第四章 町田母娘
「どうぞ、お入りになってください」
四十代後半の上品そうな女性が出迎えてくれた。中に入ると甘い香りが家じゅうに漂っている。
「こちら、町田さんです。今日ご紹介するみのりちゃんのお母さんです」
と、御茶水氏。車を駐車場に置いてこのお宅まで歩いてくる間に聞いたところによると、町田さんとアンドロイドのみのりさんはふたり暮らし。以前は実の娘と二人暮らしであったが、その娘は結婚して現在は外国に住んでいる。一年ほど前にみのりさんを迎えたそうだ。
「藤村と申します。今日はよろしくお願いいたします」
と挨拶しながら、途中の洋菓子店で買った、手提げ袋に入った菓子の詰めあわせを手渡した。
手みやげの包装紙を見て彼女が
「あら、このお店のお菓子、娘が好きなんですよ。きっと喜びますわ。ありがとうございます」
と嬉しそうに紙袋を受け取った。
通された客間で待っていると、町田さんがコーヒーを盆に載せて戻ってきて
「娘はいまちょっと忙しそうなので、もう少ししたら顔を出すと思います」
と言った。
御茶水氏が
「今日もみのりちゃんの手作りスウィーツが食べられるのかな?」
と呟くと
「いつも試食していただいてご迷惑をかけます」
そう言って、悪戯っぽい笑顔で町田さんが応えた。
「創作したスウィーツを色んな人に食べてもらい、感想を聞いて菓子作りに活かしていくそうです。パティシエになりたいそうですが、まだまだ発展途上で……」
と娘を評価する表情は実の母親そのものだ。
「藤村さん、何かお尋ねになりたいことがあれば」
御茶水氏が私に質問を促してくれた。
「あの、娘さんとお話しをする時、何か注意すべき点はありますか? 言葉遣いとか振る舞いとか」
「いいえ、特に。普通に接してもらってかまいません。変に気を使わず気楽に話してください。探求心が強い子なので質問攻めにあうかもしれないですから、わからないことは『判らない』とはっきり答えてもらってよろしいですよ」
特段、気に掛けることはないようなのでちょっと安心したが、しかし二十代の女性とのコミュニケーションは近頃めっきり少なくなっているので、はたして会話がはずむかどうか、そちらの方が心配だ。
まだ主役が登場しそうにないのでお母さんへの質問を続けた。
「先生から……御茶水さんから伺ったのですが、実の娘さんは結婚されて外国に住んでいらっしゃるそうですね。そちらの娘さんはみのりさんのことをご存知なんですか」
「それはもちろん。みのりの姉で長女の結菜です。
実は結菜がみのりを迎えるよう私に勧めたんですよ。母親をひとり残して遠い場所で暮らすことが不安だし、それにちょっと後ろめたいところもあったのでしょうね。
みのりとはほとんど毎日、パソコンのテレビ電話で通話しているようです。多分結菜が母親の取り扱い説明をしているんでしょう」
そう言って彼女は笑った。
「実の娘さんは今どちらでお暮しですか」
「キングストンです」
「キングストン?」
聞き覚えはあるが俄かにどこの国の都市かは思い出せない。
「ジャマイカですよ」
と御茶水氏が教えてくれた。
「ジャマイカ⁉ これはまた遠いところに嫁がれましたね」
「そうなんです。結菜の結婚した相手、ロブちゃんって言うんですが、日本で音楽活動をしていた時にライヴ会場で知り合ったそうです。結菜の好きな音楽で、なんて言ったか、レガエとかなんとか」
「今はレゲエって言うんですよ、お母さん」
と母親の間違いを正しながら、みのりさんが客間に入ってきた。手の上のお盆には二枚の皿が載り、それぞれ菓子が三つずつ置かれている。よく見ると私が手みやげに持参した菓子のようだ。
「それ、さっき藤村さんからいただいたお菓子じゃない」
と母親がみのりさんに言った。
「そう、作っていたスフレがスウィーツからソルティになっちゃって……」
「まあ。要は砂糖と塩を間違っちゃったのね」
「まあそんなところ」
とみのりさんは悪びれずに答え、菓子皿を来訪者の前にひとつずつ置き、姿勢を起こして自己紹介した。
「初めまして、町田みのりと申します。今日はごゆっくりしていってくださいね」
「あ、初めまして藤村です。よろしく」
いかんいかん、若い女性を前にもう気後れしている。
