第21話
深川は突出して体力があるわけではなく、むしろ時生以上にスタミナがなかった。柔軟性もかなり怪しい。最初のストレッチでは、開脚して床に胸をつける柔軟をやろうとして、テディベアのような体勢で固まっていた。初心者なので当然だが、振付けを覚えるのも時間がかかって、結局途中は飛ばしてサビだけやろうという話になった。それでも初心者には難しく(ここ数か月の苦労をしてきた時生にはその難しさはよく分かった)深川は何度も間違えたり遅れたりしながら、なんとか最初の練習を切り抜けたといった感じだった。
「あのさ、深川でも悔しいとか思うことあるの?」
と、時生は尋ねた。深川はきょとんとして、
「え、あるけど。ふつーにあるけど」
と目をぱちぱちさせた。
「昨日、八丈先輩にクレープ屋に連れってってもらったんだけどさ。おはぎクレープの抹茶アイス添えっていう魅惑のメニューを見つけたわけ。で、迷うことなく注文したんだけど、店員さんに今日は抹茶アイスが品切れですって言われちゃって。結局バニラアイスにしたんだけどさ、やっぱあれは抹茶だったと思うんだよね。プリンにカラメル、ショートケーキには苺。おはぎクレープには抹茶アイスってことだよ。いやー、あれは悔しかったなあ」
「いや、うん。そうじゃなくてさ……ダンスの練習とかしてて、思ったみたいに動けないときとかさ」
「それはないかなあ」
「ほんとに? おれは最初できないのがすごく悔しくてさ。深川も初心者だし、同じかなあと思ったんだけど」
「そりゃあできたら楽しいだろうけど。でもさ、できなくても楽しいよ。ゲームだってクリアするまで、ゲームオーバーになってももっかいやって、ずっと楽しいでしょ」
「すごいなあ、深川は」
時生は素直にそう思った。
「おれはそんなふうに思えないや。すげーポジティブ」
どこか厭味ったらしい口調になってしまった。
時生は焦って深川を見たけれど、彼は何も感じていない様子でイヤホンを丁寧に巻いているところだった。深川のぼんやりした何を考えているかわからない垂れ目を眺めていると、いつのまにか話すつもりのなかった言葉まで口から出ていた。気付いたら時生は高架線の下の日陰で、ふくらはぎのストレッチをしながら喋っていた。
「おれさ、バドミントンやってたんだ、中学のとき。でも、全然だめで。いくら練習してもうまくなんないし、どっか要領悪くて。公式戦のたびに、みんなに悪いなって思ってた。だからって人数の多い部活でもなかったから、辞めたら余計に迷惑かけるんだろうって思ったら辞めどきもなくなっちゃって」
「ふうん」
「だからさ、できなくても楽しいなんて思わなかったよ、一度も」
深川はイヤホンをかばんにしまって、腰かけていたコンクリートの土手から立ち上がって伸びをした。
「堤は、ダンス好きなの?」
時生は面食らった。ダンスが好きかどうか? そんなのまだわからない。そもそも今の段階ではダンスができているかどうかということすらあやしい。
「や、どうだろう……」
「でも少なくともいやじゃないんでしょ。おれら誘って休みの日に練習するくらいには」
「まあ、うん」
時生は深川の表情のよめない横顔を眺めた。体の固い深川はのんびり足を伸ばしている。やる気があるのかないのか分からない、どこを伸ばしているのかもよく分からないストレッチだ。
「だって、うまくなりたいじゃん。ちょっとは」
「なんでうまくなりたいの」
「そりゃあかっこいじゃんか。戸次先輩みたいに踊れるようになりたい」
「ふうん」
深川はストレッチを終えて、立ちあがった。
「十分楽しそうに思えるけどな、おれには」
時生が口を開く前に、群くんがやってきた。
「ごめん! 遅くなって。スピーカーの充電が終わらなくて」
自転車を河川敷に止めると、群くんはてきぱきとウォークマンを携帯型スピーカーに繋いだ。
「昨日充電してたんだけど、猫がコンセント引っこ抜いてたみたいでさ……」
「群くん、猫飼ってるの。どんなの?」
深川が嬉しそうに尋ねた。
「え? えーっと、アメショだよ」
「アメシャ?」
「うちの猫はキャデラックでもシボレーでもないよ……」
見かねて時生も間に入った。
「アメリカンショートヘアーって種類のことだよ。うちの親戚も飼ってた」
「へえー、おしゃれな名前がついてんだねえ」
と深川は言った。
群くんは苦笑して、スピーカーをオンにする。ゆったりしたテンポのR&Bが流れ出した。高架線の四角い灰色の空間が、心地よい振動で満ちていく。何の変哲もない河川敷の橋の下が、一気にダンスの練習場所に様変わりした。鏡こそないけれど、地面はしっかり乾いているし、それで十分だ。
「アイソレ、もう終わっちゃった?」
と、群くんが尋ねた。
「いや、まだだよ」
時生が言うと、群くんは3人で一緒にやろうと声をかけた。
誰が言い出したわけでもないけれど、自然と群くんを中央の前側に、その左右後ろに時生と深川が立った。群くんは、一年の中では断トツにうまい。そして、技術がある人が前にいるのは、安心するものだ。
「じゃ、首から4カウントでいくよー……ワン、ツー、スリー」
群くんがパンと手を叩く。その乾いた音を起点に、3人は鶏のように前に首を突き出した。首の可動域を広げるためのアイソレーションだけれど、時生も深川もまだうまくはできない。その点、群くんはまるでアニメに出てくるインド人か何かのように、信じられないくらい首が動く。
素直な深川が、
「うわ、すっげえ」
