頼むから俺のためとは言うな

 靴のかかとを踏んづけて走りながらスマホで料理教室を検索し、ルート案内開始。学校から三十分ってところか。ちょっと遠いがバスなんて待っている心の余裕がない。もともと運動部だし体力はある。さて、久しぶりに走ってみるか!


 よく分からない高揚感に包まれた俺は、走る度にズレる瓶底メガネを鞄に放り込む。ずっと膜がかかっていた視界がクリアになり、鮮やかになった景色に心が弾む。


 春めく風が頬や髪を撫でる心地よさに乗って、駆ける足も速まっていく。ネクタイを緩めて窮屈な襟元をひらき、きっちりと閉じたブレザーのボタンも外せば、嘘のように体が軽くなった。

 

 すれ違うひとを抜くのって気分がいい。

 競争しているわけでもないのに、無駄に闘争心がわく。

 運動不足がストレスになっていたのかもしれない。


 やっぱり生活習慣を変えるのって、自分で思ってる以上にストレスが溜まるのかも。明日からは少し早く起きてランニングでもするか。息を切らしながら料理教室に辿り着いたころには、とても気分がスッキリしていた。

 


 料理教室は駅ビルの五階にあり、入り口に大々的に掲げられた看板の中には、三つ星を取った日本人シェフの満面の笑みがあった。そこに被せるようにタイムスケジュールが掲載されてある。


 先生の行動を考慮すれば、恐らく十八時半のスクールに間に合うはずだ。

 短く息を切らしながら腕時計に目を落とせば、時刻は十八時四十分。

 

 ……ちょっと遅かったか。

 

 はあっと大きく息をつき、俺はそのまま先生を待ち伏せすることにした。


 近くのバーガーショップでセットを二つ購入し、ビル前のベンチを陣取る。もしかしたら次のスクールかもしれないし、いつ先生が現れるか分からないから目を離していられない。


 まったく。女嫌いの俺が女を待つなんて前代未聞だ。

 よくもやってくれたな浅見先生。

 

 そんなわけの分からない思考が頭をよぎり、バーガーを大口で食らうことでイラつきを消化する。一つ目のセットを食べ終わったころ、すぐ傍で俺と似たようなことをやってる奴を発見した。 


 街灯の横に立ってビルを見上げ、そわそわと何度も腕時計に目を落とすそいつは、時々イライラしたように手にした菓子パンにかじりついている。


 こいつも誰か待っているんだろうな。

 つい仲間意識が芽生えてしまい、なんだかおかしくなってしまう。

 明らかに俺よりイラついてるし。知り合いなら、ちょっと落ち着けよって肩を叩いてやるところだ。

 

 笑いを堪えているうちに余裕ができて、その後はゆっくりとバーガーとポテトを食した。近くの珈琲ショップで購入した三杯目のエスプレッソ・ラテを飲み干した時、ようやくビルから纏まった人数の女性が出てきた。おそらく時間的に料理教室の生徒さん達だろう。


 その中で一際目立つ浅見先生を発見した俺は、急いで瓶底メガネを装着し服装を整えながら近づいた。手ぐしで前髪を目に落とし、背後からひとこと。


「先生」


 立ち止まった先生は俺を振り返り、目を丸くした。

 

「えっ、彰くん!?」

「本当に料理教室通ってたんですね」

「だ、誰に聞いたの?」

「たまたま耳にしただけです。ちょっと話あるんですが、いいですか」

「ええ……」

「なんで急に料理教室なんて通おうと思ったんですか?」


 前置きもそこそこに直球を投げかけると、先生は一瞬ポカンとした顔をしてから少し考える素振りをみせた。

 

 頼むからリベンジしたくて、とは答えないでくれ。俺は切に願った。もしもリベンジだった場合、俺は絶対に食さなければならなくなる。

 

 だって三つ星シェフの料理教室だぞ? 月謝いくらだよ。

 金までかけさせて食べないわけにいかないだろう。

 一度でも認めてしまえば、二度三度続くのは当たり前。弁当の悪夢が再来だ。

 

 恐怖と覚悟を胸に先生の言葉を待つ俺の鼓動は不安な音を刻む。

 短い沈黙の末に、先生が口を開いた。


「彰くんが言ったんじゃない」


 ――終わった。


 俺は哀愁漂う目をネオンで霞む夜空に向ける。

 トドメを刺したつもりがブーメランで返ってきた。

 長年避けてきた女からの料理。いつ出されるか分からないが、これからは毎朝墓場にいく覚悟を待たなくてはならないだろう。


「将来が不安ですよねって」

「え?」

「わたし、婚期逃したくないもの」


 先生は頬に手を当て、少し恥ずかしそうに身をくねらせる。

 チラチラと俺を盗み見る先生の奇妙な態度はそっちのけで、地の底まで沈んだ気持ちが急上昇。


 よっしゃ――ッ! と叫びたい衝動をギリギリ押し留め、爛々とした目で先生をみつめた。

 先生は二十歳を越えているんだし、結婚願望を抱くのは当然じゃないか。

 

「じゃあ、自分のために通ってるってことですよね」

「もちろん、そうよ」

「よかった~!」


 無意識に強ばらせていた体から、ふっと力が抜ける。マジで心の底から安堵した。


 先生は以外と自分磨きを頑張る女性だったんだな。その美貌とスタイルがあれば男なんてすぐ落とせそうなもんなのに。ちょっとだけ見直した。


「それが聞ければ満足です。じゃあ俺はこれで。先生、さようなら」


 晴れ晴れとした気持ちで背を向けた俺を先生の手がつかむ。


「ちょっと待って。あのね、少しお願いがあるんだけど」

「なんです?」


 さっきまでとは一転して気持ちに余裕のできた俺は珍しく弾んだ声で応じる。

 

「家の近くまで送ってくれないかしら」

「先生の家ってどこなんですか」

「金木町よ」


 ウチと方向は一緒か。

 仕方ない。今日は気分がいいから送ってやろう。


「いいですよ」


 なんならスキップして歩きたい気分だ。

 笑顔で答えると先生は小さくため息をつき、ふわりと笑った。


「助かるわ。暗いから帰り道、不安だったのよ」


 ああ。先生、ひとりで歩いてたらすぐナンパされそうだもんな。


 メガネ美人で一見きつそうにみえるけど、実際話してみると気さくで朗らかだし。男なんて軽くあしらってそうなのに、案外上手く断れないタイプなのかもな。

 

 ギャップがあるって大変ですね。


 自分のことを棚に上げて、そんなことを心で呟いた。

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