「今日はお忙しいのにお邪魔してすみません」
と急いで語を継ぐ。
「忙しいなんてとんでもない。毎日、家の中でお母さんとふたりきりだから、お客さまをお迎えするのは大歓迎ですよ」
と眩しい笑顔で答えてくれた。
表情の変化、自然な身のこなし、間近で見てもこの女性が人造人間であるとは信じられない。笹木さんにしても、御茶水氏とのやり取りを聞くともなく聞き、見るともなく見ていて、その立ち居振る舞いから彼女がアンドロイドであるなどとは露ほども感じなかった。
「お料理が得意なんですか」
「得意ではないですね。でも好きです」
と意味ありげな表情で彼女が母親の表情を窺う。
「居間にいるよりも台所で立っている時間の方が多いですね。何ができるのか期待と不安が半々……」
と母親。
「不安?」
と意外そうな口調でみのりさんは言い返すが、予想通りの母からの反応が返ってきたと思っているやり取りである。
「レシピなんかは自分で調べているんですか」
「そうですね。ネットで調べたりレシピ本を読んでアレンジしてみたり。
最初はお母さんから教えてもらっていたんですよ。お母さん、こう見えて料理が上手なんです」
「『こう見えて』ですって。さっき不安って言った私への遠回しのリベンジなんですよ」
とお母さんが私たち来訪者ふたりに目配せして小声で呟いた。
「いつもこんな感じなんですよ。本当に仲の良い母娘で、見ている私も笑顔になります」
と、御茶水氏が我が子を慈しむような表情でみのりさんを見ている。
持ってきたお盆を下げにみのりさんが客間を出て行ったので、お母さんに訊いてみた。
「直接訊ねるのは失礼なのでお母さんにお訊きしたいのですが、みのりさんはおいくつですか?」
「二十四歳です」
「と言うことは結菜さんの年齢はその少し上になるんですね。みのりさんは結菜さんを『お姉さん』と呼んでいるのですか」
「お姉ちゃんと呼んでいます。でも、結菜は二十二歳なんですよ」
「え?じゃあ結菜さんの方が年下ですね。それなのにお姉ちゃんと……」
「そうなんです。みのりが年上だから、年下の結菜にお姉ちゃんはおかしいよって言ったんですけど、みのりは『結菜ちゃんの方がこの家では先輩だからお姉ちゃんだよ』って言うんです」
「へぇー。なんだかほのぼのしていて良いですね。じゃあ結菜さんはみのりさんをなんと……」
「みのり姉ちゃんです」
「二人ともお姉ちゃんと呼び合っているんですか。とても微笑ましいエピソードだなあ。じゃあ喧嘩なんてしないでしょう」
「結菜とはまだ直に顔を合わせていないから喧嘩もないですが、私とは口喧嘩をしょっちゅう」
「へえ、どんなことで?」
人間とアンドロイドの口喧嘩、立ち入ったことを聞くようで失礼と思ったが、やはり興味が湧く。
「大したことが原因じゃないんです。料理の最中に細かいことを言うとうざったいみたいで『わたしはこうしてみたいの!』って自分のやりたいことを通すの。頑固なんですね、きっと」
と言って笑った。母娘の信頼関係がしっかり成り立っているからこその口論なのだろう。
「実は私も娘を迎えようと考えているのですが、なにかアドバイスはありますか?」
「普通に人と接するのと同じような感覚でよろしいと思いますよ。一個の人格を持った女性として見てあげてください。人間の側が自分とアンドロイドを区別するような意識を持たないことが大切です。
あとは甘やかせすぎないことですね。『可愛いかわいい』だけじゃ良い関係は成り立たないでしょう」
いちいち首肯しながら聴いてしまう町田さんの言葉である。子育て経験のない私にとってはすべてが金言だ。
「あら、もうお帰りですか? もっとゆっくりされていかれると思ったのに。夕食のご予定がなければうちで食べて帰られません? 期待にお応えできるディナーを用意しますよ」
と笑顔でみのりさんが言った。
「できればご馳走になりたいのですが、残念ながら夜は仕事の打ち合わせがあって……」
本当は彼女の料理を食べてみたいが、初めてのお宅で夕食をいただくのは気が引けるので、今回は丁重にご辞退した。
「娘さんをお迎えになったら、ぜひお友だちとして紹介してください」
「もちろん! うちにもぜひ遊びに来てください」
「楽しみにしていますわ。今日はなにもお構いできずすみませんでした」
