206.皆さんお疲れ様です part2
「俺はもう引退した」
けんもほろろに追い返そうとした男に、彼は食い下がる。
「いいや、お前の腕は、俺が一番よく知ってる。お前はまだ現役だ。違うな、引退した程度で、お前があの世界を、忘れられるわけが無いんだ」
成程鋭い指摘だ。男は苦笑する。
事実、彼の半身は、今も中東か北イフリの何処かで、大事そうに銃把を握り、今か今かと発砲音を待っている。
「それでも、俺は行かない。今は半分こっちに居る。次行ったら、もう二度と、此処には戻ってこれない。体だけ帰っても、大事な物は、全て置いて来てしまう。いいか?置いて行くだけなんだ。取り返す事は出来ない。ただ置いて行くだけなんだよ………」
一息で喋り過ぎて、喉が渇いてしまった。
アルコールで焼き、飢えを誤魔化す。
「だけどよ、このままってわけにもいかないだろ?お前、このままで良いってわけじゃないだろ?」
それも、再び成程、その通りだ。
彼は周囲に気を飛ばす。
二人が今居る広いリビングには、テーブルも椅子も置かれておらず、床の上で胡坐をかいて、酒のグラスを傾けている。
売れる家具は、もう疾っくに売っ払った。
それだって、はした金にしかならなかったが。
「俺はさ、俺は、生きる実感が欲しくて、スリルに手を出して、全財産注ぎ込んじまったクズさ。女房子供にも逃げられた、どうしようもない、平和な社会で生きていけない、不適合者だ。だから、俺の事はどうでも良い。俺が来るから、お前も来い、とは言わない」
そう、こいつはそういう奴だ。
本人は卑下しているが、背負い過ぎる奴なのだ。
彼は男とは逆に、余計な物を、持って帰り過ぎるのだ。
だから余計な荷を捨てようと、合法的に金を燃やしている。
不器用過ぎて、露悪的にしか生きられない。
今だって、男の現状を心配して、この話を持ち込んでいる。
彼に支払われる莫大な報酬を山分けしようと、取り分を減らす提案をしている。
「だけど、お前は、彼女に愛されているじゃないか。彼女を愛しているじゃないか。天命より早く連れ去られようとしている、彼女の悲劇に抗う術がある。そしてそれ以外に、お前に採れる選択は無い。もしかしたら、治療法が見つかるかも、っていう夢さえ見れない。そうだろ?」
そうだ。
そうなのだ。
彼が言う事は、一々、始終、正しいのだ。
男が、その愛を貫くと言うなら、
どうしても彼女を諦めないと言うなら、
もう、この話に乗るしかないのだ。
けれど、
けれども、
「駄目だ」
それは、出来ない相談なのだ。
「俺はあいつの傍に居る。少なくとも、半分だけでも、あいつを守っていたいんだ」
これ以上、何処かに置き去ってしまったら、
彼女はもう、一人ぼっちになってしまう。
「………どうしても、無理か」
「どうしても、だ」
「これでいいのか?」
「悪いな」
「そうか………」
彼はそれ以上、その話には言及せず、離婚した妻から送られてくる娘の写真を見ながら、最近巧妙な胴元にしてやられた話などをして、赤ら顔で笑っていた。
男もまた、そんな心遣いを有難く受け取り、暫しの間に現実を忘れ、穏やかな語らいを過ごした。
彼が帰った後、男は2階の寝室へ行き、ベッドの傍らに腰掛ける。
手を握ってやると、彼女は目を開けた。
「あら、あなた。もう朝なの?」
「いいや。起こして悪いな」
「いいのよ。それよりあなた、明日から“
「ああ………」
男は曖昧に頷く。
「どうしたの?寂しい?」
「ああ、寂しいよ」
寂しいから、
「明日もここに居ようかって、思うんだ」
「え?」
彼女の顔が、パッと明るくなる。
「本当?」
「君と一緒に居るよ、本当さ」
「良かった…!うれしい…!」
感極まったように涙ぐみ、口元を隠そうと腕を上げ——
「あ、あら……?」
腕は、動かなかった。
「ご、ごめんなさい。あなたとハグしたいのに、寝ぼけているのかしら、力が入らなくって……」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「ああ、
「大丈夫、ここに居るよ」
「あなた………どこ……?ここは……?」
天使のように可憐で、女神のように美しい顔が、みるみる不安に染まっていく。
「あ、あなた、」
「ああ、大丈夫だ」
「あなた、誰!?」
その時、
彼女が男の手を払い除ける、その
腕に力が戻り、健康な体のように振舞った。
「なあ、俺は」「誰!?あの人はどこ!?また戦争に行ったの!?私を置いて!」
が、火事場力めいたそれも、すぐに鳴りを潜め始め、彼女は身を起こす事も出来ない。
「私、なんで、動けないの?あの人はどこ?一人はイヤよ!もう一人は………」
「大丈夫だ。大丈夫だから。俺はここに居る……!」
「あの人は………」
安心させようと、彼女を抱き締める。
きっと、男があそこに行った時も、こうやって泣いていたのだろう。
男が銃を手放して、これからやっと、恩を返せる、そう思った時には、彼女の指先はわけもなく震えるようになっていた。
その病に罹った三人に一人は、記憶障害を合併する。彼女は、運の無い方だった。
最終段階のステージ5。
彼女の中で、男があの忌まわしき地に向かった、その前後で時間が止まっている。
男は、今度こそ彼女の傍に居てやりたかった。
しかし、長期に亘る治療と介助の生活に、貯金は底を突き、借金の抵当となった家財は出払ってしまっている。
出征前後で男の顔が酷く変わってしまった事もあって、彼女は時に、そこに居るのが自分の夫と認識出来ない。
そうでない時でも、男が出かければ、また戦争に行ってしまったのかと、泣き暮らす。
彼が帰ろうと、隣に居ようと、安寧は無い。
彼女の日常は、“いつか”を待っていた暗黒時代より、悪化していた。
どうして罪もないこの人が、安息を奪われ続けるのか。
人を殺した男への罰なのか。
男の妻となったばっかりに、彼女はこのような苛みを受けているのか。
どうして彼女なのか。
男の中で、沸々と、衝動が煮え滾る。
——これでいいのか?
彼の言葉が聞こえた。
「これでいいのか?」
男は自身の口に出し、改めて自問した。
彼女は最後の日に、何を見る?
隣に寄り添う、優しい夫か?
それとも、苦しみに塗れた孤独に呼ばれ、侵入して来た不審人物か?
男は彼女の傍に居たかった。
これまで受けた愛に、一生懸けても返せないそれに、報いたかった。
彼女の病を、
それを諦めた男が、「愛している」と、言えるだろうか?
「これでいいのか?」
「いい」わけが無かった。
彼女が再び眠りに就いた後、男は彼に電話を掛けた。
幸い彼はまだ、プライベートな連絡が許されていた。
「俺だ。急にすまない。さっきの話、乗りたい。俺は、そうしなければならない」
彼女の為なら、男は何だってする。
悪魔に魂を売る事も、
子供を殺す事だって。
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