sweet lips bitter kisses

痴🍋れもん

sweet lips bitter kisses 蜃の夢


 どこかで誰か若い女が笑っている声がした。明るいその声は早朝の宮城には不似合な程よく響く。その艶を帯びた笑い声は意中の男に聞かせる為のような気がした。不思議な事だが女は女のそんな気持ちを敏感に感じ取る。だが男はどうなのだろうか。果たしてそんな女の気持ちに気付くものなのだろうか?


御前のお目覚めもまだの薄明に響くその声は少々無作法な気もしたがその笑い声のお陰で起き抜けの重い心が擽られ解れていった。


「いい夢でもみたのか?」


暖かな息で耳元をくすぐるようなその声も朝の気怠さにくぐもって聞こえる。夫のいる朝はいつも物憂い。


「まあ、もうお目覚めに…。」


「んん…朝から喧しい声がしておったな。」


「あれはきっと…ふふふっ、想う相手に聞かせるために笑っておるのでございます。」


夫はきっとその事に気づいてはいないだろう。


「わかるのか?そんな事が。」


どれ程残酷である事か…


「はい、女人は皆気付いております。」


「そんなものか?」


男は気付かないものなのだ。


「はい、そんなものなのです。」


だが女人は皆こうした事には敏感だ…。さっきの女がまた笑った。その者は相手の心を捉える事が出来ただろうか?


「もう準備なさいませぬと朝議に間に合いませぬ。お勤めに差し障りがあればまた…、」


近頃では些細な事でも気を付けねば内殿に強い風が吹き付ける。


「傍仕えのものが困ります。ふふふっ、さあ。」


だから言葉とは裏腹に心が血を流す。


「それに、明日の夜にはまたお会いできます。」


夫のいる朝は物憂い。その日の夜を誰かに奪われると決まっているのだから。


もう随分と春めいた風が吹いていた。内殿の開け放した窓からは丁度交代の刻限となった近衛が引き継ぎをする声が聞こえた。近衛の海老茶の兵装は静嬉の胸にいつも切ない痛みを与える。父の勧めもあって王妃の傍で控えるようになった静嬉は王宮に出仕したその日から背の高い近衛隊長が風を切るように歩くその姿をずっと遠くからでも認める事が密かな楽しみになっていた。


「あら、梅の香りかしら?」


内殿の裏庭にある白梅は既に花弁を茶色く焦がし始めて暫く前から窓を明け放していても花の香りが部屋に流れ込んでくることはもうなくなっていた。


「こちらでございましょうか?」


静嬉は首を傾げた王妃に袖元から取り出した香袋を差し出した。香袋は母が生前自ら針を運んで刺繍してくれたものだ。香袋を顔に近づけた王妃は深く息を吸い込まれると、その瞳を明るく見開かれた。


「ええ、この匂いよ。これは何という香かしらン。」


旻の王族出身の王妃はこの国の言葉を不自由なく話したが、時折…そう、こうして傍仕えのものや王と穏やかに話される今のような時には、微かにその語尾が籠るように丸く響くことがある。それはこの上もなく可憐に聞こえた。


「梅花方でございますが特別に調合させたものでございます。」


「そう、だからなのねン。本物の梅よりも梅らしい香り…。」


「宜しければ明日にでも練香をお持ちいたします。」


静嬉がそう言うと王妃の顔が芙蓉の花が咲いたようにほころんだ。その微笑みは静嬉にとって宮仕えの大きな喜びの一つだった。誰かの妻となるべき季節も無為に過ぎようとする今の静嬉にとってその微笑み以上に生きる糧になるものはなかった。


「宰相閣下がお見えでございます。」


王妃の美しい微笑みが取次の女官の声で一瞬にして失われてしまった。女官に案内されてきたこの国随一の高官は恭しく頭を下げたが、その姿が恭順であればある程、静嬉は心根の太々しさを見た気がした。


「小臣、謹んで王妃様にご挨拶申し上げます。」


心なしか顎を引いた王妃は穏やかに微笑まれた。


「…よくいらっしゃいました。」


静嬉は自分がどんな心持でいればいいかわからずコッソリと女官長の顔を見たが、彼女は目を伏すようにして何を考えているかその表情からは全く伺えない。


「先般の朝議でかねてより奏上の内命婦選定について上程され、間もなく宣旨が下されます。これもひとえに王妃様がお口添え下さいましたお蔭と臣一同、心より感謝致しております。それで…此度小臣の娘に内々で入宮の打診がございました。」


