの辺りの散策でもしますか。それともこのままだらだら時間を過ごします?」

 「だらだらしてましょうよ。

 別に家にいても毎日だらだらしてるけど、テレビ見たり夕食のおかずを考えたりで、本当のだらだらって実はめったにできない贅沢だと思うの」

 「そういえばそうだ。家はリラックスできるけど、なにかしら頭の中では考えてますからね。仕事の原稿は何書こうかとか、ツナ缶の在庫とか、汐音がいま言ったのはダジャレだったのかとか。

 それじゃあ今日はみんなが帰ってくるまで贅沢三昧しましょう」

 それから一時間ばかり、ふたりとも縁側風バルコニーの安楽椅子に座って、時々思いついたことを話す以外は風景を見ながら過ごした。


 昼前頃になって女将が部屋にやってきた。

 「お昼はどうされますか。何かご予定がおありでしょうか」

 そうだった。どこか外出先で食べようと漠然と考えていたので、昼食の予約をしていなかった。

 「昼食のことをすっかり忘れてた! どうしようか」

 「一階にカップ麺の自販機があったから、わたしはそれでいいですわよ」

 「じゃあ私も。夕食はご馳走がたくさん出てきそうだから、お昼は少食で我慢しよう」

 すると女将が

 「あの、ちょっとしたものでよければ、見繕ってお出しできますよ。はっきり言ってうちのまかない料理なんですけど」

 「あ、そうなんですか。もし二人分あまりができるならお願いしようかな」

 「わたし、まかない料理って興味あるんです。あるもので適当に作ってる印象があるけど、でも何が出てくるかわからない楽しみがあるし、それにこの旅館のまかないだからきっとミシュラン級の高級まかない料理だと思う。

 わたしたちにも分けてもらえます?」

 「はい、喜んで。ミシュラン級かどうかはわからないですけど。

 では後ほどお持ちしますね」


 三十分ほどして仲居さんがふたりに持って来てくれた昼食は、予想外のカレーライスだった。

 これにみそ汁とサラダが付くという、まかないらしい質素さを備えたメニュー。

 カレーショップ風にピクルス、福神漬け、ラッキョウ、それに干しブドウがパーテンションで区切られた小皿に添えられているのが嬉しい。

 特に干しブドウのカレー乗せは私の喜びとするところで、小皿の全量をカレーにトッピングした。

 町田さんは干しブドウが苦手らしく、私の行為を『信じられない』といった目の細さで観察していた。

 「干しブドウ、嫌いですか?」

 「いえ、干しブドウその物じゃなくて、カレーに乗せておいしそうに食べる人が信じられない……」

 「ああ、なるほど。白ご飯にチョコレートをトッピングするみたいな印象でしょう」

 「そうそう、そんな感じ。※個人の感想ですけどね」

 コメコジン? ああ、『※個人』か。町田さんも汐音のオヤジ文字ダジャレセンスの影響を受け始めている。

 「でもほら、福神漬けもラッキョウにしても甘いでしょ。だから干しブドウも系統は同じですよ。食感だってそんなに違わないし」

 「わたしの分の干しブドウも藤村さんに食べてもらいたそうにしてるわ」

 「あ、じゃあいただきます。

 そのかわりと言ったらあれだけど、ほかの漬物類でお好きなものがあれば、私のからとってください」

 「じゃあピクルスと福神漬けを少しずつ分けてもらいます。

 福神漬けは赤よりこの茶色の方がわたし好きなの」

 添え物の交換が終わったところでふたりともカレーに取りかかった。

 「……あ 旨い」

 「美味っっっしい!」

 口に運んで三秒後、ふたりともほとんど同時に感嘆の声を上げた。

 「ちょっと、これ、本格的なカレー屋さんの味がするわ」

 「職人ですよ、これを作った人」

 ただただ辛さで風味をごまかしている昨今の辛口カレーとは違い、基本は辛口でありながら、独特のツン感がない味わえる塩梅のスパイス量で、ビーフからの円やかさも含んだ、普段は甘口の子ども味カレーしか食べない私でも、さらさら食べられる極上のまかないカレーである。

