ミラージュファイト・ノワール

@misaki21

第1話~天海真実とラブ&ピース ―おお、運命の女神よ―

 オールバックに口髭のバーテンダーは、客のうち、お気に入りだと彼が決めた人物には決まって同じ質問をしていた。

 酷く簡潔なその問い「人生とは?」に対して、濃紺のロングヘアにシルバーメタルフレーム眼鏡の妖しい女性は「煙草と酒と仕事とバイク」と応え、艶のあるセミロングで清楚な着衣の理知的な女性は「お金とお散歩とドライブ」と応え、ロゴ入りの黒いベースボールキャップが常の小柄で活発な女性は「法と秩序に支えられた、つつましい暮らし」と返した。ランチタイムに顔を出すまだ学生の若い三人の男子の一人、長身で切れ長な顔付きの彼は「トレーニングと勝利」、その旧友である大柄の痩躯は「真理の追究」と応えて、二枚目と三枚目の中間のような二人のクラスメイトは「自由と平和と平凡と、ささやかな正義」と返した。それを訊いたバーテンダーはこうまとめた。


「人生とは、煙草と酒とバイクと、金と散歩とドライブと、法と秩序に支えられたつつましい暮らしと、トレーニングと勝利と真理の追究と、自由と平和と平凡と、ささやかな正義である」


 男女合計六人の言葉を並べただけのそれはしかし、年配のバーテンダーを満足させた。バーテンダーは人生とは、禁煙禁酒と自転車と、貧困と徒歩と、無法と怠惰と敗北と無知と、強制と危険と非現実と、圧倒的な悪なのだろうと、反語を並べてみた。アコースティックギター片手にこれを詩にでもすればそれらしく聴こえるかも知れないとも思ったが、残念ながら年配のバーテンダーには数百の酒を区別してカクテルをダンスの如くシェイクする能力はあっても、弦を爪弾いたり気の利いた詩を生むほどの才はなかった。

 彼のこれまでの人生はどちらかと言えば平穏で、才能と幾らかのツキに恵まれてはいたし親しい知り合いも多かったが、特別にドラマチックということはなく、毎度の問いをした相手を少し羨ましく思った。そして、こちらも毎度の科白を笑顔で付け加えて、オーダーされた飲み物をバーカウンターに滑らせた。


「若いうちは旅をしましょう」


 葦野(あしの)市西側の山の中腹をえぐるようにして創設された、私立桜桃(おうとう)学園。県内でも随一の中高一貫進学校は、理事長の天海真実(あまみ・まなみ)の方針から、校風は自由で奔放だった。

 外資系大手と提携した飲食と服飾の国内中堅企業、天海グループの日本支部が経営する桜桃学園は、お坊ちゃまお嬢様学園とは少し違っていた。生徒の半分は資産家や地主、企業家の家庭からだが、もう半分は一般家庭からで、残念ながら素行の悪い生徒も幾らかいる。立地条件から設備などは充実しており、教員の意識やレベルも高いが、こちらにも少なからず奔放過ぎる人物がいた。

 いた、と過去形なのは、少々厄介な事件を起こした教師数人が逮捕されたからである。

 だが、事件とそれに関与した高等部一年生グループは天海真実の執事役、月詠六郎(つきよみ・ろくろう)による情報操作によって警察の報告書に名前を連ねるに留まり、七月後半、夏休みを間近の現在、桜桃学園は実に平和だった。

 天海グループの次女で若くして桜桃学園の経営を任されている天海真実は、ドタバタが収まってから久しぶりに愛犬、ウェルシュコーギーのパピーと共に葦野川河川敷を散歩しつつ、ラブ&ピースと鼻歌交じりだった。実に夏らしい、強い日差しでからりと晴れた正午、平日でも犬を連れた家族などが多い葦野川は、ポピュラーな小型犬から大型の珍種など、ドッグショーさながらだった。

 葦野川沿いの駐車場には天海真実の愛車である黒いSUV、アキュラZDX(ズィーディーエックス)が止めてある。その隣にはグレーの商用バン、シトロエン・ベルランゴと月詠六郎。

 夏だろうが冬だろうが常にシックなスリーピーススーツで無口な月詠は、桜桃学園教頭の金山善治(かなやま・ぜんじ)と真実(まなみ)との橋渡し役であり、月詠にベルランゴを選んだ、天海グループ日本支部の飲食・服飾部門の代表で、「AMAMI(アマミ)」という女性向けのブランドショップを立ち上げた後、どう血迷ったのか県知事選挙に出馬すると漏らしていた姉の天海真琴(あまみ・まこと)との緩衝材でもあり、一連の事件の最中はパピーの散歩係でもあった。

 天海真実が私立学園の理事の座に収まっているのは経営学、コンサルティングのスキルアップの一環で、真実には学生の将来や教育理念に対するあれこれはなかった。教員や生徒と喋る機会なども殆どなく、全て金山教頭に任せて、寄付金を納めてくれる人々と談笑して、帳簿をチェックして金の動きを追うのが日課だった。それらも片手間で済ませて、今は愛犬パピーとのんびりと散歩中なのである。

