第21話

 

 途中、ボーイに空になったグラスを手渡したセレーナは、一人でバルコニーに居た。

 会場に背を向けて見上げれば、雲一つない、満天の星空が視界いっぱいに広がる。


「綺麗……。けど、少し肌寒い……」  


 初夏とはいえ、日によって夜は冷える。そのせいか、バルコニーはガラリとしていて、セレーナ以外の人の姿はない。

 会場は照明や人混みによってかなり暖かかったので、気温の差に驚いた。


 酒を飲んだことと、走ったことで多少体温は上がっているものの、この分だと直ぐに冷えそうだ。


「今頃、フィクス様はどうしてるかな。ゆっくりスカーレット様と話せていると良いけれど」


 六年間片思いをするなんて、どんな感覚なのだろう。

 今まで恋をしたことがないセレーナには、皆目検討もつかなかったけれど、そんなに長い間誰かを思い続けることは尊いことであると、そう思った。


(……どうか、フィクス様の恋が叶いますように)


 キラキラと光る星を見つめながら、セレーナは願う。


「セレーナ様」


 仮初の婚約者であることを疑われないよう、あと少ししたらフィクスのもとに戻ろう。

 そう考えていたセレーナだったが、背後から名前を呼ばれたので振り向いた。


「ミストレイ侯爵令息様」

「ここは少し寒いですねぇ」

「はい。そうですね」


 話しかけてきたのは、ミストレイ侯爵家の嫡男だ。先程挨拶をした以外にほとんど面識はない。

 彼は前髪をかきあげながら、セレーナの隣まで歩いて来た。


「殿下はご一緒ではないのですね?」

「はい。酔い醒ましに夜風にあたりたいからと、一人でここに」


 本当の理由は違うが、ここでそれを口にするわけにはいかなかった。

 ……しかし、この返答は間違っていたのかもしれないと、セレーナは後悔することになる。


「……では、私と同じれすね。セレーナ様」

「……!」


 男性はそう言ってから、ずいと顔を近付けてきたからである。

 およそ、その距離は十センチにも満たないほどだ。

 婚約者でもない異性にこの距離まで詰められるのは、正直不快しかなかった。 


「あの、離れていただけるとありがたいのですが」


 後退っても、迫ってくる。背中にはひんやりとした壁柵の温度を感じる中で、セレーナは嫌悪感を含んだ声で伝えた。


 月明かりがあるとはいえ、バルコニーは暗い。

 目の前の男性の顔に赤みがあるかどうかは判断ができなかったが、彼から漂う鼻を刺激するアルコールの匂いと、若干舌足らずな話し方からして、相当酔っているのだろう。


(これはウィスキーの匂いか。確かに強いお酒だけど、第二王子殿下の祝いの席で酔っ払うまで飲むとは)


 セレーナは呆れたというように、小さく溜息を漏らす。


(しかし、困った)


 これが騎士たちとの酒場でのてきごとならば、酔い過ぎだと肩を押してしまえば良かった。それでも顔を近付けてくるなら、足払いをしてこかしてしまえば良かった。


 しかし、ここは貴族たちが集まるパーティー会場のバルコニーだ。相手は格上の侯爵令息で、手を出せばフィクスに迷惑をかけてしまうかもしれない。


「まあまあ、お酒に酔った者同士なかよくひましょうよ〜」

「結構です。あまり手荒な真似はしたくありませんので、今すぐに離れてくださると助かります」

「そんな怖いお顔はなさらずにぃ。せっかくの綺麗なお顔が台無しですよ」


 男性はそう言うと、厭らしく口元に弧を描き、より一層顔を近付けてくる。


「ああ、セレーナ様の可愛らひい唇にふれたら、酔いも覚めそうだ」


(き、気持ち悪い……!!)