 食べるのが遅いのと少食が共通点の私と町田さんだが、ふたりとも今日に限ってはスプーンの動きが速かった。あっという間に完食だ。おかわりがしたいくらいの勢いであった。

 「ごちそうさまでした。はぁーおいしかった」

 町田さんが満足そうに伸びをしながら言った。

 「こんな上等なまかない料理が食べられるこの旅館の従業員さんは幸せですね」

 「そうねー。こんな素敵な待遇が受けられるなら、わたしもここで働かせてもらおうかな。

 わたしより年配の仲居さんもいるようだから、書類選考が年齢ではじかれる可能性は低いわね。

 でも、歩いて行ける範囲内にコンビニやスーパーやバス停や駅がないと、多分わたし、三日もたない」

 町田さんが自虐ネタを交えて話す時は、けっこうご機嫌な気分である証拠である。

 お酒が入るとよく見られるが、美味しいものを食べた後も同じようになるらしいのは新発見。

 後で女将に聞いたら、カレーを作った料理人は以前、海上自衛隊の護衛艦で調理士官をしていた人物とのこと。

 いわゆる《海軍カレー》をルーツとしたレシピだったのだろう。隠し味がなんだったのか訊いてみたいが防衛機密で教えてくれないかもしれない。



 歯磨きを終えて部屋に戻ってくると、先に済ませていた町田さんが

 「ね、まだみんなが帰ってくるまで随分時間があるから、お風呂に入りません?

 今夜は食事会でお酒を呑むから、もしかしたら夜は入れないかもしれない」

 時計を見ると一時を過ぎたところだ。町田さんの言うようにまだしばらくは誰も戻ってこないだろう。

 確かにけっこうな量を呑んだ後の入浴は危険でもある。陽の高いうちに一人風呂を満喫するのもいいではないか。

 「いいですねえ。広い浴槽を独り占めできるチャンスはそうザラにないし、それに今日は露天風呂が女性専用だから、町田さんは自然の空気を味わい風景を愛でながら、優雅な温泉地の午後を楽しめますよ」