深々と頭を下げた宰相の頭上にちんまりと座った小さな髷が無性に憎らしく見えて、静嬉は宰相のその言葉に怒りが込み上げてきた。


「それはようございました。」


だが凜と前を向いた王妃の声は微塵も震える事はなかった。


「宰相の御息女でしたら内命婦のお役目存分に果たされましょう。」


それは立ち上がった宰相が暇を告げた時不敬にも王妃の顔色を伺うような素振りを見せてみ崩れることはなかった。しかし、静嬉はふと見た膝の上に置かれた王妃の手がその関節の白くなる程固く握りしめられているのに気付き、鼻の奥にツンとした痛みを感じた。静嬉は不意に溢れそうになった涙を抑えるために口の中を強く噛みしめねばならなかった。


あれ程脅迫めいた事をしておきながら涼しい顔で王妃に相対した宰相はその事を忘れたのであろうか。物覚えの悪い宰相と違い静嬉はその時の事をはっきりと覚えていた。


あれは立春過ぎの肌寒い日だった。前栽の梅が一輪二輪咲き始め、蜜を吸いに来た鳥が良い声で鳴いていた。内殿に続く殿廊が騒がしくなったと思うと取次女官が宰相の訪れを告げた。宰相は十名はおろうかという重臣を伴っていたため内殿は空気までが窮屈に感じられた。静嬉はその中に家では見せないほど厳しい表情の父の姿も認めた。


「王妃様にはご機嫌麗しく臣一同喜ばしく思っております。」


その空々しい挨拶の言葉の主にはこのところ食の細くなった王妃の青白い顔が見えていないようだった。


「誠に申し上げにくい事ですが、臣一同、先般、内命婦の選定を行うべく王に上奏致しました。王妃もお聞き及びかと思いますが…。」


宰相は挨拶とも言えぬ言葉の後に、目を伏せることもせずいきなりそう切り出した。無作法な視線は宰相だけでなく、そのすぐ後ろに控える静嬉の父からも、他の重臣たちからもただ王妃一人に注がれた。その不敬な視線には傍で見ている静嬉でも震えあがるような威圧感があった。


「ええ、それが?」


王妃は宰相を見据えていつもよりも少しゆっくりとした口調でお答えになった。その短い言葉の中にはいつものような可憐な旻の訛りはなかった。


内命婦選定に係る奏上は重臣が大挙して内殿を訪れる十日ほど前に既に素案が出来上がっていた。当日は珍しく暗い表情の今上がいつもより早い刻限に内殿にお見えになった。人払いをされるとお二人で何事かを話されていたが今上はお泊りになられることはなく直ぐに部屋を出て行ってしまわれた。その時お二人がどんな話をされていたかは翌朝に女官長様からお話があった。今上は他人の口から伝わると王妃が傷つかれるだろうと、近々、内命婦選定の奏上がある事を王妃様に事前にお話に来られたのだ。


王妃は輿入れされて五年近くになる。その間に一度、懐妊された。輿入れされて二年ほどたった頃だったが不幸にもその御子は生まれる前に御仏の下に旅立ってしまわれた。仲睦まじいご夫婦であったが、それ以降王妃には懐妊の兆しがみられない。そのため王妃以外の内命婦を持たれていない今上にはこれまでも事ある毎に継嗣の無い事が問題になっていた。


だからやりようは兎も角、このような事態も仕方のない事だという事は、父に言い含められずとも静嬉も十分に承知していた。


今上の父王の即位の折、先王には妾腹の弟にあたられる大君を擁立する奸臣が謀反を企てた。結果、国を二分するような騒動が起こったのだ。その時は多くの者が罪を得て殺され、配流された。静嬉の許婚だった者の家もその時に離散してしまい今や都には誰も残っていない。この王宮には未だにその時の傷を抱える者も多いのだ。今は旻国にいるその大君の近習が相次いで帰国したのは昨夏の初めだった。女官長様は静嬉と二人になってから『静嬉は家で何か聞いておるか?』と尋ねられた。その質問に静嬉が首を振ると女官長様は『此度の内命婦選定は避けられぬかもしれぬ。』と深いため息を漏らされたのだった。