 あまりの気持ち悪さに、セレーナは背筋がゾッと粟立つ。


 偶然を装って、ヒールで相手の足を踏んでしまおうかと思った、その時だった。


「……お前、死にたいの?」

「「……!」」


 バルコニーの入口辺りから聞こえる、少し掠れた低い声。

 いつもの余裕そうな声色とは違い、怒りが感じられた。


「フィクス様……!」


 セレーナがその名前を呼んだのとほぼ同時に、男性は顔を真っ青にして、慌てて振り向いた。


「で、殿下これは……! ちがっ、ちがうのれす! あのっ」

「は? なにが違うの? 俺のセレーナに迫っているようにしか見えなかったけど。セレーナ、違う?」

「そ、そのとおりです」


 セレーナがコクコクと頷きながら答える。

 足早に男性の目の前までやって来たフィクスの目は、見たことがないくらいに鋭かった。


 よほど恐ろしかったのだろう。男性は産まれたての子鹿のように足をプルプルと震わせてから、その場にぺたりと座り込んだ。


「ミストレイ侯爵令息、今回の件は正式に問題にさせてもらう。酒に酔っていようが、冗談だろうが、最低限の節度を守れない者は、社交界に出て来るな」

「ヒ、ヒィィィ……!! 申し訳ありません……!!」


 その後、男性はふらついてバルコニーの入り口付近の壁や、パーティー参加者たちにぶつかりながら、会場から姿を消していった。


 セレーナはというと、男性が居なくなったことと、フィクスが来てくれたことへの安堵で、ホッと胸を撫で下ろしていたのだけれど、それはほんの僅かな時間であった。


「セレーナ、なんで迫られてたの? セレーナなら、素手でもあの程度の男なら対処できたはずでしょ」


 夜風が肌を刺す中、フィクスに力強く抱き締められたからだ。


「……っ、フィクス様、少々落ち着いてください」

「自分の婚約者が他の男にキスされそうになってるところを見て、どうやって落ち着けっていうのさ」

「そ、それは……」


 先程までの怒りとは違う、どこか焦っているような、悲しいような、こちらの胸を打つような、そんなフィクスの声。

 言葉は責めているように聞こえるのに、声色は心配しているのだと言わんばかりで、セレーナは反応に困ってしまう。


(私に対して、そんなに心配してくださらなくても良いのに……。けれど、フィクス様はお優しいから)


 ウェリンドット家の思惑から助けてくれた時もそう。もしかしたらフィクスは、困っている人を放っておけない質なのかもそれない。


「申し訳ありません……。その、物理的な方法で対処することは可能だったのですが、フィクス様に迷惑をかけてしまうかもと思い、少し躊躇ってしまいました」


 そんな優しいフィクスに心配をかけてばかりではいけないからと、セレーナは大人しく抱き締められたまま、思っていたことは正直に話した。


 すると、フィクスはハァと溜息を漏らす。

 それから、ゆっくりと腕の拘束を解いたフィクスは、セレーナの肩に顎をちょんと乗せてまま、話し始めた。


「……まったく、そんなことだろうとは思ったけど、馬鹿だね、セレーナは。婚約者が居る相手に迫る奴の方がどう考えたって悪いんだから、セレーナが手を出しても正当防衛なのに」


(確かに)


 改めて考えれば、先程の状況において、セレーナに非はない。


「ほんと、心配した……。確認だけど、キスされてないよね?」

「はい」

「良かった……。もしも今後迫られたり、危ない目に遭ったりしたら、どんな方法を使ってでも良いから回避して。俺の迷惑なんて考えなくても良いから」


 首筋にかかるフィクスの吐息が熱い。

 先程の男性から感じられる吐息は非常に気持ち悪かったのに、不思議とフィクスには嫌悪感を覚えなかった。


「は、はい。善処します」

「……うん。セレーナが他の男にキスなんてされたら、俺は嫉妬でそいつを殺しちゃうかもしれないから、ほんとに頼むね」

「……フィクス様、冗談とはいえ、さすがにそれは言い過ぎです」

「…………」


(あれ?)


 バルコニーには一瞬の静寂が訪れる。

 どうしたのだろうかとセレーナは目をパチパチと瞬かせたると、それを破ったのは、フィクスの切なげな声だった。


「──冗談なんかじゃ、ない」

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