第27話
9月になったといっても秋の匂いはまだしない。
蒸し暑くて、じっとりと汗ばむような熱気がそこらじゅうに残っている。暦の数字が変わったからといって、突然夏が秋になるわけではないのだった。教室はエアコンが効くので快適だが、舞踊場の更衣室となるとそうはいかない。
「後期の理科必修、何とる?」
まくりあげたワイシャツの袖から腕を抜きながら、悠馬が言った。
クラスよりも部活のほうが悠馬はよく喋る。
「まだ決めてない。悠馬は?」
群くん、から、悠馬、と呼ぶようになったのは夏の終わりだった。
今では悠馬の方でも時生を名前で呼ぶ。
「僕は物理かなあ」
「すげー。おれは数学苦手だから厳しいな」
「時生は文系にするんだ?」
「うーん、まだ決めてないけど」
消去法でおそらく文系になるだろう、と思っていることは言わなかった。就職に苦労するかもしれないが、大学生活で苦労する方が辛いような気もする。数学の苦手な理系は致命的だ。
「あつーっ。ここ外より暑くない?」とぼやきながら、深川が入ってきた。
「はよー」
「おはよ」
着替えている途中の時生を見て、深川が無駄に抱きついてくる。
「うーっす」
と言いながら脇腹をくすぐってくる。
深川はいつまでたっても深川だ。
「やーめーろー。暑苦しいっ」
「いやん。つれない」
「気持ちわるいな!」
すでに着替え終わっている悠馬が苦笑して言う。
「もう行くよー。窓、開けるから手伝って」
三人でむわっとした舞踊場中の窓を開ける。
これでも暑いけれど仕方がない。舞踊場は熱気がこもる。せめてもと換気はするけれど、一心に体を動かしていると信じられないくらい体温があがる。
窓を開けながら思う。
中学校の体育館はここよりも少し広いくらいだったろうか。あのころも窓を開けるのは最初に来た一年生たちの仕事だった。初めのうちに何度かやっただけで、次第に早く行く気持ちが薄れてしまってほとんどやらなくなった。二年生にあがってほっとしたのを覚えている。でも、そんな自分をきっと同学年の連中は、「下手なくせに遅く来るやつ」だと苦い思いで見ていたことだろう。もっとうまくやっていれば、中学時代の部活仲間も大事にできただろうか。時生は思い出してため息を圧し殺した。
いまだに昔に傷ついたことをすぐに思い出すなんて、自分はどんなに弱いんだろう。しっかりしろ。今、偶然とはいえ、壊したくない場所ができてその中に自分はいるのだ。そのことに集中せずに、嫌なことを思い出して悲しむなんて馬鹿馬鹿しい。
舞踊場の古い木の床に座り込んでストレッチをする。むわっとした暑気に、このあと尋常じゃなくかくだろう汗の量を想像して気が重くなった。
床の木目を見ながらぼうっとしていると、不意に頭にあの夜のことが浮かんだ。
ニンジンスキーと名乗った謎の不審者。
だけど、信じられないくらい美しい跳躍だった。
高く、速く――。
「あと三週間だな」
「えっ? 何て」
いつの間にか隣に立っていた悠馬が大きな目をパチパチさせて言った。
「三週間だよ。大会まで、残り三週間」
「うそお」
「だってもう9月だろ」
言われてみればその通りだった。
夏合宿で叩き込めと言われた振付もだいたいは頭に入っている。
だけど、完成形とはとうてい言い難い。
全体の動きやフォーメーション以前に、頭でイメージしている動きがそのまま体にのってこないのだ。
時生の横で固い体をほぐしていた深川が顔をひきつらせた。
「やばい。早すぎる。おれ、まだ振りも間違えまくるのに!」
悲哀に満ちた深川と時生とは対照的に、悠馬は落ち着いたものだ。
「うーん。まあ、なんとかなるでしょ。二人とも合宿で相当鍛えられてたし」
そうなのだ。
特別レッスンと称して、深夜近くまで先輩たちにしごかれた記憶はまだ新しい。