 「そうね。温泉独り占めもいいけど、ここは家族風呂もあるのよ。

 ふたりしかいないんだから、一緒に入ってお話ししながらの方が楽しいんじゃないかしら」

 「っっっ!」

 言葉にならない驚きの声が町田さんに聞こえたかどうかはわからない。私を見る彼女の表情から冗談やからかいの色は窺えない。

 「い一緒にお風呂に入るんですか⁉ 家族風呂って家族で入る風呂ですよね」

 「そうよ。そのままの意味。家族付き合いしてるんだからいいじゃないですか。

 あ、そういうの、お嫌い?」

 「いえ大好きです。

 ですがいきなり裸のお付き合いとなると心の準備がまだ……」

 「いやだ、裸じゃなくてよ。ほら、混浴用の水着があったじゃない。私もみのりから一着買わされて持って来てるの、水着」

 「ああ、なるほど」

 なんだ、そういうことか。それならまあお互い隠すものは隠せるからいい……って私は水着なんて持って来てない。

 いや、汐音が私のために用意していたまっ赤なブリーフ海パンがあった。

 しかしあれはむしろ形を強調するためのデザインだろう。あれはまずい。

 私の困惑が充分伝わっているのだろう。町田さんが悪戯っぽい笑顔でカバンからショッパーを取り出して私に手渡した。

 「はい、わたしからのプレゼント。これなら平気でしょ」

 中を見るとアロハ柄の派手な色使いで、それこそワイキキで似合いそうな海パンが入っていた。

 「汐音ちゃんが選んだものじゃいくらなんでも……ねえ。あれじゃアダルト・グッズよ」

 「はあ、これならまあ、違和感はない。田舎のお風呂に着けて入る以外は」

 「じゃあ入りましょうよ! フロントに電話して予約するから、藤村さんは準備してください」

 町田さんのイスの横には、さっき私へのプレゼントとして渡された水着を取り出した小さな手提げバッグが置いてある。あの中に町田さんの水着も入っているのだろう。

 まさかこんな展開になるとは想像だにしなかった。が、据え膳を食わない訳にはいかない。堂々と受けて立とう。気分は戦に出ていく武士と同じだ。


 「はい、じゃあこれからすぐに行きます。タオルとバスタオルだけ持っていけばいいのかしら」

 小物用のバッグなど持っていないので、旅館のみやげ用紙袋を一枚もらって、中に水着、着替え、タオル類を入れて持っていく。

 家族風呂は一般湯とは違い、別棟に一戸ずつ三つある。その一番奥のロッジ風建物が私たちに用意されていた。

 中に入ると檜の香りがし、寛ぐための十畳ほどの畳の間があって、その奥に浴場と隔てる戸がある。

 浴槽はおとな五人程度の入浴を想定してか意外と広い。

 「リラックスできそうな作りですね。湯加減はどうかな」

 何かしゃべっていないと気まずくなりそうなので、言わずもがなのセリフを言うが、町田さんは普段と変わらない雰囲気で室内を見まわしている。

 「湯舟はいい感じだけど、さすがに窓は擦りガラスだから景色が見られないのが惜しいわね」

 それはそうだろう。家族風呂に透明ガラスでは見物人が集まってくる。

 「さあ、入りましょうはいりましょう!」

 そう言って町田さんは浴衣の帯を解きどんどん脱ぎ始めた。

 「え、あ、脱衣場は?」

 「脱衣場? ここでしょ。家族で利用するんだから男女で分かれていないわよ。

 あら、水着に着替えて来なかったんですか」

 言いながら町田さんは羽織っていた浴衣をとると、すでに水着を付けていた。私が歯磨きをしている間に着替えたらしい。

 薄いブルーに黄色のラインが何本か描かれたワンピースの水着である。

 そのスイミング姿を一瞬凝視するが、すぐに何食わぬ表情を装ってバスタオルを腰に巻き、パンツをはき替えようともぞもぞする。

 「わたし、先に入るからゆっくり着替えてくださいな」

 と茶化すように私を置いてさっさと浴場に向かっていった。


 パンツをはき替え風呂へと町田さんの後を追う。

 戸を開けると湯気で浴場内が白んでいるが、湯舟の中に首まで浸かっている町田さんの姿がうっすら見える。

 かけ湯をし、少し熱めの湯にゆっくりと足から中腰、それから徐々に屈んで座った。

 「ふうう」

 と熱い湯に落ち着いたとき特有の声がもれた。

 1・5メートルほど離れたところの町田さんの表情は心地よさそうに見える。

 しばらく目を閉じて無言で幸福感に浸っていると

 「あら、いつの間に入ってらしたの? 静かだし波も感じなかったから、まだ部屋で水着が小さくて着替えるのに苦戦しているのかと思ったわ」

 そのままの意味か、下ネタ交じりの冗談で言っているのか判断は付きかねるが、ご機嫌よさそうだ。

