第6話

日曜日は朝から雨が降っていた。

時生はテスト勉強をして過ごすことにした。

実際に、1学期の中間テストも目前だった。

勉強しないといけないんだと母や姉たちに言ったことも間違ってはいない。

だけど、時生の頭の中には方程式や古文の活用形ではなく、全く違ったことが渦巻いていた。

昨日見たたくさんの動画の印象。

髪を振り乱して踊る、アイドルとは違った女の子たち。

野生の動物のようにいきいきとした男たち。

強靱な肉体やトレーニングで作られたアクロバティックな動き。

練習に裏打ちされた技術を軽々と魅せるソロのダンサーたち。

踊ることが好きな人間が、これほど世界にいたのだと時生は初めて知った。

そして、何をしていても忘れられないのが、あの白シャツ。

マヨと呼ばれていた男と、戸次先輩のバトルだった。


日差しの降り注ぐ屋上で、かあっと胸の奥が熱くなった。

照りつける日差しのせいだけではない。

あんなに楽しそうに笑う戸次先輩を見て、何も思わないわけがない。

飄々とした白シャツの、飛びかかるような動き。

ステップ、流れる汗、音楽、靴のラバーのこすれる音さえ、鮮明に覚えている。

鮮やかな青空を背景に踊る二人は、鳥のようにさえ見えた。

そして、自分もその空の中に入ってみたいと思ったのは、どうしようもなく事実だった。


昼ご飯を食べてから、机に向かった時生がぼうっとしながらシャーペンをまわしていると、突如部屋のドアがドンドンと叩かれた。


返事をすると同時に蹴破られた。

正確には乱暴に開けられたのだが、長女の秋子がノブを回すやいなや、足で開けたせいで結局勢いよく扉が開いたのだった。


「おいトキオ、ちゃんとやってんのか」

「秋姉ちゃん、頼むからノックしてくれよ。オレだって健全な高校生なんだからさあ……」

「お前にプライバシーってもんはないの。ハムスターにプライバシーがあるか? あたしは考えてみたことすらない。お前はなあ、この家にいる限り、父ちゃん母ちゃん姉ちゃんたちの庇護のもとに生きてんだからな」


秋子は学習机の上に、ガラスカップに入った黄色い食べ物を置いた。

カスタードプリンだ。


「葉子が作ったんだと。あいつもよくやるよな」

と、秋子は顔をしかめて言った。

次女の葉子はぼーっとしているが菓子作りはうまい。


「化学実験ってやつと似てるんだとさ。あたしには全然理解できねーけど、あいつ、料理の才能あんじゃねえのかな。確かにうまいし、見た目もいいんだけど……ここだけの話、あいつ、ビーカーとか試験管使って材料計るんだぜ。あいつが白い粉もってるだけで、何かえたいのしれない感じがすんだよなあ」


そんなことを言いながらも、葉子が趣味の一かんとして作る菓子や料理を一番楽しみにしているのは秋子なのだ。その証拠にこうして新作ができると家族に配布して回っている。さらに、自分が一番最初に試食するため、秋子の食レポに近いレビューまでついてくる。


秋子はちゃっかりと時生の分と一緒に、自分の分ももってきていた。

もちろん、二つめであつことは言うに難くない。


「今回のはカスタードプリンらしいんだけどな。生クリームがたんまり入ってるそうだ。だけどしつこくないんだな、これが。くやしいけどうまいんだ。何でだと思う? なんとな、豆乳が入ってんだと。動物性のクリームだとこうはいかない、豆乳だからこその――おい、時生? どうした? 食わねーのか?」


時生はスプーンでプリンをすくったまま、固まっていた。

秋子に言われてふと我にかえる。


「あ、ごめん……ちゃんと聞いてる。豆腐でできてるんだろ?」

と、軽率に発言したことを時生は後悔した。

秋子はわざとらしく、大きいため息をつく。

どうやら不正解だったらしい。


「あたしは豆腐じゃなくて豆乳って言ったんだ。まあそれはいい。時生、お前どうしたんだ?」

「どうしたって、何が……ん、これ、あっさりしてて、おいしいね……」

「恋か」

「ぶほっ」

時生は思いがけない言葉に、むせてしまった。

秋子が

「もったいねえ! っつーか汚ぇ!」

と怒る。


ティッシュで飛び散った一口を拾いながら、時生は涙目で首を振った。

「ちが、違うよ、秋姉ちゃん。」

「バカヤロー、あたしがそんな面白いこと見逃すと思うか。葉子や千代子に言われたくなかったら洗いざらい喋りやがれ」

「だから違うんだって。だいたい男子校でどうやって恋愛すればいいんだよ。オレはただ――」

「ただ?」


秋子が鼻の穴を膨らませながら続きを促してくる。

美人女子大生が台無しだ。


「その――迷ってるんだ。」

「何に迷うっつーんだ」

「部活に」

「はあ?」


秋子は心底軽蔑した表情をした。

がっかりもいいところだと顔に書いてある。

時生はあわてて言った。


「いや、大事なことだろ、3年やるんだぞ、部活って。それにオレ、中学のときバトミントン部だったじゃん。つまんなくはなかったけど、何かちがうっつーか、あれはあれでよかったんだけど、またやりたいとは思わなかったっていうか」

