第8話

 

 声が上擦り、これほどまでに目を丸くするフィクスのことを、今までに見たことがあっただろうか。


(……いや、ないはず)


 いつも動揺させられるのはこちらだった。過去に、フィクスの言動に狼狽した自身の姿を思い出したセレーナは、そう自問自答を済ませる。


「……まずはどういうことか、説明してくれる?」


 疑問の表情を浮かべたまま、着席した状態で前のめりになって問いかけてくるフィクスに、セレーナはコクリと頷いてから話し始めた。


「この国で大きな権力を持つ宰相殿は、第三王子である殿下にも、早く婚姻を結んでほしいと縁談を勧めてくる……。殿下は、正直それが煩わしい──という解釈であっていますでしょうか?」


 マクフォーレン王国の宰相は、この国で筆頭公爵家、当主が勤めている。つまり、宰相の権力は並の貴族の権力とは訳が違う。

 幸いなことに宰相はウェリンドット侯爵のように反王派ではないので、その権力を国が荒れる方向に使わないのは救いなのだけれど、いかんせん頭が硬かった。


 第一王子が隣国の姫と、第二王子が国内の有力貴族の令嬢と結婚すると、その次は第三王子のフィクスもさっさと結婚するべきだろうと考えているらしいのだ。


「まあ、はっきり言うとそうだね。年の離れた兄上たちは既に結婚し、どちらにも子が生まれている。それも、男児が二人ずつ。しかも、ウェリンドット侯爵が拘束されれば、この国の反王派はしばらくは大人しくなるだろうし、外国との関係はうまくいっていて、平和そのもの。……そりゃあ、国の地盤を固めるとか、他国との繋がりを強固とするために俺に結婚しろというのは分かるけどね……。一刻一秒を争う事態ではないかな」


 こちらをじっと見つめてそう話すフィクスに、セレーナは「なるほど」と返した。


「で、これがどうセレーナが俺の盾になることに繋がるの? そろそも盾ってなに?」


 核心を突いてきたフィクスに対し、セレーナは勢いよくソファから立ち上がる。

 そのままローテーブルの向かい側のソファに座るフィクスの近くまで行くと、スッと床に片膝をついた。


「盾というのは、たとえのようなものでして……。はっきり申し上げますと──」


 その姿勢でフィクスを見上げれば、彼は美しい碧い瞳の奥が、ゆらりと揺れた気がした。



「私を殿下の婚約者にしていただけませんか?」

「……!」



 いつも通りの声色で告げたセレーナに対して、フィクスは瞠目して、ピシャリと固まっている。よほど驚いているようだ。

 フィクスは頭の回転が速いので、この話の流れですべてを察してくれるかもしれないと思っていたのだが、いくらなんでも説明が足りなかったらしい。


「殿下、婚約者と言っても、一時的なものですので、誤解なさらず。……仮初の婚約者、とでも言いましょうか」

「かり、そめ……?」


 仮初の婚約者であると言い直すと、固まっていたフィクスは復唱するように呟いた。

 よくよく見れば、フィクスの頬はほんのりと色付いているような気もする。


(怒っていらっしゃる? いや、そうは見えないけれど……)


 とりあえず話を進めるのが先だと判断したセレーナは、フィクスの目をじっと見つめながら、淡々とした口調で説明を始めた。


「そうです。殿下に好きな方ができる、もしくは、どなたかと結婚しようと思えるまでの間、私を仮初の婚約者として傍に置いていただきたいのです。……こんな私で良ければ、縁談避けの盾としてお使いください」


 これこそが、セレーナがフィクスの恩に報いるために思いついた方法だった。


(うん。我ながら、なかなか良い手なのでは……?)