「今上は王妃の母国大旻に対する気遣いから、なかなかこの件をご承諾下さいません。」


宰相はこの時意味ありげに片眉を上げで不敬に王妃を見据えた。王が新妃の入宮を承諾されないのは、そうした政治向きの話では決してない。それなのにそうした政の理ばかりで先走っていく重臣たちの“何もわかっていない”言いようは静嬉を苛立たせた。今上があの日王妃に告げられたのはきっとこのような事態を想像されていたからなのだ。 


「旧守派はまた大君閣下の推戴を画策しております。今上派の求心の為にも継嗣が、そしてその為に内命婦の必要なのでございます。」


「ええ、それで私に何を。」


苦痛の滲んだ王妃の言葉が終わる前に居並ぶ重臣が申し合わせたように一斉に跪いた。


「今上が内命婦選定の詔を出されるようどうかお口添えを。」


宰相が声を張り上げると


「どうかお口添えを。」


その声に続いて重臣たちが同じ言葉を唱和した。その物々しい声に驚いた庭の鳥がバサバサと羽音をさせて飛び立った。後には張り詰めた静寂だけが残った。


やがて宰相が再び口を開こうと大きく息を吸い込むと白く華奢な王妃の手が上がり宰相の次の言葉を制された。


「其方らの忠心、よくわかりました。」


それでも宰相はまだ何か言おうとしたが、今度は女官長様がすかさず


「王妃様、そろそろご用意をなさりませんと本日は国家安寧の御祈願の為、親拝なさるご予定。もうすでに出立の刻限が過ぎております故…。」


王妃に話しかけた。しかしそれでも重臣たちが立ち上がろうとしないと、今度は王妃ではなく宰相をじっと見つめたまま言った。


「阿闍梨がお待ちでございます。」


それでやっと、宰相が諦めたように立ち上がった。深々と一礼した宰相は尚も何か言いたげであったが、王妃の固く結ばれた唇を見て諦めたのだろう。重臣たちと共に来た時同様、騒々しく出ていってしまった。


重臣たちのざわめきが遠くなると内殿の中が水を打ったように静まりかえった。するとそれを待っていたかのように誰かがホウッと息を吐いた。その溜息がきっかけになって古参の女官が慌てたように王妃の外出の用意を始めた。だが女官長様は女官が持ってきた王妃の外衣を取り上げた。


「そちも長い事私の下におるのにこうしたことには察しが悪い。お疲れのようだから熱い茶を用意しなさい。」


静嬉はその時、肩を落とした王妃が聞こえるか聞こえぬかの小さな声で、


「皇帝の縁者ゆえ今上のお力になれると自負しておったのに、今日ほどこの国の人間でないことが恨めしかったことは無い。」


そう呟くのを聞いた。だがその言葉が空気に消えると再び王妃は背筋を伸ばし、いつもの美しい王妃に戻っていた。おそらくその時からだ。静嬉がこの貴人の為に生きていきたいと思ったのは。


女官長の予想どおり翌日、内命婦選定の宣旨が下ると名家の息女の推挙と名簿作りが粛々と進められた。既に宰相の御息女が内定していたのでそれは形式的なものであったが、全ては国法に則り進められた。


そうした政の瑣事をよそに今上と王妃は時を惜しむように濃密な時間を過ごされていた。今上は努めて王妃との時を持とうとされていた。そのように桜の香雪が降りしきる中、王と王妃が散策を楽しまれていたのはつい昨日の事のようだったが、花の散ってしまった桜は緑の葉が生い茂りもうそれとはわからぬただの樹になってしまった。


新妃の入宮は、緑の濃くなってきた頃になって漸く決まった。それは大旻からの聖旨がなかなか下されなかったからだが、それでも冊封に拘ったのは、内命婦選定を推し進めた重臣達だった。


「属国からの脱却を目指しながら冊封に拘るのはおかしい。」


という静嬉に父が我が国の難しい立場を


「新妃の入宮には、一点の曇りも許されない。もし何かあれば、新妃がお産みになる御子たちのお立場、ひいては我が国の未来に関わるのだ。」


とそのように説明した。


静嬉が遠目に見た新妃は美しい方だった。今を時めく寵臣の御息女故、国威を周辺諸国…特に我が国を属国として支配する宗主国に知らしめるためもあって、次妃の入宮にしては破格なほどきらびやかな婚礼が行われた。下婢に至るまで何かしらの下賜があり、大規模な恩赦も行われた。都中が浮足立ち華やいで見えた。


