募る苛立たちと後悔

 ごくりと喉を鳴らし、恐る恐る肩に視線を落とす。そこには真っ赤な爪をした水死体のような水色の指が五つ、ぴたりと寄り添っていた。


 危うく心臓が止まるかと思った。ショック死に至らなかったのは出立前の精神統一が効いたからだろう。


 ――心臓の代わりに呼吸が止まってしまったが。


 俺は息を飲み、不気味な手を凝視したまま凍りつく。


 さて、どうする。後方を振り返り、相手の全貌を確かめるべきなのか。それともこのまま逃走すべきか。


 ドクドクと音を奏でる心臓の音が死へのカウントダウンに感じられる。俺は肩に乗った手を刺激しないよう、ゆっくりと前方に顔を向け直し逃亡ルートを確認。アパートの脇に真っ直ぐに伸びる道を見据えた。相手がテケテケじゃない限り、全速力で走れば逃げ切れるかもしれない。


「……いらっしゃい」


 すうっと息を吸い込んだところに、ひんやりとした女の声が背中を撫でつけた。全身がぞわりと総毛立ち、固まりかけた覚悟が一瞬にして霧散する。息を吸い込んだ直後だったこともあり、反動で悲鳴が喉をついてでた。


「ぎゃあああっ」

「きゃあっ!」


 黒髭一発もビックリの動きで飛び跳ねた俺に背後の何者かが悲鳴をあげる。相手を見るつもりはなかったのに、反射的に振り返ってしまった。振り返り、瞠目する。


 そこには細長い棒の先端に不気味な手を象ったオモチャを持ち、俺と同じくらいに目を丸くした浅見先生がいた。

 

「浅見先生!? なんでそんなモンを俺の肩に乗せるんですか!!」


 キレ気味に噛み付いた俺に先生は唇を尖らせる。


「だって触れちゃいけないって約束したじゃない」


 当然のことのように言われ、ヒクッと口もとが引きつった。


(また契約か! 誰だよ、余計なこと言った奴! 分かってるわ、俺だよ!)


 つい地面にガンガンと頭を打ち付けたい衝動に駆られる。誰か俺にタイムマシーンを貸してくれ! そうしたら余計な一言三言の代わりに一発食らわせてくるから!


「だからって。そんなモンを乗せられるくらいなら普通に触ってもらった方がマシなんですけど!」

「嫌よ。こんなことで契約を破りたくないもの」

「そんな頑なに守らなくても」

「絶対に守ります」

「なんで?」


 激しい後悔と意地として譲らない先生の態度に苛まれ、口調が強くなる。

 なぜだか契約によって首を絞められているのは俺のような気がしてきた。

 だからって弁当が欲しいわけじゃねーぞ。


「だってそれが契約じゃない」

「あんな契約がなくたって俺は……」

「ダメよ。契約は契約だもの。彰くんも絶対に守ってちょうだい」


 じっと俺を見つめる瞳には揺るぎがなく、懇願するようにも怒っているようにも見えた。「自分から言ったことを取り消すなんてこと、しないわよね?」と言われているような気がしてグッと口ごもる。やはり簡単に撤回してもらえそうにない。


「――分かりました」

「ならいいわ。これはね、生徒からもらったのよ。可愛いでしょう?」

「先生の感性に疑問が残ります」


 渋面を作る俺に先生は不気味な手をぴょこぴょこと振り回しながらにっこりと笑う。瞳の奥に見えた硬い意思はあっという間に消え去り、今ではあっけらかんとした喜びの色が浮かぶ。


 どことなく満足げな先生とは裏腹にモヤモヤは膨らむばかりだ。


 契約がなくたって俺は女なんか作らない。結果は一緒なのに契約を守る必要がどこにあるんだ。


 俺は苛立ちを宥めるように大きく一呼吸つく。先生が話題を変えた以上、冷静さを取り戻す必要があった。


「それ寄越した奴の名前教えてください。あとでこっそり天誅食らわせておくんで」

「菊地くんよ」

「明日、死刑にしときます」

「ほどほどにね」


 クスクスと笑う先生はアパートに向かって歩きだす。先ほどのオモチャでビビり散らかしたお陰か、浅見先生の態度による不満で頭がいっぱいだからか。ここに来るまでに抱いていた恐怖はだいぶ緩和されたようだ。


 ひとまず先生に対する不満は菊地で発散するとして今は目の前の問題を直視しなくては。


 俺は胸の奥でくすぶる思いを振り払うように気合いの一歩を踏みだした。






【あとがき】


 読者の皆様、お待たせ致しました。

 1週間のお休みを、と活動報告て報告させて頂きましたが、思いのほか遅くなってしまって申し訳ありません。

 本日より更新を再開させて頂きます。

 また、今後は月・木・土の週三日で更新をかける予定です。

 場合によっては不定期で増えることも有り得ますが、今後もぜひ楽しんで下さると嬉しいです。


 次回は明日、月曜日の更新となります。

 

 

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