「とんでもない、こちらこそお邪魔して申し訳ありませんでした」
もっと話してみたい気持ちを押さえ、見送る町田母娘に後ろ髪を引かれる思いで町田家を後にした。
「どうでしたか、みのりちゃんとのファースト・コンタクトは?」
と御茶水氏が帰りの車の中で訊ねてきた。
「驚きました。もはやアンドロイドなどと呼んでは失礼じゃないかと感じるほどの女性ですね。なによりお母さんとの関係がとても良好なようで、あれは感心を通り越して感動しました」
「どこの家庭でも見かける、仲の良い母娘の風景ですよね。もちろん一日中顔をつき合せているわけだから、さっき話されていた料理以外のことでも親子げんかはあるでしょう。そんな日常を過ごしてきている上でのあの関係だから、心はしっかりと繋がっていると思います」
御茶水氏にすればどの個体も自分の子供のような感覚であろうから、その子達がそれぞれの家庭に迎えられ、家族として受け入れられていることは至上の喜びなのかもしれない。
「御茶水さん自身はアンドロイドがあんな風に進化すると考えていましたか」
「こうなるだろうなと言う期待は持っていました」
「では期待通りですね」
「期待を大きく上回っていますよ。私は開発者ですが、正直この結果にかなり驚いています」
「アトムを生んだお茶の水博士もそのような気持ちだったでしょうか」
「きっとそうでしょう。生みの親の予測をはるかに超えた能力を秘めていたんですから」
みのりさんが砂糖と塩を取り違えたエピソードを思い出し、アンドロイドでも失敗することがあるのを新鮮に感じたので、その点について訊ねてみた。
「みのりさんが砂糖と塩を間違えていましたが、アンドロイドも失敗することがあるんですね。これは人間らしくあるためになんらかの設定がなされているんですか」
「『何度かに一回は間違いなさい』と言うプログラムはありませんが、外部からの情報は人間と同じ目、耳、鼻、口や手触りなどから得ているので、似ているものを取り違えることはあります。
アンドロイドが持つ人間らしさのひとつは、間違えたり勘違いをすることがあるからなんです。でもそれは我々が意図していた訳ではなく、感覚センサーのパラメーター設定を人間に近くした結果、そうなったのですが」
ではみのりさんより後に誕生した個体のプログラムにはパラメーター値に修正を加えて、勘違いが少なくなるような修正が加えられたのかと訊くと、御茶水氏は
「これも予期していなかったのですが、彼ら彼女らはそのプログラム上の問題を自ら修正して『確認する』ことを始めたんです。感覚に頼る情報は必ずしも正確ではないことを覚ったのでしょうね。醤油とソースを見分けるには目からの視覚情報だけではなく、鼻で匂いも嗅いでみるとか。二重のチェックですね。
これは重要な自立発展の要素なので、あえてその後の個体も関係するプログラムの変更は行っていません」
なるほど、このアンドロイドたちは、弱点を自分なりに克服してしまう能力も備えているのだ。
「じゃあみのりさんの失敗は視覚からの見間違えなんですね」
「ああ、あれは単にお客さんが到着したので、急いでスフレを完成させなければと慌てたために起こった勘違いじゃないですか。あの子はしっかりしてそうで意外とそそっかしいところがあるんですよ。それが彼女の個性なんですけどね」
と言って御茶水氏が優しく笑った。
笑って済む程度の間違いなら問題ないが、もっと深刻な状況になりかけたことはあったのだろうか。
「調味料の取り違いくらいなら人間でも日常茶飯ですが、私たちがまず起こし得ない間違いを彼女たちが犯す可能性はないのですか」
「実はあります……ありましたね」
「へえ。どんな間違いを?」
「外に出るのに二階の窓から飛び降りようとしたことがあります」
「あのみのりさんがですか⁉」
「いえ、みのりちゃんではありません。別の男性の個体です」
これは重大事案だ。私のマンションの部屋は八階にある。地上三〇メートル近くはあるベランダから飛び降りようものなら、さしものアンドロイドもちょっとした怪我では済まないだろう。
「実際に飛び降りたんですか?」
「飛び降りようとしたんですが『高い場所から落下すると怪我をする』と深層プログラムが命じるので窓枠に座って迷っていました」