この頃の内殿は鈍色の霞が漂っているような何処となくくすんだような空気が支配していた。だが王妃が微笑まれるとその時だけは、内殿の霞が晴れて風が冴え冴えと流れた。


「静嬉、其方の持ってきてくれた梅花方。殊の外、王が気に入って下さった。」


父は残念がっていたが王妃に差し上げた事を悔いはしなかった。静嬉にとっては王妃の微笑みの方が余程価値ある事に思えたのだ。


王妃は変わらず背筋の伸びた美しい姿で居られたが、春が終わり夏に近づくにつれ少しだけ笑い声が短くなり少しだけ伏し目がちになり少しずつ食が細くなっていかれた。


新妃の入宮後は王が内殿に来られることが目に見えて減っていた。今上は努めてお二人の妃を「等しく」遇しておられるように見受けられた。だがこうして夜を数える日々は今上と王妃、そしておそらくは新妃のどなたもがそれぞれに苦しい事に思われた。今思い返せば始まりはその頃だった。それはほんの些細な事だった。その為それが始まりだったとはその時には気付かなかった。


「痛いっ。」


ある日、お召し替えをされていた王妃が小さく叫ばれた。どうやら王妃様のお召し物に折れた針先が残っていたようだった。静嬉が見ると王妃の白い首筋には、その針先と同じ程の小さな小さな赤い血の玉が出来ていた。慌てて手当てがされたが、恐れ多くも王妃の肌を傷つけたという事で女官たちがどの者の仕業かと針房の女官を数え始めた。しかし王妃は憤慨する女官たちを諫めておっしゃった。


「これはここだけでお終いになさい。事を荒立てれば、咎めを受ける者が出る。」


聡明な王妃はそうした事がどういった帰着点を持つのかよくお分かりだったのだ。その言の葉はいつものようにお優しい口調だったがそこには毅然とした強さがあって皆がその事をもう口にすることはなくなった。だが、その出来事が忘れ去られて暫く後のある日のこと、刻限を幾らか過ぎてから酷く冷めた飯床が運ばれてきた。内殿の女官たちはやはり憤慨したが、今度も王妃の執り成すようなお言葉で話を収めた。王妃は食の細くなった王妃の為に御医から指示が出ていたからだろうとおっしゃった。


しかしそれは、その時が限りの事ではなかった。その後も度々飯床が妙な味付けだったり冷めていたりした。そう言えば王妃の洗い終わった御召し物が酷く傷んで戻ってきたこともあった。何もおっしゃらぬ王妃様の心を代弁するように女官長様がその御召し物は婚姻前に今上から頂いた懐かしいものだと残念がっていた。きっとその御心の内では思う事がおありだったろうが、その時も王妃様は、


「構わぬ。」


と一言そうおっしゃってお終いになさった。しかし気持ちの収まらぬ古参の女官が”不注意”の度重なっていた焼厨房の女官に注意したらしい。


女の多い場所ではよくあることだが、そうした小言は表立って反駁されることは無くとも陰湿な復讐を生むものだ。特に女同士のそう言った諍いは、見えにくい場所で陰湿に行われる。古参の女官は旻国にいらした折より御仕えしている忠義者だったから、もしかすると少し言い過ぎたのかもしれない。この一連の出来事が噂を呼んで次第に大きくなるうち、とうとう女官長様の耳に入り王妃付至密女官と焼厨房の女官の双方がきつくお叱りを受けた。そしてやっとこの事は終わりになった。その後“不注意”がなくなった事で静嬉も他の者も女官長様ですらそう思っていたのだ。しかしそれは間違いだった。


御池の蓮に蕾がつき始めた頃事件が起きた。王妃のご実家から新妃入宮に際して送られた祝儀は内殿の女官が新殿にお届けした。…はずだったがその品がどういうわけか書院の裏手に無残な形で打ち捨てられたのだ。それは螺鈿に翡翠の施された見事な細工の文箱であったのだが、その価値を知らぬ雑色が捨てられていた文箱を拾って市に出したため事が露見した。当初はその雑色が新殿から盗んだものとして裁かれたのだが大旻との外交関係も絡む為、後宮の中だけでは納まらぬ大きな問題となった。