 これで月詠六郎の監視がなければ気楽なのに、と思うのも殆ど日課だが、学園理事で天海グループの次女という立場は、葦野市が治安の良い街だとしても当然だった。

 初春から梅雨を挟んだ時期はとにかく忙しかったので、その息抜きにショットバーにでも繰り出そうか、そう考えてタッチパネルケータイを持ち出し、二百人を超えるアドレス帳から一人を選んだ。


 露草葵(つゆくさ・あおい)。真実の大学時代の先輩で、年齢差を無視した友達関係を在学中から続けている一人で、彼女は私立桜桃学園のスクールカウンセラーでもある。つまり、学園に戻れば顔を合わせることが出来るのだが、理事長室に戻るとあれこれと雑務が待ち構えているので、愛犬パピーをフリスビーで走らせて、露草に電話をした。

「はいはーい、露草です……って、真実かいな? どないしたん?」

 露草の間の抜けた関西弁は大学時代からずっとなので慣れている。平日の十四時過ぎなので露草はまだ勤務中だが、彼女は保健教師でもあり保健室から出ることは殆どなく、そこを自分の部屋とまで呼んで殆ど動かない変わり者なので捕まえるのは簡単だった。教員全員を指導する立場の金山善治教頭は彼女の天敵で、あれこれとルーズな露草に対する金山教頭の小言で朝の職員室は騒がしいらしい。月詠から何度かそんな報告があった。

「葵? 今、暇、じゃないわよね。パピーとお散歩してて思い付いたんだけど、今晩辺り、チェリービーンズにでも行かない?」

「なんや、飲みのお誘いかいな。ちょいとやることあるから、時間遅めやったらええけど? 月詠さんも一緒やろ?」

「ええ、一緒。時間は、二十二時くらいでどう?」

 フリスビーを咥えたパピーが荒い息で戻ってきたので、真実は再びフリスビーをぽいと投げた。ウェルシュコーギーのパピーは喜んで全速力、芝生を蹴ってフリスビーを追いかけて飛んだ。

「そんくらいやったら行けるわ。他は?」

「ミコにも連絡するつもりよ?」

「ん? 神和のアホもかいな。あいつ、今は忙しいで?」

 神和彌子(かんなぎ・みこ)は露草の一つ下で、こちらも真実の大学時代からの友人の一人である。真実は付属桜桃大学経営学部情報経営学科、神和彌子は建築学建築史科、露草葵は付属桜桃医科大学医学部心理学科を専攻していて、年齢も違うので一見すると接点はないが、ミステリ研究同好会という大学をまたいだサークルで顔を合わせて意気投合し、その関係が今でも続いている。当時は三バカだのトリオだのと呼ばれていたし、実際、バカみたいに騒いでもいた。

「ミコが忙しいって、何か大きな事件でもあったかしら? ミコって県警のナントカって所に転属したんでしょう?」

「知らんけど、忙しい原因の一つは、ウチがあいつんとこに調べ物を頼んどるからやねん。こっちの用事が終わったらそのままビーンズに行くわ。神和のアホが来るかどうかは知らん。いちおう誘うけど、それでええか?」

「任せるわ。じゃあ、後でね」

 ケータイをジーンズのポケットに押し込み、真実は息遣いの荒いパピーを連れてアキュラの傍で待ち構える月詠に歩いた。相当な猛暑だが月詠は銅像のように涼しい顔で立っている。

「月詠さん? 今晩、飲みに出るけど、アナタもご一緒にどお? 葵とミコだけど?」

「お邪魔でしたら外で待っていますが?」

 月詠六郎はひたすら控え目で、いかにも執事といったタイプだった。これでお嬢様、とでも呼ばれれば完璧だろうが、少し譲って真実さま、と呼ぶ。チェリービーンズは蘆野山のふもとにある小さなショットバーだが、そこにフランス製商用バンから店内を伺う黒スーツの執事などがいれば、通報されかねない。

「月詠さんも同席してくれるとありがたいわ。葵やミコとも話は合うでしょうし、息抜きも必要でしょう?」

「では、そのように」

 言いつつ月詠はアキュラのドアを開いた。月詠はドアマンではないが、そういうことを自然にやる。パピーをリアシートに乗せて天海真実は車に乗り、それを見届けた月詠は自分の車に歩いた。

 露草や神和と飲むのは久しぶりだった。最後は確か、三月頭だったか。中等部生徒が高等部に上がったり、高等部に編入してくる生徒、留学生の受け入れなどで多忙な時期だった。それ以前は比較的のんびりで、今も随分と平和に思えた。


 私立桜桃学園の校風は自由と奔放。これは天海真実の信条でもあり、七月後半、夏休み直前の正午は強烈に暑いが、とりあえず真実の周囲は平和に見えた。

 ラブ&ピース。

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