第26話
群くんの判断は速く、正しかった。余裕だと思っていたのか金髪は小走りだったので、全速力の時生はすぐに追いついた。
「うおっ!?」
正門を出る前に腰にタックルを受けた金髪は、中庭の芝生の上にごろんと転がった。
ハァ、ハァと息を切らせながら時生はしがみついた。金髪の上に馬乗りになって、鎖骨の辺りを押さえる。
「名前言うまで離さないからなっ」
酸素不足で早くなった心臓のままに叫ぶと、男はゆっくり両手をあげた。
「わかったわかった。降参。おれの負け」
外灯に照らされた男の顔を時生はその時初めてまじまじと見た。
ひんやりした爬虫類を彷彿とさせる一重瞼の下に、茶色と琥珀色の混ざった瞳。やせぎすで男っぽい尖った骨格はお世辞にも天使なんて言えない。筋肉も戸次先輩のように盛り上がるほど鍛えられてついているわけでもなさそうだ。普通の男――いや、普通のチンピラだ。
「ちゃんと名乗るから上からどいてくれるか?」
金髪が言った。案外素直なやつだ。
時生は首の下においていた手の力を緩めた。その瞬間、金髪が勢いよく立ち上がった。
「うわっ」
今度は時生が芝生に転がり落ちた。うつ伏せになった時生と入れ替わるように、金髪は芝の上に立ち、時生の頭をがっと押さえつけた。草のチクチクする感触が頬に痛い。
「簡単に他人を信じると痛い目見るぞ、オバカちゃん」
「嘘ついたのかっ」
「当然だろ。何でおまえに正直でいなきゃなんねぇんだよ」
金髪は鼻で笑った。そして、悔しがる時生の耳元に囁いた。
「おれの名前? ニンジンスキーだよ」
「は? 嘘だ」
「ホントダヨ。にんじん大好きニンジンスキー。ぴょんぴょん」
「おまえ何言ってんだよ。名乗れって言って……ぐっ!」
「命令すんな。おれに」
ぐいっと強い力で地面に頭を押し付けられて、時生はもがいた。
その瞬間だった。
「おーい、時生? 何してんだよ。プロレス? 風呂入ったのに地面転がるとかうけるぅ。え、ていうか誰?」
「深川!」
コンビニの袋をさげた深川が、ペットボトルを片手にぼんやり立っていた。
金髪男はチッと舌打ちをした。頭を押さえつけていた手が離れた。深川に見つかったのを恐れてか、金髪はその場を走り去った。
追いかけなきゃーー。
そう思ったけれど、さっき全力疾走したからか思うように体が動かない。
「ねえ時生、今の何? 誰? 知り合い?」
傍まで寄ってきた深川が、助けるでもなくのほほんと尋いてくる。
「お前、他に何か言うことないのかよ……」
「えー? ん……プリン食べたい?」
一発殴ってやろうかと思いながら時生は自力で起き上がった。
押し付けられた顔の半分がじんじんする。
結局あのチンピラがいったい誰だったのか分からなかった。
セミナーハウスに戻った時生たちは、生方先生と戸次先輩たちにあったことを報告した。
「タバコが?」
戸次先輩は顔を曇らせた。
「武道場に来る前、屋上にもあったよな」
マヨ先輩がうなずいた。
「携帯灰皿でも何でも、見つからないようにするためのものはあるはずなのに、わざわざ吸い殻を残していくっていうのは……」
「喧嘩うってますよねぇ」
深川が言った。
「何の恨みがあんのか知らないけど、やめてほしいよね~」
群くんが神妙に言った。
「ウチが標的にされてるてことですかね」
考えたくはなかったけれど、二度続いていることがそうとしか思えない。時生の気分は暗かった。戸次先輩たちの古傷を、一度ならず二度までもえぐてしまうことが悲しかった。
「追いかけたけど逃げられちゃったんです。すみません……おれがもっと力があったら押さえつけられたのに」
ここにきてつくづく自分のひ弱さが嫌になる。
落ち込んでいると、群くんが時生の背中を励ますようにそっと叩いてくれた。
「仕方ないよ。時生のせいじゃないって」
「うん……」
「顔は見たんだろ?」
「見た。でも、暗かったからはっきりとは……」
「ほかに手がかりはないかな? 金髪だってこと以外に」
「金髪?」
戸次先輩が首をひねった。
「そいつ、金髪だったのか?」
「あ、はい、たぶん。すっごく明るい茶髪っていうか……」
時生が言うと、戸次先輩とマヨ先輩は顔を見合わせた。
「時生。その不審者は他に何か言ってなかったか?」
と、マヨ先輩が言った。
「え? うーん、悪態つかれたのは覚えてますけど……あ……それに」
「それに?」
「そういえばあいつ、よく分からないこと言ってふざけてました。おれがお前誰だって訊いたら、ニンジンスキーだよ、ぴょんぴょんって。人をおちょくってます」
言っていて腹がたってきた。
戸次先輩はぽかんとしていたが、マヨ先輩はにやにやして