やがて新殿の管理も問われることになり程なく、一人の女儒が誤って捨てたとわかった。その者は笞刑に処せられたが、出仕し始めたばかりのその幼き者が打たれる様は静嬉が観ても酷く可哀想であった。


そしてどういう訳かこの事が王妃の立場を難しいものにした。何故か瑕疵のないはずの王妃に批判が集まったのだ。”王妃は宗主国の威光を笠に着て横暴の限りを尽くしている”と。


静嬉は、この一連の出来事にやる方のない憤懣を感じたが同時に腑に落ちない居心地の悪さも感じていた。それは黒い気味の悪さだった。


 新妃への祝いの品は改めて王妃のご実家より送られてきた。今度は女官長様が自ら王妃の名代として新妃のもとに伺うことになった。女官長様に伴われた静嬉も初めて新殿に赴いたが何もかもが新しい新殿は華やいで見えた。暗く沈んだ内殿と比べその華やかな軽薄さに静嬉は訳もなく反発を覚えた。


 女官長様が”隙のない“口上と共に祝儀の品を渡し終え立ち去ろうとした時、


「その梅の香り、それは、其方の香りか?」


恵妃が随伴の静嬉に向かって棘のような鋭い声音で問い質した。突然の問いかけに驚きながらも不敬にならぬように顔を伏せながら肯定する静嬉に恵妃は更に鋭い語調を向けた。


「其方、王妃付の女官だな。其方は、王のお側にもお仕えするのか?」


余りに強い詰問に静嬉が、答えあぐねていると女官長様が恵妃と静嬉の間に割り込むように立ってくださった。


「この者は見習いの女官で王妃のお傍に“のみ”お仕えしております。」


「昨夜、王のお召し物からその香りがしていた。其方本当に、王とは、…。」


恵妃の目の奥に仄揺れる女特有の感情が見えて静嬉は慌てて言い足した。


「香は王妃様に差し上げて…。」


はっとして言葉を止めた時にはもう遅かった。先程から静嬉を睨みつけるように見ていた


恵妃の傍仕えの者達の間でざわめくように視線が交わされた。そして、恵妃が苦しそうにその美しい顔を歪められて静嬉は口にした言葉を後悔した。


 静嬉は今日初めて新妃のお顔を間近で拝見してこの貴人に以前お会いしたことがあることに気付いた。


 権門の夫人方は時折、互いの家で茶会を開いていた。その時には各々が娘を同伴することもあり静嬉も度々そうした集まりに母に帯同されていった。恵妃にはその折に何度かお目にかかったことがあったのだ。恵妃は覚えておられぬようだったが静嬉はその美しいお顔に覚えがあった。その時には、今と違いもっと柔らかい雰囲気の物静かな方に見えた。そうした集まりから縁談が始まる事もよくあって、確か恵妃には静嬉の直ぐ上の兄との縁談も持ち上がった事があったはずだ。その縁談はいつの間にか立ち消えになり兄は今は遠い任地で新婚の妻と睦まじく暮らしている。静嬉は穏やかな兄夫婦の暮らしぶりと触れれば切れそうに張り詰めた表情のこの美しい貴人を重ねて見ずにはいられなかった。もしこの方が義姉になられていたらどうだったろうか?と考えた静嬉は、そうなっていたら、今とは違ってこの貴人がもと優しいお顔で微笑まれていたような気がした。しかしそうなっていたなら、きっと別のどなたかが、新妃としてのお役目に当たられたのだろう。それは、自分だったかもしれぬのだ。


 恵妃の推戴が決まった日、帰宅した父が教えてくれた。


『実は此度の新妃候補にお前の名も挙がっておったのだ。この国に奉職する限り本来なら喜ぶべきことだが儂にはできなんだ。家門の誉れとなるかもしれぬがあれ程愛でられておる王妃の次妃となれば、お前の女としての幸福は諦めねばならぬ。それが不憫でお断りした。お前にそんな生き方をさせられぬゆえ。宰相閣下は儂などより忠心の深いお方だ。勿論少々は野心もあろうがそれだけではない。』