 「サイズはぴったりでした。それにこの湯も最高!」

 「ねえ、なんでそんな遠くにいらっしゃるの、ふたりしかいないのに。

 別に取って食ったりしないから、もう少し近くにいらしてくださいな」

 町田さんのセリフがいちいち脳内の下ネタフィルターにかかってしまうが、町田さんはもちろんそんなやらしいことは言わないし考えない。はずだ。

 「はあ、では寄らせていただきます」

 半分ほど近づいてふたりの距離は0・75メートルほどになった。

 「んもう、新幹線の座席よりも遠いじゃない。中学生じゃあるまいし、何をはずかしがってるの。よいしょ」

 町田さんの方からすぐ横まで動いてきた。彼女の立てた波が私の顔に勢いよく当たって跳ね返る。ちょっと腕を動かせば相手の身体に触れるほどの近さだ。

 しばらくはふたりとも会話もなくそのまま浸かっていたが、緊張がほぐれてきたので町田さんに訊いてみた。

 「家でも長風呂なんですか」

 「わたし? いいえ、家ではそんなに長く入らないの。夏なんかシャワーを浴びるだけ。

 銭湯や旅に来て入る風呂がいいんです。雰囲気が好きなのかな」

 「みのりちゃんは? あの子はテキパキしてるから烏の行水並みの速さだったりして」

 「そう思うでしょ。ところがみのりは長いの。毎日一時間半くらいは風呂に入っているわ。

 お湯に浸かって防水タブレットで本を読んだりドキュメンタリーを見るのが好きなんだそうです」

 「へえ、なんか印象と違いますね。長風呂長トイレは極力避けるような感じがするけど」

 「トイレはどうか知りませんが、風呂はこちらが心配するくらい長いのよ。

 汐音ちゃんは?」

 「汐音はそれこそ長風呂長トイレです。

 風呂ではタイマーをかけて寝るのが気持ちいいらしいし、トイレは読書タイム。

 風呂はいいとしても、トイレは私が待ちきれない場合、退去勧告を発令することもあります」

 「わかるわかる。狭い個室空間ってなぜか落ち着くのよね。汐音ちゃんはそのタイプなんだ」

 「汐音が来て以来、トイレ内のインテリアがガラッと変わりました。確かに居心地は良くなったと思います。

 本当の自分の部屋はいつも開けっ放しで、リヴィングか風呂かトイレに居る時間の方が長いんじゃないかな。

 私の部屋は図書館替わりで、本を見つけては私の机で読んでます」

 「お誕生日は?」

 「誕生日ですか? うちにやって来た日ってことだから二〇一九年六月五日です」

 「いえ、あなたの」

 「私の誕生日ですか。えーと、三月三日です。一九六六年の」

 「あら、わたしと二つ違いなのね。わたしは九月十五日生まれです。一九六八年の」

 「え⁉ そうなんですか! 四十代後半くらいかと思ってた」

 「五十代前半だからそうは変わらないわ」

 そう言われればその通りだ。感心して出た言葉だが、そう褒めたことにはなってない。

 しかし町田さんは別に気にしてない様子。

 「ねえ、わたしたちって娘の事はよく話すけど、自分たちについてはあまり話したことがないですよね」

 確かにお互いのプライベートな話題はあまり交わした記憶がない。

 娘たちが映画に行った日、町田さんが私のマンションに来て、夕食を食べながら亡くなったご主人との馴れ初めを聞いたくらいか。

 それとローランド・カークのレコードを聴いていることも。

 好意を持っている女性なのに、いま聞かされるまで彼女の誕生日も知らなかったのだから、不自然と言えば不自然だ。

 「わたしの下の名前はご存じ?」

 「祐風貴さん、ですよね」

 「あら、その通り。知ってたのね」

 「汐音から聞いて覚えてました。

 汐音は私に関心を持たそうと、いろいろ町田さんの情報を教えてくれるんです。服のセンスがステキとか、食べるものにはそんなに気遣いをしていないのにスタイルが良いとか、性格はやさしくて呑気でガンコとか」

 「最後のは褒めてるのかどうかわからないけど、汐音ちゃんらしくて嬉しいわ」

 『町田さんは私のことをどの程度、知ってます?』と尋ねたいが、とってつけたようで言いだし辛い。その気持ちを読み取ったかのように町田さんが語り始めた。

 「みのりもそんな風にわたしに藤村さん情報を教えてくれればいいんだけど、彼女はそれをしないの。

 例えば『藤村さんの下の名前はなんて言ったっけ』って言うでしょ。そしたら『そんなこと、自分で訊きなさいよ。本人から情報を得るのがもっとも確実だし、相手に対して興味を持っていることも伝わるよ』って言って、知っていても言わないの」

