第22話

 

「え……」


 フィクスがどのような意図でそれを口にしたのかが分からなかったセレーナは、困惑の色を浮かべた。


「……なんてね。冗談。気にしないで」


 けれど、肩から顎を退かしたフィクスがそう言うものだから、セレーナは「かしこまりました」と言って、頷いた。


(……冗談で言っているようには、聞こえなかった)


 けれど、本当に好きな相手──スカーレットならともかく、フィクスが自分に対して嫉妬するはずがない。


 少し高い位置にあるフィクスの顔を見上げれば、いつもと変わらず薄っすらと笑みを浮かべているので、セレーナは考えすぎかと思うことにした。


「──くしゅんっ!」


 風が吹くと、肌寒さが増す。

 口元を手で多いながらくしゃみをしたセレーナを見て、フィクスはすぐさま自身のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。


「ほら、ここは寒いから、これを着ておきなね」

「しかし、それではフィクス様が寒いのでは……!」

「俺は寒くないし、これ以上俺を心配させたくないなら、大人しく着て」


 若干圧のある声色でそう命じられたら、従うという選択肢しかなかった。


「……は、はい。では、遠慮なく。ありがとうございます」


 先程までフィクスが着ていた紺色のジャケットは、彼に体温が移っていて温かい。


 それに、ジャケットからはほのかに香りが漂う。これは、香水だろうか。

 数分前に味わったアルコールの強烈の匂いとは違う、スッキリとしたこの匂いは──。


「ふふ、シトラスの香り……。この匂い、私好きなんです」


 頬が緩み、うっとりと微笑むセレーナ。

 たまに部屋に香を炊く際は、必ずシトラスの香りにするくらい、セレーナはこの匂いが好きだった。


「……っ」


 フィクスはそんなセレーナを見て息を呑むと、一度盛大に息を吐く。


「無自覚ほど、恐ろしいものはないね」

「えっ。私はなにか、怖がらせるようなことを言ってしまったのでしょうか?」

「違うよ。そういう意味じゃなくてね。……でも、そうだ。せっかくだから──」


 それから、フィクスはセレーナの耳元に顔を寄せて囁いた。


「そんなにこの匂いが好きなら、直接嗅いでみたらどう?」

「……直接ですか?」

「そう。ジャケットよりさ、俺の首筋の方がもっとシトラスの香りがすると思うけど」

「……!? え、遠慮させていただきます!」


 異性の首筋の匂いを嗅ぐなんてしたことはない(同性もない)が、相当ハードルが高い行為だと思う。

 恋愛経験も、男性に対しての免疫もないセレーナには、無理難題であった。


(ここがバルコニーで良かった……)


 セレーナは会場に一瞥をくれる。

 これがもし会場内だったならば、人目があるため一刀両断というわけにはいかないからだ。


(……って、あれ?)


「あの、フィクス様。今更ですが、どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」


 本当なら今頃、フィクスはスカーレットと談笑しているはずだというのに、何故この場に来たのだろうか。

 疑問をぶつけると、フィクスはセレーナの首筋から顔を離し、呆れた顔を見せた。


「当然でしょ。婚約者があんなに急に居なくなったら、誰だって追いかけるよ。心配だしね」

「そ、それはそうかもしれませんが……」


 それは一般的な婚約者の場合に限るのでは……? と思ったセレーナだったが、フィクスのあまりの呆れ顔に、言葉を噤んだ。


「むしろ、俺が聞きたいんだよね。なんで急にあの場から去ったの? セレーナ、あの程度の酒じゃ酔わないよね?」

「うっ、それは……ですね……」


 セレーナの声は、尻すぼみに小さくなっていく。


(ど、どうする……。スカーレット様と少しでも話していただきたくてとお伝えするべきか、否か……。変に誤魔化すなら、伝えた方が良いだろうか……。いや、だめだ)


 伝えること即ち、セレーナがフィクスに好きな人が居ることを知ってしまうことになる。

 フィクスにとっては、六年間スカーレットのことを思い続けることは、クロード以外には聞かせたくないことなのかもしれないのだ。


(よし、フィクス様がスカーレット様のことを好いていらっしゃることは、私の胸に秘めよう)


 そう決めたセレーナは「今日は珍しく酔ったのです」と言いながら目を泳がせた。


「ふーん……。酔ってるのに、あんなに走れたんだ?」


 ──ギクッ!


 痛いところをつかれたセレーナは、大きく肩をビクつかせる。完全に疑われているようだ。

 どうにかこの流れを変えなければと、セレーナは慌てた様子で口を開いた。


「あ、あのですね! 改めましてミストレイ侯爵令息から助けてくださり、また上着まで借していただき、まことにありがとうございます……! なにかお礼ができればと思うのですが、なにかありませんか……!?」

「……!」


 必死な形相のセレーナに、フィクスは一瞬瞠目する。


「……話をはぐらかされた気はするけど、良いよ。乗ってあげる」


 そして、フィクスは腕を組んで考える素振りを見せると、すぐさま「あっ」と呟いた。

 どうやら、なにかひらめいたようだ。セレーナは、ピシッと姿勢を出して、彼の言葉を待った。


「セレーナ、明日の予定は?」

「えっと、明日は一日お休みをいただいておりますが」

「そう。それならちょうど良いね」

「と言いますと……?」


 バルコニーに微風が吹く中、フィクスは褒め惚れするほどに美しい笑みを浮かべた。


「明日、俺とデートしよう?」

「デート……?」

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