そして、父は


『今は王妃に心を込めてお仕えしなさい。』


とも言った。


『王妃はこの国では王しか頼る方もおられぬ。これからこの国が独立の為の戦を始めれば王妃は、ご自分の思わぬところでそのお立場を試される事にもなろう。…今上の即位は王妃のお力添えなくしてはありえなかったのに、多くの者はそんな恩もすぐ忘れてしまう。新妃が入宮されれば尚の事そうなる。』




「はしたない事をした…。」


恵妃は、その美しい唇から溜息をもらすと静嬉には興味を失ったように言い捨てた。


「もう、下がりなさい。」


以前とは様変わりされてしまったその妍の強さだけが際立つ恵妃のお顔を見ながら静嬉は、少し前に耳にした噂話を思い出した。


“今上は新殿では、ただおやすみになられるだけだ”と。


また国舅となった宰相の辞職後、また別のある噂がまことしやかにささやかれた。


“宰相閣下は辞職に際して、新妃にもっと情を掛けてくれるよう今上に懇願したらしい。”


何故かは知らぬが、この国がその国体を維持するためには女の涙が必要らしい。この国の礎のその下には、多くの女の涙が川となって流れている。




どこかで誰か…そう、若い女が笑っている声がした。早朝の宮城には不似合な無作法な程によく響くその声は妙に癇に障る。おそらく、その声に見え隠れする“あざとさ”がそう思わせるのだ。その笑い声は意中の男に聞かせる為…のような気がした。不思議な事だが女は女のそんな気持ちを敏感に感じ取る。男はどうなのだろうか。


心を乱したその声は始めたばかりの夏書の余白に一滴の墨を落とした。この写経はさっきまではとても価値ある事だったのだったのに一旦瑕がつくと、何を願うでもない手すさびに近いこの行為が急に虚しくなって来た。




「恵妃様…、」


雲居に嫁ぐ主の為に自分の縁談を断ってまで付き従った美苑は日を追って陰りを濃くする主の心になんとか陽の差すことを願っていたが、その時は未だ訪れていない。


しかも、これからますます主の心を覆う影は濃くなるだろう。美苑は主の沈んだ表情を見て


これから伝えねばならない悪い知らせの前に少しでも主の気持ちが和らぐように、主の母が持たせた香を焚くために香炉に墨を埋めた。やがて巷で人気というその香が薫ゆり始めると部屋の隅々まで香煙が行き渡るように美苑は風の通り道に香炉を置いた。早朝から熱心に夏安居の写経をする主の視線を美苑が遠慮がちに捉えると


「どうしたの?もしかしてあの…。」


普段は桃の表皮のように美しい主の頬が白磁のように固く強張った。


「はい、やはり…噂は本当でございました。」


「父上はなんと?」


「もう止めるのは無理だろうと。」


「止めるなどとは…。」


誰かが事の進行を阻んだとしても何も変わらない。誰が並び立とうが、これ以上自分の置かれている立場の何かが変わるとは思えなかった。


「どなたかはもう決まっておるのか?」


もし仮に止めるとするならその方の為にであろうか。


「竹城君の御息女らしいとのお話です。」


何も知らず、気の毒に…と思った。外から見れば、ここには女人の誉れともいうべき何かがある様に見えるかもしれぬが、それは蜃の吐息がつくり出すという海市と幾らも違わぬ。恵妃は美苑が実家より持ち帰った香を味わうように深く息を吸った。深みのあるその香りは胸の奥の澱の中に沈めたアレを…


「美苑、この香りはもしかして?」


その香は恵妃の心に打ち込まれて久しい楔を激しく揺さぶった。


「今上が好まれると近頃では香といえば梅花方で…。」


屈辱と虚しさと決して認めたくない慕わしさと…


「美苑消しなさい。早く!消せと言っておるのです!」


いつからこんな物言いをするようになってしまったのか。


美苑は初めて聞くような強い口調に慌てて香炉の中身を全て捨てた。


何が足りぬのであろう…決して答えの出ぬこの問いはいつも溜息となって出た瞬間に刃となってこの部屋の床に積もっていくのだ。


かつて有頂天になって昇って来た梯子が何時の間にか外されてしまったことにも長らく気付かなかった。こうして天上の雲居に閉じ込められた自分は情けを知らぬまま、誰の女人にもなれず死ぬるまでこの場所を出る事を許されぬ。雲居とは何と優雅な牢獄であろうか。




さっきの女がまた笑った。その女に私と代わってみぬかと持ちかけたら


何と言うだろうか?

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