 「丈彦です。《丈夫》の丈に彦でたけひこ」

 「藤村丈彦さんね。町田祐風貴です。あらためてよろしく」

 「よろしくお願いします」

 お互い軽く会釈して笑った。

 「汐音もみのりちゃんも双方の親の性格を読み取って対応しているんですね。

 私の場合は興味があって気になっていても、その気持ちを表に出さない。

 汐音はそんな私の日々の言動から真意を推し量って、そして気分を盛り上げるようなシチュエーションを作り、ひとりでは動かない私の背中や腰を押して行動するように差し向ける。

 逆にみのりちゃんはわざと突き放すような態度で、町田さんが自ら動くよう促す。

 その結果、いまこうして二人でお風呂に入り、楽しい時間を過ごしている」

 「そうね。あの子たちの力添えがあってこの状況までたどり着いたって感じ。

 この先は?」

 「この先、ですか?」

 「わたしは今の関係が心地よいし、それ以上になってもいいと思います。

 でも、同じくらい人生経験のあるあなたも同じだと思うけど、同じ屋根の下で暮らすとなると、今まで見えなかった部分も当然見えてくる。

 みのりたちも今は実生活では離れて暮らしているけど、それが始終顔を突き合わせているとなると、二人の友情がどうなっていくかわからない。

 若い頃のように、目の前の幸せだけ見えていればいいんだけれど……」

 「今のままでいいんじゃないですか。先がどうなるかなんて考えてたら冒険できないし、みんなが幸せになるような方向へ進めばいいんですよ。

 確かに齢を重ねると危険を予測して、それを避ける知恵が持てる。

 しかしそれが幸せへの可能性を邪魔することもあるでしょう。だから今はその知恵を無視しませんか。

 だって、私たちが出会ってから今までの経過を辿ってみると、悪いことなんてひとつもありゃしなかったじゃないですか。だから今のまま前に進めばいいんです。

 ただ私の独身者用マンションは汐音の存在で、あそこに留まるのはそろそろ限界なので、どこかに一戸建ての家を借りるか、小さくてもいいから新居を構えるかしなければならないのは近い未来の現実となるでしょう。