「ギリギリのところでフェイルセーフがはたらいたんですね」
「そうなんです。その個体は怪我をせず生活の中の教訓を学んだことになります」
「ふーん、そんな間違いを犯す可能性もあるのか」
「そうです。だからそう言った深刻な事例が発生すれば、その情報はフィードバックされて以降に生まれる個体の深層プログラムに反映されます」
重大な結果をもたらすような問題であれば、その都度プログラムは改善されているのだ。
「その男性の個体はどちらかのご家庭で生活しているんですか」
「実は」
とまたもや御茶水氏が秘密を打ち明ける口調になった。
「実は二十五体のうちの男女一人ずつがうちで暮しています」
「そうなんですかっ! もしかしたら笹木さんはそのひとりで?」
「いえいえ違います。笹木さんは別の家のご家族です。
うちの二人は元々プロトタイプとして生まれてきた個体で、プログラムや筐体の動作が正常に機能しているかを確認するための役目を担っていたのです」
「確かに製品を開発するには、必ず試作品を造ってデータを解析しますよね」
「そうです。でも試作品と言えどもこのアンドロイドたちはほぼ完成された状態で誕生しているので、機械のテスト品と同じように扱うことはできません。ひとりの人間として敬意を持って接しています。今ではみのりちゃんと同じように人間と同化して、毎日を私たちと共に生活していますよ」
御茶水氏の家族構成はどうなっているのだろう。プライベートに関わることだが訊いてみた。
「二人のアンドロイドの関係はどうなっているんですか」
「兄と妹です。兄は二十二歳、妹が二十歳」
「あとは奥さまと……」
「妻とふたりの娘がいます」
アンドロイド兄妹と人間姉妹、どんな関係を構築しているのだろう。私が興味をそそられた顔をしているのが判ったのか、御茶水氏が自分から話し出した。
「姉妹の方は中学一年生の双子です。どこにでもいる今どきの女の子たちで、反抗期の入り口あたりをウロウロしている感じですね。最近は親子の会話が少なくなりかけていたところです」
「お兄ちゃんお姉ちゃんと双子ちゃんたちはうまくコミュニケーションがとれていますか」
「とてもいい感じですよ。お兄ちゃんは時々勉強を教えてあげているようだし、お姉ちゃんは一緒にテレビを見てふたりから芸能情報を吸収しています」
アンドロイドには双子の区別がつくのだろうか。
「双子ちゃんたちの違いを、アンドロイドのお兄ちゃんとお姉ちゃんははっきり認識できますか?」
「《双子》の概念は知識として持っていますから、うちに来る前はそっくりな姉妹と予測していたでしょうね。
でも、うちの双子姉妹は二卵性なので瓜二つではありません。むしろ似てないと言った方が正確でしょう。性格も正反対ですし」
「じゃあアンドロイド兄妹は混乱したのではないですか、思っていた双子のイメージと違うと……」
双子姉妹を前に目を白黒させている兄妹の姿が浮かぶ。
「多少は混乱したでしょうね。でも後から聞いたその時の二人の感想は『こんなケースもあるのかと新鮮に思った』そうです。持っている双子の知識をその場でアップデートしたんでしょうね」
情報の処理能力はやはり人間よりも高いのだろう。しかしアンドロイドとの能力差を極力なくすのが設計思想だったと思うが? と私が訊ねると御茶水氏は
「記憶力も情報処理速度についても人間とさして変わらないと思います。ただ人間は齢をとるごとに少しずつ脳の活動が衰えますが、理論上は老化しないアンドロイドには処理能力の衰えがありません。そのため人間の方が劣っているように感じます。
知識の呼び起こしは、それぞれの記憶項目をインデックスにしているので、その時必要な情報をまずインデックス検索し、それに合致した情報が見つかるとそれを処理中枢に呼び込んで行動を制御します。
言葉にすると凄く複雑でスピードがある感じがしますが、実は人間の脳も同じような働きをして自身の行動を制御しているんです。ですから人間よりもアンドロイドの情報処理能力が非常に高いわけではありません」
人間と変わらない思考や行動を自発的に起こすのだから、アンドロイドの中枢プログラムはかなり複雑なのではないかと思う。