「おれ、夢に出てきた。マリオネットみたいに体がバキバキになってさ、ステージから吊り下げられて踊ってて……悪夢だよ。汗かいて跳び起きたもん。あの夜マヨ先輩がおれの腕、絶対曲がらない方向に曲げたせいだ」
深川が恨みがましく言った。
時生は苦笑するしかなかった。
自分だって似たようなものだ。
戸次先輩は朝でも夜でも爽やかだったが、キラキラしたいい笑顔で無茶なことを言う。
無理です、とは言えないのを知ってるのかもしれない。
だけど絶対にできないことをふらない辺り、やっぱり指導者に向いているのだろう。
確実にできないことではなくて、必死で頑張ればできるぎりぎりのアドバイスをしてくるのだった。
そして優しい戸次先輩は一見して無理だと思えるような複雑な動きも、何度も何度も繰り返して根気よくつきあってこつを教えてくれた。
時生はそうだったけれど、はたから見ても深川に対するマヨ先輩はスパルタ以外の何物でもなかったので、悪夢も仕方ないかもしれない。
「おれ、バシバシ叩かれすぎて、なんか途中から気持ちよくなってきちゃったもん」
問題発言をする深川を
「気持ち悪い」
と悠馬が微笑みながら一刀両断する。
「まあ……先輩たちもおれら仕上げなきゃいけないから必死なんだろ。もう三週間だし、コンクールまで」
時生が言うと、
「あー! やばい! そうなんだよなァ!」
深川がのけ反った。
「できる気がしないー!」
「あはは……まだ、三週間あるから。頑張ろ」
悠馬が立ち上がるのに合わせて、時生と深川も立ち上がった。
泣いても笑ってもあと三週間しかない。
それまでにできるのは、嘆くことでもなく祈ることでもなく練習だけだ。
その時、聞き慣れた電子音がした。
「お、着信」
「誰のケータイ? 時生の?」
「えーっと……あ、おれだ」
鞄の外ポケットでスマホが震えていた。
着信の名前は――。
「マヨ先輩だ」
「先練習してるな」
と、言う深川にうなずいて時生は通話ボタンを急いで押した。
「はい」
「あっ、堤? おれだけどさ、ちょっとまずいことになった。遼太郎が」
「え?」
遼太郎が怪我した。
「えっ、あの、怪我ってどんな――」
「足だ」
「足!?」
時生の素っ頓狂な声を聞きつけて深川と悠馬も集まってきた。
二人とも心配そうな顔をしている。
「信号無視の車と接触したらしい」
「えっ!? 交通事故ってことですか。大丈夫なんですか、それ」
「ああ。雨の日で向こうが曲がろうとしてて、戸次のことが見えなかったらしい。速度が出てなかったから……ただ、ぶつかられて転んだ拍子に足を挫いたみたいでな。足の指にひびが入ってたってのと、挫傷」
「足……」
「俺、病院行って様子見てくるから。で、今日、お前らだけになるけど、舞踊場の鍵、頼むな」
「あ、はい。戸締りは任せてください」
「おう。じゃあな」
通話ボタンを切ると、雨の日に取り残された犬のように不安げな深川と悠馬の目がこちらを見つめていた。
きっと自分も同じように心細さでいっぱいの顔をしているんだろうな。
そう思いながら、
「戸次先輩が」
と、時生は重い口を開いた。
*
先輩の怪我の話が気になって、その日はあまり練習に身が入らなかった。
夜になって戸次先輩本人からグループにメッセージが届いた。
時生はリビングのソファで寝転びながらそれを見た。
「マヨから聞いてると思うけど、怪我しちまった。
みんなには迷惑をかけてしまってごめんな。
捻挫と右足の指の骨折(ひび)で、全治3週間って言われた。」
3週間。
コンクールまで、ちょうど3週間……。
隣に座っていた葉子が言った。
「どしたの~、固まっちゃって」
「は、ん? いや……」
言葉を濁そうかとも思ったけれど、それよりも先にのぞき込んできた。
「あ! 勝手に見るなよ」
「いいじゃん。何何? 彼女? ん? グループラインじゃ~ん。部活のグループかあ……これ誰?」
「誰でもいいだろっ」