「そうか」
とだけ言った。
並んで二階の部屋に戻る途中、マヨ先輩が言った。
「そういや時生、お前はバレエって分かるか?」
「バレー?」
時生は少し考えて言った。
「あの、サーブとかレシーブとかするあれですか」
「それはバレーだろ」
と、群くん。
「バレエ。クラシックバレエとか、モダンとかのこと。ですよね?」
「ああ」
白鳥の湖、ならば時生も聞いたことがある。
線が細く折れそうな腰をした美少女たちが、薄い蝶の羽のようなふわふわした衣装を着てくるくる踊る、あれか。
「そうそう」
マヨ先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「そのな、バレエの伝説的なダンサーの中に『飛ぶ皇帝』って言われてたやつがいる」
「へえ」
「100年くらい前の人だけどな。ジャンプをしてる間あまりにも長く空中にいるから、飛んでるって言われてたらしい。10回転したとか……」
「10!?」
人間とはもはや思えない。
だからこそ伝説になるのかもしれないけれど……。
「何年か前にもフィギュアの選手がそのダンサーに捧げる振付を踊って話題になってたな」
「その伝説のダンサーってなんていうんですか? 検索したら出てくるかな」
時生が言ったその時、群くんがはっとした表情で目を見開いた。
「……ニジンスキー?」
「おお、さすがだな。よく知ってる」
マヨ先輩にほめられて、群くんは恥ずかしそうに頭をかいた。
Tシャツの首元からすらっと生えたようなうなじが、風呂あがりよりも赤い。
いや、それよりも。
「えっ? 今なんて?」
時生が訊き返すと、
「ニジンスキー。ロシアの天才ダンサーだ」
マヨ先輩が後を引き継いだ。
ニジンスキー。それは聞き覚えのある響きだった。
「待てよ、さっきあの不審者が言ってたニンジンスキーっていうの、それってもしかして」
「そうだ。おそらく、ニジンスキーのことを知っていて、それをもじったんだろ」
「でもあんなやつがなんで……」
群くんが不思議そうに言った。
時生の頭の中に、さっきの舞踊場での光景が浮かんだ。
今思えばばかみたいだし、気のせいかもしれないけれど、天使がいるのではないかと思った。
中身は性悪の不良の不審者なのに、空中を舞うあの男の背中にはまるで本当に羽があるように見えたのだ。
「あ、……ねえ、でもさ、これって手がかりだよね。少なくともあいつは、バレエに詳しい」
マヨ先輩が時生を見てニヤッとした。
「ああ。それもちょっと知ってるってレベルじゃねえ。ニジンスキーはもちろん伝説のバレエダンサーだが、そいつを知ってるとなると相当バレエに精通してる。
それにおまえらは見たんだろ? そいつが空中で二回転か三回転してるところ」
「この学校の生徒で金髪。それで、バレエの経験があるやつ。こんな特殊な条件、揃ってるやつ少ないんじゃねぇの?」
時生は部屋に戻ってからも、マヨ先輩が言ったことを忘れられずにいた。
深川のいびきと群くんのすう、すうという寝息が響く和室で、あの跳躍がフラッシュバックする。
何度思い出しても胸がどきどきした。
バレエは女の人がきれいな恰好をしてやるものだという偏った思い込みが見事に打ち砕かれた。
若い馬のような荒々しさと優雅さ。魔法にかかったような跳躍――。
人間があんなに跳べるなんて思いもしなかった。
そんな踊りができるやつがなんで。
「なんであんなに最低なんだよ……」
時生は悔しかった。
今まで出会ったダンス部の先輩は人間的に尊敬できる人だった。
同期の仲間たちもいいやつだ。
ダンスがうまくて尊敬できる人は、そのまま人間としても尊敬できた。
だけど今回はそうじゃない。
あの極限まで美しく優雅だったダンサーはただの性悪の不良だった。
暴力的で嘘つきで、こちらが抑え込めないくらい狂暴……。
マヨ先輩は言っていた。
絞り込むのはわけない。
この学校で明るい髪でいるだけでそうとう目立つはずだ。
その不良生徒の中から絞り込めば――。
だけど、と時生は思った。
あいつを見つけてどうするっていうんだろう。
見つけたところでどうするかなんて考えていなかった。
捕まえて謝らせる?
本当の名前を名乗らせる?
不法侵入を先生に言う?
それで気が済むんだろうか?
(おれはどうしたいんだろう)
胸の中に重苦しいものが残っていた。
犯人を見つけて捕まえたら、すっきりするんだろうか? 本当に?
結局あまり寝られずに朝がきてしまった。
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