190.外へ part1
「よし、それじゃ、心の準備は?」
「待ってて……」
目蓋を閉じて、お腹の
俺も名残惜しい気持ちで一杯だ。
この家は、今日見つけたばかりの、安心出来る場所だった。
中に居るだけで、暖かな腕の中に居るようにさえ思う。
それでも、本物の安住の為に、俺達はここを出なければならない。
柔らかな蛍光灯の下から、外灯も星明りも無い沈んだ通りへと。
「ふう、ばっちり!」
ぱっちりと目を開け、彼女は真っ直ぐ宣言する。
「行こう!」
「うん、しっかり付いて来て!」
戸を開け、黒い地面へ、足を出す。
冬の日に、布団からはみ出てしまったような、寒気と恐ろしさを感じてしまう。
あれだけ騒がしかった、蝉の音が聞こえないからだろうか。
煩わしく思っていたのに、今更帰って来て欲しいなんて、それこそ虫が良過ぎる要求かもしれないけど。
俺は暗視ゴーグルもあるし、魔力で地形を見れる。
暗い場所でも、大きな不自由は無い。
が、エンリさんはそうはいかない。
彼女は魔法を発現したてで、魔力感知等の扱いについては素人、いや赤ちゃんと言っていい。だから、俺の何処かに掴まりながら、ゆっくり付いて来て貰おうと思っていたのだが、
「……変だな………?」
「ど、どうしたのぉ?」
「いや、明るいんだ」
「そ、そうなの?目が慣れてきただけ、とかじゃなくて?良い事でしょ?」
「それならそれで良いんだけど……」
こんな真っ黒の空の下、山道の輪郭までくっきり見える事、あるのか?俺の目は、何の光を拾ってるんだ?
いや、気にしてる暇は無いか。
「あ、足下が見えづらいし、手、握ってちゃダメ?」
「………そうだね。その方が安心か」
片手が空いてないのは怖いが、何か危ない物が近づいた時、すぐに彼女を引き寄せられるという利点も捨て難い。
俺の左手と彼女の右手を繋いで、先を急ぐ事にした。
「………いる」
町に入る前から、そこを徘徊するイヤな触感を感じる事が出来た。
全体的に、地の底から湧くような臭気に覆われている。エンリさんも分かるほどに強いらしく、彼女は片手で鼻と口を守っており、目には涙が滲んでいる。
その中でも、「濃い」と嗅ぎ取れる場所が、幾つもあり、それぞれが移動している。
さっきの奴等だ。
この数………、残念ながら、下級モンスターらしい。おいおい、本当に、深級ダンジョンが出来たって言うのか?
「足音を立てないように行こう」
現実になりつつある悪い予測については聞かせず、やって欲しい事だけを端的に告げる。彼女は無言で
壁伝いにソロソロ進む。
出くわしそうになったら、彼女を抱き上げて近くの塀や生垣を飛び越え、相手の姿が見える前にその後ろに隠れる。
少々気にし過ぎなくらいに、離れた気配も徹底して避ける。
エンリさんは、戦闘どころか、身体強化による急な動きにも慣れてない。動く前にサインを送って確認し、それからジャンプしなければ、驚いて悲鳴を出して、モンスターを呼び寄せてしまうかもしれない。
今立っているのは、見つかるかどうかじゃなく、気付かれるかどうかの次元。
かくれんぼと違う所は、ここに俺達が居ると、向こうが認識していないだろうという点だ。逆に、俺達を見つけようという意思が奴等にあれば、簡単に炙り出されてしまうだろう。
俺達が居ること自体を、知られないようにしなきゃいけない。
だから慎重に、
なるべく安全に、
痕跡すら見せないように、
極度の緊張からか、町の造りのせいか、
地面が斜めっているような気がして、
ゴボリ。
「!」
彼女を背に庇うようにして道の脇を見る。
側溝。
その中が泡立っただけのようだ。
弾けたその中から、
お、おどかすねい。
俺はまた歩き出そうと
——何が?
泡立ったって、何が?
幾ら田舎だからって、そんな、ドブが沸いたりしてるものか?
それに、この悪臭は…
——そんな
そんな馬鹿な。
そんな事あるかよ。
俺は誰かが、目の前の光景が否定してくれるのを待つ。
が、そうはならない。
俺が恐れていた通りに、
暗く満たされた溝から、
空のように黒く汚れた粘液が湧き出てきて、
「こいつは……!」
さっきから、俺が嗅いでた、町全体を支配するような、黴とも薬品とも廃水とも付かない、吸うだけで人体を害するような、その大気の元は!
ダンジョンのモンスターには、分類がある。どういった特徴のヤツが、どの階層から現れるのか、全てのダンジョンで共通した法則を持つ。
第2層から登場するのは、硬く、地を這うタイプのモンスター。
通称は、
俺は、さっき戦ったのが、それだと思っていた。
もしくは、遠距離攻撃担当の、
けど、違う。
数が最も多く、ある意味最も繁栄していると言える最多勢力、
俺が倒したのは、それだ。もしかしたら、集合体なのかもしれないが、それでもダンジョンで一番弱いタイプの敵だ。
そして、
この町の、排水に棲みついてしまった、今俺の前に居るそいつこそが——
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