と横でつぶやいた。時生も同じ気持ちだった。ブランクがあるといえども、群くんの体の中には小さい頃からの積み重ねがちゃんと残っているのだ。こんなに上手なのに、群くんはどうしてダンスを辞めてしまったのだろう? 首筋を限界まで伸ばしきりながら、時生は群くんの決して逞しくはないけれど、頼もしい背中を見た。
アイソレーションとリズムトレーニングをすると、もう汗がTシャツの胸のあたりを濡らしていた。染みの目立つ灰色を着てこなければよかったと時生は思った。深川はハアハア息をあらげながら、持ってきたスポーツドリンクをがぶのみしていた。
「あんまり飲みすぎると動けなくなるよ」
と、群くんが注意した。
「だってさー、あっちいんだもん。体の水分全部もっていかれそう」
「はは、深川。まだ振りまでおれらやってないよ。これからが本番」
「えーっ……やばい……」
苦笑しながらも深川はいやがっているようには見えない。時生はスポーツタオルで額の汗をぬぐうと、それを首に巻いた。
群くんはコンクリートの上に置いたスピーカーを操作した。『We In Here』の前奏が流れ出す。比較的ゆっくりした曲だと戸次先輩は言っていたが、時生にとってみればずいぶん早く感じる。群くんは自然と体が動くようで、音が流れた瞬間に小さく首や肩がビートに沿って揺れ始めた。時生も負けていられないような気がして、さりげなく胸でリズムを感じてみる。
「よし、じゃあ一度だめもとで通してみよっか」
群くんが言ったのを合図に、アイソレーションと同じ位置に時生と深川は並んだ。群くんはスピーカーのところにいて、ボタンを操作している。
「えっ? 群くんはやらないの」
と、思わず時生は尋ねた。
「おれ、いたほうがい?」
と、群くんは答えた。
「そりゃあいたほうがいいよー。だってまだ覚えられてないとこあるし」
深川が言う。群くんは涼しい顔で、
「だからいいんだと思うよ」
にっこりしながら言った。
「だってさ、自分が何ができてて何ができてないかなんて、やってる最中はよく分からないだろ。別に二人をテストするつもりとかそういうのじゃなくて、おれの目を利用してほしいんだ。あとで交代して、おれの踊ってるとこも見てほしい」
時生と深川は同時にうなずいた。正論過ぎて言葉もでない。群くんがダンス部にいて、本当によかった。深川と二人の自主練習だったら、こうスムーズには絶対にいかなかっただろう。
そして五分後、群くんの言った通り、何ができていて何ができていないのか、時生は痛感することになった。
必死で踊り終わって、胸を上下しながら息を吸い込みながら、時生は思った。
正直、何もできていない。
曲についていくのだけでも精一杯だった上に、覚えていたつもりの箇所の振付けもあわあわしているうちに流れていってしまった。
群くんはそれでも曲が終わると拍手をしてくれた。
「うわー、全然できなかったあ」
時生が言おうと思ったことを、尻をぺたんと地面につけた深川が潔く代弁してくれた。
「いやいや」
群くんは首を振った。
「二人とも、よくこの短期間で頑張って覚えたよ。すごい」
お世辞でもなく、群くんは驚いているようだった。時生は照れ臭くなって首のタオルを結びなおした。深川もまんざらではないようで、にへらっと笑っていた。
「じゃあ、細かいところちょっとずつ確認してこう。おれも完璧じゃないけど」
群くんは時生と深川の前に立つと、曲の入りのところからのひとつひとつの動きを確認していった。
「まずは曲の最初のリズムのとり方ね。リズムトレーニングでやったアップの動きと同じ。マヨ先輩たちは首もつけてるけど、別にやらなくても変じゃない。それよりも胸を丸くして、腰でビートを感じるほうがいい。ズン、ズンっていうリズムを……何というか、頭でとるんじゃなくって、腰でとるんだ。裏拍のところで頭が上がる」
「はあい」
深川が小学生がやるように手を挙げて言った。
「あのさあ、いまいちそのアップってやつが分かんないや。手はグーで、胸を丸める感じだと、どうしても追いつかない」
「もうちょっと膝を曲げてみて」
群くんは言った。
「おなか痛いときのポーズがあるよね。自分のおへそを押さえる感じ。でも顔は下に向けずに前を向く。ダンスにはダウンとアップがあるけど、基本的には同じ。アップのときも膝は曲げて、頭の上から糸で真上に引っ張られると思ってみて」
「糸で……マリオネットみたいな感じ?」
「うん。そんな感じ」
「あの、群くん。おれも分からないとこがあったんだけど。アップのときも背中は曲げるんだよね。そうするとやっぱり追いつかないんだ。何かこつとかあるかな」
「んー……堤くんの場合は、膝を意識するよりもやっぱり頭を意識したほうがいいんじゃないかな。頭がひっぱられるから、勝手に体が後からついてくるってイメージするんだ。そうすると不自然な動きにならない」
「なるほど」
時生は自分が頭のてっぺんから糸で吊られている想像をしてみた。もう少し髪が長ければ実際に引っ張っていたかもしれない。
群くんは実際にアップのリズムの動きをやってみせてくれた。たしかに首や肩に変な力が入っておらず、自然に見える。
「じゃあ次ね、右左右左、で手を出して開いて、胸のところでグーにする。このとき、ちょっと前かがみになって……」
群くんは指導者としては最高に優秀だった。的確でわかりやすい説明を聞きながら、時生も深川も真剣に振付けを頭に叩き込んだ。そのかいあって、夕方になるころにはひととおり、自信のなかったところもそれなりに理解できるようになっていた。
「ちょっと休憩しようか」
と、群くんが顎に伝った汗を手の甲でぬぐいながら言った。
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