「あの、企業秘密であればノーコメントで結構ですが、アンドロイドの一番深いところにあるプログラムはかなり複雑なんでしょうね。
伺ったお話しを総合すると、味覚や触覚や判断力や……人間と同じように物理的に感じたり、イメージや場の雰囲気を読む能力など、相当にむずかしいことを彼らや彼女たちは難なくこなしているように見えます」
この質問に対し御茶水氏は
「特に企業秘密はありませんよ。誰でも考えつくようなシステムです」
と言い、私の問いに答え始めた。
「運動系の制御プログラムはかなり複雑で、開発陣は苦労したと聞いています。
しかし、私が関わった思考系はそれほどむずかしい設定をしていません。痛みを感じて不快に思うのは、たとえば皮膚を抓られるとその強さに応じて不快値が増加します。アンドロイドは不快の数値が上がらないよう、抓る相手に言葉を発して止めさせるか、抓る手を払って対応するでしょう。
逆に好きなものを食べて美味しく感じるのは幸福値が増大するからです。
自分以外の個体や人間も同じように痛みや味を感じると理解することで、相手への思いやる心や空気を読む能力が生まれます。
このように快・不快や好悪の反応はすべて数値化され累積していくことでコントロールされるのです。システム自体は単純な設計思想です」
「なるほど、そうやって説明していただくと、とてもシンプルで解りやすいです」
と言ってから、ふと疑問が湧いてきた。
「好物を食べると幸福値が増えると言われましたが、それだと永遠に食べ続けることになりませんか?」
「そうならないよう、一度に増える数値の上限があるので、それに近づいてくると値が上がらなくなり、その時点で満腹感を覚えてきます。更に食べ続けてマックス値を越えれば、逆に不快数が溜まり始めます。人間なら『お腹いっぱいでもういらない』と言う状況ですね。
だから好物だからと言って永久に食べ続けることはありません」
感情や外界からの物理的な刺激を全て数値化し、言葉と行動に反映させている。あまりに単純な発想で驚いたが、しかし複雑化すればその分、思わぬところに論理エラーが隠れているリスクが増すことを考えると、シンプルであるに越したことはない。
御茶水氏によれば、アンドロイドは学習能力が非常に高く、日々の生活の中で人間との会話や人間同士のやりとりを観察し、微妙な表情の変化や声のトーンの違いから相手の気持ちを察する術を体得することができるそうだ。
私たち人間同士がコミュニケーションを持つ際に無意識にしている観察から、相手がどんな人物かを知ろうとする行為をアンドロイドも行っているのだろう。
ひとりの個体が得た情報は別のアンドロイドたちに共有されているでしょうね、と尋ねると御茶水氏は
「いえ、ある個体が学んだり知り得た情報を、電子的に別の個体に伝えることはありません」
「それは個人情報が含まれている可能性があるからですか」
「それもあります。もしどうしても共有したい情報があれば、電話やメールで送ることになります。人間と同じですよ」
「と言うことは、誰かに情報を知らせたい時には口頭かネットワークに接続して伝達するのですね」
「そうですね。アンドロイドだからと言って二進数のビット情報を常に電波でやりとりするようなことはしていません」
ではネットワークにどのようにして入るのだろう。
「インターネットへはパソコンかスマートフォンから接続します。我々と同じです」
「電話回線かWi—Fiを使って管理システムのようなコンピューターに自分のシステムを繋げるわけですね」
「いや、そうではなくて、私たち人間と同じようにパソコン画面かスマホ画面を見て情報を得たり送ったりするんです」
これは意外だった。アンドロイドの脳に相当する部分は当然コンピューターだろうから、ケーブルなり微弱電波を通じてプログラムの更新や、フィードバックされた情報を取り込んでいるものと思い込んでいたからである。
パソコンなりスマートフォンでメールのやり取りや、自分に必要な情報を検索するのは人間には当たり前のことだが、アンドロイドがそこまで模倣しなくても良いのではないか。
「それはアンドロイドにとってはとても非効率的なことですよね。せっかく自前の高性能コンピューターを内蔵しているのに……」
