第3話
閣下の姿が遠ざかると、リディを抱えている青年がリディに笑いかけた。
「私はブリスと言います。お嬢さんの名前を教えてくださいますか?」
「……リディだよ」
「リディ、可愛い名前ですね。呼び捨てにしてもいいですか?」
「……うん」
「私のことも、ブリスと呼び捨てでいいですよ」
リディが頷くと、ブリスはリディを抱えたまま歩き出した。
「リディを突然招待することが決まったので、実はまだリディの部屋ができていなくて。数日の間、リディは客間で寝泊りしていただきますね」
「……客間?」
馬小屋とかではなくて? もしくは物置部屋とか。
リディはブリスという青年を見た。淡い金髪に緑色の瞳を持つ、優しそうな美形の人物であった。年齢は十五、十六歳くらいだろうか。閣下を兄上と呼んでいたが、その閣下は黒髪に黒い瞳で、ブリスとは違ったド迫力の美形だけれど、本当に兄弟? と言いたくなるくらい似ていない。閣下はニ十歳は超えていそうだが、威圧感があったからか、リディは年齢を測りかねている。
「お腹は空いていますか?」
「……っ、うん、空いてる!」
リディは夕食をしていなかった。実はずっと腹ペコだった。しかし、腹ペコなのはいつものことなので、腹ペコなことを意識的に思考の外へ追いやっていたのだ。でも、食事ができるなら、させてもらいたい。できれば、パンと牛乳くらいは食べさせてもらえると嬉しい。
「そうですか。では、食事も用意させますね。食事を用意する間、リディはお風呂に入りましょうか」
「お風呂? 昨日水浴びしたから、今日は入らなくていいんだよ」
「水浴びですか。どこでしたのですか?」
「孤児院だよ。井戸があるから、五日に一回くらいは水浴びできるんだ」
「そうですか。孤児院ならそれでいいですが、ここではお風呂は毎日入りましょうね」
「えー……」
毎日は面倒だなぁ。そんなに頻繁に入らなくても、臭くないと思うのだけれど。リディは自身の腕を嗅いでみた。うーん、草っぽい匂いはするかな? 今日の昼間、草原に寝転んだからかもしれない。
水浴びではなく風呂といえば、暖かいお湯のはずだ。暖かいお湯も正直苦手だった。過去、何度目かの回帰の時、いじめられて熱湯に入らされた経験があるからだ。熱湯に入ったのはそんなに長い時間ではなかったけれど、しばらく体中の皮膚がヒリヒリして痛かった覚えがある。
リディを抱えたまま屋敷に入ったブリスは、豪華な玄関ホールを抜け、高そうなツボや絵画がある廊下を抜け、ある部屋に入った。ここがリディが一時的に滞在する客間らしい。
リディはその部屋に入って、またもやあんぐりと口を開けた。そこは豪華で広い部屋だった。まさか、ここが一時的とはいえ、リディの部屋?
部屋にはメイド服を着た使用人が三人いた。ブリスが指示をすると、リディはメイドに預けられ、ブリスは去っていった。
メイドに抱えられたリディは、客間の続き部屋へ連れて行かれた。そこはバスルームだった。猫足の可愛いバスタブには、すでに湯が張ってある。リディはそっと湯に手を付けた。熱すぎない温度のお湯で、リディは内心ほっとする。
てきぱきとメイドに服を脱がされたリディは、泡立てた泡で優しく体を洗われ、髪は何度か洗っては流し、最後にゆっくりとバスタブに体を付けた。少しだけウトウトしだしたところで、メイドにバスタブから出されてしまった。
体を拭いてもらい、寝間着のようなゆったりとした可愛い白のワンピースを着せられた。そしてバスルームから出て部屋に戻ると、部屋を去ったはずのブリスがいた。
「温まりましたか?」
「うん」
「前髪が少し長すぎますね。目に掛かっていますし。食事の前に、前髪だけ少し切りましょうか」
「――っえ、私お腹空いた!」
「用意していますよ。あと少しだけ待ってくださいね」
先にご飯を食べさせてくれ。そんなことを言ったら図々しいだろうかと言えず、ブリスがメイドに指示をして、メイドがリディの前髪を切るのを待つ。お腹がぐぅぐぅ言っている。
前髪が切り揃えられると、ブリスは優しく笑った。
「うん、これで顔が見えるようになりましたね。可愛いですよ。では、食事をしましょうか」
ブリスはリディを抱えると、部屋を出て違う部屋へ入った。そこには良い匂いのする豪華な食事が十皿ほど用意されていた。
「こ、これ、全部食べていいの?」
「いいですよ。好きなものを好きなだけ、食べてください」
椅子に座らされたリディの目の前に、まずはスープが用意された。
喉が鳴る。上品だけれど、食欲がそそられる良い匂い。
「ほ、本当に食べていいの? 後から吐き出せって言わない?」
「言いませんよ」
リディは恐る恐るスプーンに手を伸ばす。スプーンでスープをすくい、口に入れた。
「……!! 美味しいー!」
野菜をすりつぶしたようなスープは、野菜の甘味とほんのり塩味がして、とても美味しい。あっという間にスープを全て飲み切ってしまう。
それから、お肉やリゾット、最後にプリンを食べさせてもらい、お腹いっぱいになったリディは、すごく幸せだった。もしこれが死ぬ前の最後の晩餐だとしても、何度かの回帰の中でも一番幸せで贅沢な食事だった。
「どれが一番美味しかったですか?」
「プリン!」
「リディは甘いものが好きなのですか?」
「大好き!」
回帰前、甘いものを食べる機会はそんなになかったけれど、特別な時しか食べられない甘いものは大好きだった。
笑みを浮かべるブリスに口元をハンカチで拭かれると、リディはまたブリスに抱き上げられる。
「さぁ、今日はもう寝ましょうね。子供は寝る時間ですから」
「……? 寝ていいの? お仕事は?」
「お仕事ですか?」
「私がするお仕事。ご飯も食べさせてもらったから、ちゃんとお仕事するよ」
「……何か兄上が言っていましたか? 仕事をしてもらうと?」
リディは『兄上』というのが閣下のことだと理解する。その閣下はリディの仕事内容は何も言っていなかった。神聖力も出番はない、と言っていたし、では、リディが買われたことによる仕事とはいったい?
閣下には今のところ仕事については言われていなかったので、リディは顔を振った。
「では、今日のところは何も仕事はありませんから、しっかり寝てください」
再び、リディに割り当てられた客間に戻って来ると、寝る準備が進められ、リディが十人は寝られそうな広くて豪華なベッドにリディは寝かせられた。
ブリスはリディのお腹の上を手でトントンとする。
「トントンしなくても、寝られるよ。私、赤ちゃんじゃないもん」
そう言いながら、リディの目はすでにトロンとなっていた。
「そうですか? リディは何歳ですか?」
「十二歳……」
「……十二歳?」
ブリスは何歳? と聞きたかったリディだが、すでに意識は夢の向こうへ落ちていた。
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