 ティアライズ家は伯爵家なので、王家の人間の婚約者になるにはやや家格が足りない。しかし、ティアライズ家は代々騎士として王家を守ってきた実績があり、王家からの信頼が厚い。


(だから、宰相殿もそれほど大きく抗議はなさらないはず)


 国王がフィクスの結婚相手に口を出すつもりがないことは有名な話であり、その点も問題はなさそうだ。


「……殿下、いかがでしょうか……?」


 恩を返したいとは言え、この作戦がフィクスにとって迷惑ならば、セレーナはもちろん引くつもりだ。


 ただ、もし自分が少しでもフィクスの役に立てるのならばと考えた結果、提案せずにはいられなかった。


「……なるほどね。セレーナの言い分は理解したけど、まさかここまで鈍感だとは思わなかった」


 額に手をやりながら、嘆くようにしてフィクスは、その後しばらく考え込んだ様子だった。


(もしや……仮初だろうと、私如きが殿下の婚約者に名乗りを上げたことを不快に感じていらっしゃるのでは……)


 フィクスに恩を返すどころか、それでは本末転倒だ。

 セレーナは「申し訳ありません」と謝罪をしながら、素早く頭を下げた。


「セレーナ、怒ってないよ。こっちの話だから気にしないで良い。顔を上げて」

「は、はい……!」


 指示に従って顔を上げれば、真剣な顔のフィクスが目に入る。


 アーモンドのような形をした彼の碧い目が薄っすらと細められ、何を考えているのかはさっぱり分からない。

 けれど、セレーナは何故だか、一瞬身構えてしまう。


「仮初の婚約者ね……。うん、このままよりは、良いかな」


 そして、フィクスが含みのある声色でそう呟いた直後のことだった。


「えっ」


 前のめりになったフィクスの手が伸びてきて、その手がセレーナの頬をツゥ……となぞる。

 美しい顔に似合わず、フィクスの指先からは剣を握るもの独特の皮膚の硬さを感じた。


「……っ、殿下、お戯れは──」


 いくら密室だからといって、こんなふうに触れられる意味はないはずだ。

 だからセレーナはフィクスの手を優しく払いのけようと、自身の手に力を込めた、その時──。


「セレーナ。仮初と言っても、婚約者になるならこれくらいは許容してくれなきゃ」

「……! そ、それは……そうかも、しれませんが」


 楽しそうに口元に弧を描いているフィクス。

 声もどこか弾んでいるように感じられるが、フィクスが言っていることは、今回ばかりは正しいのだろう。

 通常の婚約者同士ならば、多少のスキンシップはあってもおかしくないからと、セレーナは手から力を解いた。


「婚約者なのに、指一本も触れさせてくれないなんて、周りからは怪しまれるんじゃないかなぁ。そうなったら仮初の婚約者として、失格だよね?」

「お、仰るとおりです……」

「セレーナは俺に対して恩を返したいんでしょう? それなら、しっかりと婚約者としての役目を果たしてくれるよね?」


 そう言って、今度はスリスリと頬を撫でてくる。

 意地悪そうな声色とは裏腹に、フィクスの手付きは酷く優しい。


「……っ、はい」


 男性に触れられることにほぼ免疫がないセレーナは、あまりの恥ずかしさで、上手い返しが見つからずに、同意を示すだけで精一杯だ。


 そんなセレーナに、フィクスは一旦彼女の頬から手を離して、ゆっくり立ち上がる。 

 そして、セレーナのすぐ近くで自身も床に片膝をつくと、フィクスはセレーナの耳元で囁いた。


「はは。さすがセレーナは格好良いね。……それと、可愛い」

「〜〜っ」


 ──仮初の婚約者になるならば、こんなふうに甘い言葉を囁かれることにも、触れられることにも慣れなければならない。

 そこまで考えが至っていなかったセレーナは、少しだけ未来に不安を覚えた。


(私、これから大丈夫……!?)


 けれど、フィクスの恩義に報いるためならば、自身の羞恥心など些細なことだ。


(……うん、頑張ろう。殿下の仮初の婚約者として、しっかり努めなければ)


 セレーナは、至近距離に居るフィクスの顔をじっと見つめた。


「殿下、不束者ではございますが、よろしくお願い致します」

「こちらこそよろしく。……仮初の婚約者だからって容赦しないから、頑張ってね」

「は、はい……! お任せください……!」


 真っ赤な顔で意気込みセレーナに、フィクスは柔らかな笑みを浮かべたのだった。

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