「ああ。お前、ドヘボだったもんな」

秋子がすげなく言う。


「ド、ドヘボって……そんな言い方しないでよ。まあ、事実だけど」

「公式戦どころか練習試合でも味方の足ひっぱりまくってたじゃんか」

「う、……それで、だからこそオレは高校では自分でこれだって思えるところに入ろうと思ったんだよ」

「そりゃあ勝手にすりゃあいいけど、お前、もう5月だぞ? 入部勧誘なんか終わってる時期だぞ。どうすんだよ。早く決めねーと、無所属でフラフラすることになるぞ」

「だから今迷ってるんだってば」


秋子は時生からプリンを奪い取った。

なかなか減らないことに業を煮やしたらしい。


「そんで、お前は何部と何部で迷ってんの?」

プリンを頬張りながら、部屋の中央のラグの上にどっかりとあぐらをかく。

ミニスカートじゃなくショートパンツでよかったと時生は思った。


「えっと……空手部でしょ。あと、剣道部」

「あー。却下だ却下だ。そんなもん、お前、中学のときの二の舞だぞ」

秋子は鼻でせせら笑うと、銀色のスプーンをじっくりと舐めた。

そして、ピカピカになったスプーンを時生に向かって突きつけて言った。


「姉ちゃんのオススメは文化部だ。運動部以外に入れ」


時生は絶句した。

予言者のような神妙な面持ちと、厳格な声で秋子は続ける。


「いいか、中学の時分から思っていたが、お前は決定的にスポーツは向いていない。個人競技でも集団競技でも、勝敗の絡むスポーツはだめだ。お前はつい考えてしまうんだ。相手と自分とどちらが強いか。本気で勝負に勝ちたいやつは、そんなこと考えない。自分の全力を出すだけだ。その小賢しい性格が勝利への壁になってるんだ。だがそれはもって生まれたものだから仕方がない」


秋子は中高と陸上部で、高校では全国大会まで出場した強者だ。

大学では陸上サークルとラクロス部を兼部している。

運動神経は抜群だ。

その秋子に珍しく、核心を突いたことを言われて時生は言葉に詰まった。

反論しようと思っても、秋子に言われたことは多かれ少なかれ心当たりがあった。

秋子は続けた。


「だいいち、お前は何のために部活がしたいんだ? 筋トレなら家でだって、ジムでだってできるだろう。肉体改造をしたいだけならバイトでもして金を貯めてアイザップにでも行け。お前が変えるべきは、そのひょろっちい体ではなく、ひょろっちい心の方だ」


そのとき、階下から秋子を呼ぶ声が聞こえた。

「あきねーちゃあーん。ばんそうこう」

葉子の声だった。

秋子はチッと舌打ちをした。

まだ言い足りない様子だったが、階下での惨状を考えると行かざるをえないらしい。

葉子は実験や勉強に関しては器用だが、どうにも天然なところがあるのだ。


「葉子、また手ぇ切ったのかな」

秋子は心配そうに呟く。なんだかんだいって、妹には甘いところがある長女だ。

プリンカップをのせたおぼんを持つと、キッと時生の方を向いて秋子は言った。


「いいか。あくまでも決めるのはおまえだ。どんな部活に入ろうとも、辞めるんじゃないぞ。結局な、良い成績を残すことが全てじゃない。何があったとしても、3年間一つのことをやり続けて、何かをやり遂げるってことが一番大事なんだ。覚えとけよ」


いつになく真剣な表情の秋子は、大人びて見えた。

時生は素直な気持ちで頷いた。

秋子は足で扉を器用に開けて出て行った。


残された時生は、カスタードの余韻を舌で探りながら、秋子の言葉の意味を考えていた。何があったとしてもやり続ける。それは、簡単なように思えて、奥が深いことなのかもしれない。時生は自分が柔道部や空手部に入ったときのことを考えてみた。


もし、怪我をしたら? 

試合で結果が出なかったら? 

部員に迷惑をかけてしまったら?


絶対に辞めないとは言い切れないかもしれない。


ダンス部ならばどうだろう。いったいどんな部活動なのか、内容もさっぱり見当がつかない。自分が先輩たちや動画のように動けるようになるとは、正直に言って想像できなかった。だけど、戸次先輩についていけば、きっと今は知らない景色もたくさん見られるような気がした。それは確信にも近い希望だった。ダンス部に入ることも辞めることも想像がつかない。

だけど――。


飛び込んでいく以外にきっと道はない。


窓の外は雨が降っている。

しとしと降りしきる雨音の中で、時生はどこかすっきりとした気持ちになっていた。

秋子はただプリンをもってきただけだったのだろうか。

それとも金曜日から元気のなかった自分を心配してくれていたのだろうか。

分からないけれど、どちらにしても秋子には感謝しなければならなかった。

乱暴でも粗暴でも、さすが長女だ。

午後こそは、本当にちゃんと勉強をしなければまずい。

テスト勉強どころか、明日の宿題さえも終わっていなかった。

時生は科学の教科書を開いた。

もう心のざわつきはおさまって、シャーペンをまわす気にもならなくなっていた。


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