取り返そうとも思ったが、ソファからのけ反るように腕を伸ばしているせいで、戦う気を無くした。
時生はため息を吐いて、正直に話すことにした。
「ダンス部の三年の先輩。事故ったんだって」
「事故って――」
「交通事故みたい。車とぶつかって、全治三週間だって」
「ありゃ」
目を丸くした葉子がスマホを放り投げた。
時生はあわててそれをキャッチする。
「時生、コンクールまでもう少しって言ってなかった?」
「ちょうど三週間後」
「わお。かわいそ」
葉子がマカロンをかじりながら言った。
少し焦がしてしまったらしく、自己責任といいながら全部自分で食べるらしい。
「そんで、大丈夫なの? 出場メンバーってもう登録されてんでしょ」
「分からない。マ――他の先輩がそのへんの対応はやってくれてるはずだけど」
姉に大丈夫、と言いきれない自分の状況がもどかしかった。
だけどそれよりもやきもきしているのはマヨ先輩や戸次先輩のはずで、先輩たちが今何を思っているのかと想像すると胸の辺りがきゅっと痛んだ。
マヨ先輩に連絡しようかとも思ったけれど、何と送ればいのか分からなくてやめた。
きっとどう言っても、先輩たちの気持ちを慰められるとは思えない。
宿題の数学の問題をノートに解きながら、全然集中できていないのを自分でも認めざるをえなかった。
翌日の学校は何となく憂鬱だった。
そのせいか、遅刻しそうな時間になってしまった。
千代子に怒鳴られながら洗面所を使って、逃げるように出てくる。
姉たちと違って通学に時間がかかるので、のんびりしているわけにはいかない。
城聖高校は寮生以外は様々な場所からやってくるので、特に通学方法は指定されていない。
自転車、バス、電車、もっと遠いところから来る生徒は特急なんてのもいる。
時生は最寄りの駅から電車に乗って通学している。
普段よりも電車は混み合っていた。
通学の学生よりも通勤中であろうサラリーマンのスーツが目立つ。
肩と肩が触れ合う距離に居心地の悪さを感じながら、車内の中の方でつり革を持った。
その時、ひときわ目立つ金色の頭を発見した。
「あっ?」
思わず声が出た。隣のサラリーマンが訝しそうにこちらを見て、あわてて口を閉じる。
そうだ、あいつは――。
忘れようとしても忘れられない。
あの日、舞踊場にいた不審者だった。
イヤホンをつけてぼーっと窓の外の景色を見ている。
金髪でいかにもな不良には誰も近づきたくないのか、混んでいる車内でもあいつの周りには少し空間ができているような気がして見える。
合宿以来だけれど、あの憎たらしい面構えはしっかりと覚えている。
様子をうかがっている間に降りる駅に着いた。
ニンジンスキーの後から、じたばたともがくようにして降りる。
奴はどんどん先に行ってしまって、時生もあわてて追いかける。
無駄に足が長くて姿勢もいい。不良はもっと猫背で歩くものだと思っていた。
時生は時折小走りになりながら、着崩した学ランの背中を追った。
通学路は一本道で、住宅街の中をまっすぐ歩いていく。
時折自転車通学の生徒が勢いよく通り過ぎるが、遅刻間際なこともあって数は少ない。
遅刻したところで特にペナルティはないが、一応は進学校のためか規律はおおむね生徒の自主性によって保たれているらしい。
校門を通り、下駄箱に向かう金髪を追いかける。
柱に身を寄せてかくれながら様子をうかがっているとまるで探偵の気分だ。
不良の靴箱の位置は二年生の場所だった。
「二年……A組」
得体のしれない不審者の正体に少し近づけた。
そのときチャイムが鳴り、時生は飛び跳ねた。
「やばっ!」
確か、一時間目は数学だ。
問題が当たっていませんようにと祈りながら、時生はダッシュで一年の靴箱へ向かった。
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