「確かに情報の通信速度だけを考えればデメリットになりますが、全く違う環境で生活しているアンドロイドたちが、ひとつの同じシステムで情報を共有すると、個性が失われ全員が似通った性格になってしまうかもしれません。
それに悪意のある者がシステムに侵入してウィルスを埋め込むと、接続した複数のアンドロイドがウィルスに感染して、最悪の場合、動けなくなったりコミュニケーションがとれなくなる恐れもあります。
独立して活動するアンドロイド一人ひとりにも、直接システムに入り込まれる危険性が設計段階に予想されたので、それぞれの中枢にある重要なメモリーは電磁的に完全なシールド状態にして格納されています」
同じシステムに多くのアンドロイドが接続すると、個性が均一化されてしまうと言うのはなるほどと納得した。ひとつのメディアから一方的に流される報道を、なんの疑問も持たず只々聞かされる状況を想像すれば、人間も多くが同じような意見・思想を持ってしまい、画一化された社会になってしまうだろう。
通信速度や情報量は遅いし不正確であるかもしれないが、ハッキングから身を守るにはこのアナログ的な設定の方がセキュリティは高いのではないかと思う。
しかしプログラムの更新はどうするのだろう。ネットワークを使用しないのならメモリーカードを内蔵スロットルに差し込んで取り込むのだろうか。
「アンドロイドが完成した時点で、筐体が破損して修復が必要な場合を除いて、外部メモリーやケーブルによる接続は一切できなくなります。だからプログラムも電子的な方法での更新は行いません。
先ほどお話ししたように、メールや書類で送られてきた情報を読んで、生活をしていく中に於いて重要と思われる要素は中枢領域に記憶します。これは深層プログラムとしてコーディングされ、アンドロイドの行動規範に追記されます。
その他の一般的な知識はインデックスをつけて通常メモリーに保存され、必要に応じて呼び出されます。
アンドロイドが人間と生活を始めたその時から、外部とのコミュニケーション方法は人間のそれとまったく同じです」
「じゃあ家族との日々の会話から得る知識のウェイトがかなり高いと言うことか。
経験はないけれど、子どもを育てるのと同じなんでしょうね」
「その通りです。うちのふたりも家人たちとのやりとりから多くの事を学んでいます」
「私にアンドロイドを育てることができるだろうか」
段々と不安になってきて思わず心の内を口に出してつぶやいてしまった。
「大丈夫ですよ。初めて子育てをするご家庭にも今までに何体かご縁をつくりましたが、どこも順調にいっているようです。
男手ひとつだから、まずは娘さんに合った生活環境を作ってあげることが大変でしょうけど、それも最初の一週間くらいで整ってくると思います。私でできるアドバイスなら遠慮なさらず質問してください」
アンドロイド・ラボに戻り契約の手続きを申し込んだが、一度自宅に戻ってゆっくり考慮し、三日後に電話をくださいとのこと。即日契約を結んでも一~二日して解約を申し出る例が何度かあったので、購入希望者が冷静に考える時間を取るための期間を設けていると言うことだ。
実際にアンドロイドと触れ合ってみて、その直後は気持ちが盛り上がっているが、少し頭が冷えてくると、これから始まる現実の生活を想像して気が萎える人もいるらしい。
言われたとおりにその日は帰宅し、深く浅く考える七二時間を過ごしたのち、契約をする旨の電話を入れた。
三か月後。配送業者から『明日午前中に配達予定』のメールが着信した。いよいよと思うと浮足立ち、とりあえず室内の清掃や冷蔵庫の中の確認などする。
疲れて一息つきコーヒーを飲みながら『今夜は眠れないだろうなあ』などと考え、見るともなくテレビを視ているうち、いつしかソファーで寝落ち。
「ピンポーーーン」
インターホンの呼び出し音で目が覚め、飛び起きた反動で足がテーブルに当り、冷めたコーヒーの残ったカップをひっくり返しそうになった。慌ててモニターの前に行き来訪者を視認、応答ボタンを押し
「はい」
と答える。
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