 同じ屋根の下じゃなくても、窓からおかずの受け渡しができる距離のお隣さんなら、今とさほど変わらない生活がお互いできるんじゃないでしょうか」

 私としてはかなり思い切った演説である。勢いにまかせて本音を言葉にしたので、町田さんがどんな反応を示すか怖い。

 『思っていた人と違う』などと取られたら、せっかくここまで培ってきた信頼関係が水の泡だ。いや風呂の泡か。

 恐るおそる町田さんの方を見ると、まっすぐ前の壁あたりを見つめている。

 『(やばいなあ)』と思ったが、よくよく見ると若干目が潤んでいるように見えた。

 なんだなんだこの状況は。私のいちばん苦手なシチュエーションだ。

 「ど、どうしました? なにか気に障るようなこと言ったんなら謝ります。ごめんなさい」

 するとこちらに顔を向けた町田さんが

 「感動して絶句しているんです」

 「ああ…… そうでしたか。恐縮です」

 「藤村さんの言葉を聞いて安心しました。やっぱりあなたは思ってた通りの人です」

 そう言って私のほっぺたにキスをした。

 ゆっくり唇を離していきながらも、視線は私の目を見つめている。

 ふたたび『(ヤバいなあ)』と思いつつ次の行動をどうでるべきか考えていると

 「もうっ!」

 と言って町田さんが私の唇に彼女の唇を押し付けてきた。次の瞬間、唇は離れ

 「今日はこれくらいにしときましょう。さあ上がりますよ。

 着替えるから終わったら呼ぶので、ちょっとこのまま待っててください。のぼせないよう気を付けてね」

 絶句中で返答できない私を残し、町田さんはとっとと寛ぎの間に上がってしまった。


 「開けますよ」

 浴衣に着替え終わった町田さんが戸を開けて言った。

 「お待たせしました。ふやけてしまう前に早くお上がりになって。コーヒー牛乳が冷えてますよ」

 風呂を上がり、入り口とトイレの前の狭い空間ですばやく着替えて部屋に戻る。

 風呂に入る前は気づかなかったが、部屋の隅に小さな冷蔵庫が設えられていた。

 中はコーヒー牛乳のほかに缶ビール、缶コーラ、トマトジュースなどが用意されている。

 どういう訳か、ヘビが描かれた元気の増すドリンクも数本あるが、ここはやはり定番の瓶入りコーヒー牛乳だろう。

 町田さんは飲みかけのコーヒー牛乳をテーブルに置いて、携帯電話の画面を確認していた。

 「結菜から電話がかかっていたみたい。なんの用だったのかしら。

 ごめんなさい。ここでかけてもよろしい?」

 「かまいませんよ。どうぞ」

 結菜ちゃんとは一度だけテレビ電話で挨拶を交わしただけで、実際に会ったことはない。ジャマイカ在住だから当然だが、たまにツアーで東南アジア方面には来ているらしい。


 「あ、結菜ちゃん? わたしです。電話してたみたいだけど、何かあったの?」

 親であればまずは心配が先に立つのは当然だ。町田さんの最初の問いかけもそんな思いが感じられた。

 「そう、それならいいけど。で、用事はどんなことだったの?」

 「……」

 「今日? 今から?」

 「……」

 「三時間だったら七時前くらいになるかしら」

 「……」

 「そうなの。よく判らないけどわかりました。じゃあ待ってるから、気を付けて来るのよ」

 「……」

 「はい。じゃあね」


 「結菜ちゃんがここへ来るんですか」

 「そうなんです。ロブちゃんも一緒で、昨日は広島でライヴがあって、今日と明日がお休みらしいの。それでせっかく近くまで来ているんだから、これから車を飛ばして来ますだって」

 「へえ、広島でライヴだったんですか。でも町田さんはご存知じゃなかったみたいですね」

 「ええ。なんとかって言う人のツアーで、その人の前座をロブちゃんたちのバンドが担当しているらしいです。

 で、そのメインの人のところのギタリストが馘になって、急遽ロブちゃんが代わりに入ることになったらしいのね。だからロブちゃんと交代する前座のバンドとの顔合わせも兼ねて、今からここまで来るって。

 どこかこの近辺でそのバンドとやらが、たまたまライブかなんかをやってるんでしょうね」

 「はあ。なんかよく判らないけど、とにかく結菜ちゃんとロブちゃんに会えるんですね。

 良かったじゃないですか。結菜ちゃんはこの旅行の事、知ってたんですか」

 「ええ、みのりが知らせてたの。いい温泉が見つかったからそこへ旅行に行くって。

 旅行中は家に連絡しても誰もいないから、心配させるといけないので行き先や期間や連絡先を教えていたの」

 「じゃあちょうど食事会の頃に着きますね。お膳と席を二人分追加しないと。

 食事はとられるんでしょう?」

 「ええ、食膳は用意してもらいます。でも泊まらず広島に戻って、明日早く東京に発つらしいわ。

 それと、追加のお膳は三人分必要なんです」

 「三人ですか? 誰かお友達が付いてくるのかな」

 「そうみたい。名前を言ってたけどわたしの知らない人らしいです。その人をわたしたちに紹介したいのかな」

 「じゃあ取り急ぎここから内線して、追加注文しておきましょう。

 御茶水氏たちとは初対面だから、私から御茶水氏に事情を説明しておきましょう」

 「お願いします。いつの間にか団体旅行みたいになってしまったわね」

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