夏の夢
@kiriko_san
第1話
「なんでこんなに可愛くてお利口さんなの?」
「だって、ママのこといっぱい大好きもん。」
布団の中に入ってから寝る前のお話タイム。この時間が一日の中で最もYと気持ちが繋がっている実感があるかもしれない。目を瞑って寝ようとするとYが小さな指先で私の額をつんつんと突っついてきた。「なあに」と聞くと、「うきゅうーーーくくく」っと小動物が鳴くような声を出しながら、こちらに転がってくる。掛け布団を上げて「おいで」と言うと、勢いよく生命の塊がタックルしてきた。私はその塊をぎゅうと抱きしめた。しばらく2人でクスクス笑っていたが、次第に腕の中でYの笑い声が小さくなっていき、いつのまにか笑い声が静かな寝息に変わっていった。私は右手をYの首の下、左手を両太ももの下に入れて、彼女の身体を敷布団から5センチほど浮かせた。そして、そのまま隣の布団に水平に飛行させ、着陸させた。この業務を腕の力だけで行うにはYは重たくなりすぎていた事を思い出し、思い出した瞬間に後悔したが、極力穏やかな着陸のための操縦手順を瞬時に計算し、実行に移した。乳児なら失敗した着地になったはずだが、もはやYは乳児ではなくなっており、立派な5歳の女の子である。5センチメートルからのやや振動をともなう着陸にも動じることなく、頼もしく寝息を立て続けている。私は腕の筋肉の痺れを感じながら、しばらくYの丸い顔を眺めことにした。頬の産毛は、木に成っている良い香りのする桃の表皮のようだ。長くまっすぐに密集したまつ毛、まつ毛から眉毛へのグラデーション。おでこには濃いめの産毛が然るべき方向性に沿って流れている。こめかみ付近から頭皮に向かって赤い湿疹が発生しており、これは半年くらい前から顕著になったものだ。これはもしかすると今後数年間に渡り不慮すべき事柄となるかもしれず、私の心は急にひやりと暗くなる。病院に連れて行き診察が終わった後、皮膚科医はYのカルテに「アトピー性皮膚炎」というゴム印を、べたり、と押したのだ。私は『あぁきたか』とがっかりしてしまった。自分の遺伝によるもの、いや、単なる自然界のアルゴリズムの一つに過ぎないのは分かっている。しかし、受け入れがたかった。
私は体を起こし、居間の薬箱から軟膏のチューブを取り出した。真珠粒くらいに軟膏を押し出し、寝息をかいているYの生え際にクルクルと螺旋を描きながら塗布した。指先に残った油分は、自分のうなじの湿疹に擦り込んだ。明日はSの保育園時代のお友達親子と自転車で遠出して水遊びをすることになっている。SはYの姉で、小学校2年生だ。すでに隣の部屋で熟睡している。明日に備えて、私も早く眠らなくては。Sが寝ている部屋に行き、彼女のお腹に手を当てる。少し前までは、寝息に合わせてお腹が上下に大きく動いたから、すぐに生存を確認することができた。いつからだろう、呼吸が深い海の底で潜む深海魚のように、感知するのが難しくなってしまった。Sのお腹に当てる手の力を強め、肺が上下する動きを何度か確認できてから、やっと私は安心して眠ることができた。
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