ダイヤルをぐるっと回すと、画面にノイズがほとばしる。映画だったらもっと格好よく世界を移動するんだろうし、SFチックにもっとオプションがバンバンと付くんだろうに、状況はとことんシュールなままだった。

 そう思いつつセットされている観測機を眺めていたら、準備を整えた小泉は言った。


「ノイズが消える前に、この画面に顔を突っ込めば、平行世界に到達する。帰るときもダイヤルで世界を合わせて、ノイズが消える前に画面を突っ込めばいいんだ」

「……本当にシュールな方法で平行世界って渡り歩けるんだな」

「元々、平行世界を観測するためのものであり、世界を渡り歩くためにはできてないからな、これは」


 ん? 一瞬だけ小骨が引っかかったような違和感を覚えたけれど、すぐに消えた。

 それよりも海鳴のほうが大切だ。僕は勇気を出して、画面に顔を突っ込んだ。これで勢いよく画面とチューすることになってしまったら最悪だ。一瞬そう思ったものの、顔は空を切っただけで、すぐにつんのめってしまった。

 代わりに体全体がつんのめって、そのまま転がる。


「いでっ……!」


 日で熱々になったアスファルトに転がり、その熱さで飛び上がりながら僕は立ち上がった。

 ……今、いったい何月何日の、何時何分だ? 僕はとっさにスマホを出したものの、カレンダー機能は僕が元いた世界のものなんだから、合っているわけがないと気付いてしまい込む。

 何度も何度も夢で見たあの日のことを思い返す。

 あれは、合宿から帰る日。合宿から家に帰宅途中で、殺されたんだ……。そこまで考えて、僕は首を振る。

 ここははじまりの日なんだから、まだ僕は殺されていない。でも、海鳴が僕を殺すことを決めないといけない出来事が起こる日なんだ。僕は必死で学校まで走った。

 日差しがぎらついている。本当だったらもっと蝉がけたたましく鳴いているはずなのに、今はなりを潜めているのもまた、何度も何度も夢で予習したとおりだった。まるで夢の中に迷い込んだみたいで吐き気がしてくるけれど、これがはじまりなんだからと、吐き気をぐっとこらえる。

 お盆中のせいで、町全体に人の気配がない。皆、遊びに行ってしまったか、お盆だからと田舎に里帰りしてしまったかのどちらかだろう。

 アスファルトの照り返しで、より一層暑いと思っている中、僕は学校へと辿り着いた。

 僕は校門から学校に入り、駐車場を覗きに行く。学校のバスはここで停まって、僕たちを降ろして去っていくんだけれど、まだ駐車場は空っぽで、かろうじてお盆休みでも仕事に来ている用務員さんたちの車があるだけだった。

 そのまま僕は校舎に入る。うちの学校はたいして強くはない部活しかないせいか、校庭は閑散としていて人っ子ひとりいやしない。当然、お盆中でも汗水垂らして練習している声は聞こえないし、夏場だっていうのに学校のプールを公開して誰かが泳いでいるというラッキーな展開だって起こってはいない。

 そのやる気のなさに感謝しつつ、僕はカンカンと足音を立てて、階段を昇っていく。

 三階まで昇って、生物室のドアに手をかけた。……本当だったら締まっているはずのドアには、鍵がかかっていなかった。

 そのまま力任せにドアを開けると、そこではカシャンカシャンと音を立てていることに気が付いた。


「来たか、入江くん」


 こちらに顔を上げることもなく、作業に没頭しているのは、紛れもなく小泉の姿だった。

 僕は、なにもいうことができず、ぎゅっと握り拳をつくって、小泉を睨んだ。


「……どうして、合宿に行ってないんだ? 今日は天文部の」


 こちらが話しかけてもなお、小泉は手を止めることもなければ、こちらに顔を向けることもない。ただ、僕の問いかけに口だけを動かした。


「僕は行っていないよ。それとも、平行世界の僕は、合宿に参加する意味でも見出したのかい?」


 僕の知っている中で、小泉は変人の極みではあるけれど、人でなしではなかったように思う。でも、この世界の小泉は違う。僕に対して興味をかけらも見出さない、片手間にしゃべる様がムカついた。

 手元のドライバーを操っている先にあるのは、僕が昨日小泉と一緒に組み立てるのに没頭していた観測機に他ならない。

 パタン、とモニター部分を取り付けて、一応の完成をしたところで、ようやくこちらに振り返った。


「僕は、他の世界が知りたかった。平行世界についての考察はいくらでもあったけれど、それはフィクションの域を出ていなかった。世界はもっと変革するべきだという希望で目が濁り、ひとつ判断を誤ったところで、たいして世界は変わらないということを立証するのは困難を極めていたからね」

「……それで、観測機をつくったんだな?」

「僕が死ぬことにより、君は繰り返し殺されることになった。海鳴くんには本当に感謝している。『僕を好き』と思い込んでくれたことにより、彼女は苦しみながらもずっと平行世界を渡り歩いてくれたんだからね。僕も死に甲斐があるというものだ。他の世界の僕が、それをずっと観測できるようになったんだから」


 そう言って、はじめて小泉はにこりと笑った。

 本当に……本当に、くだらない。

 海鳴は、誰かわからない奴を、精一杯好きになっただけじゃないか。

 あいつのことは嫌いだ。誰かにたいして笑っていたり、ポニーテールだったり、暴力女だったり。……他のやつにするみたいに、こっちを見ても泣いたり無表情だったり怒ったりするだけでちっとも笑わなかったり。全然思い通りにならない奴だ。でも。

 あいつが泣くのを見ていると、むしゃくしゃしてくるんだよ。なんだよ、あいつを僕以外が泣かせていいわけないだろと。泣かせた元凶を殴りたくって、仕方がなくなるんだよ。

 そして今。その元凶は目の前にいるわけだ。僕は生物室の椅子をひとつ、ひょいと持ち上げる。椅子ひとつくらいだったら、ひ弱な僕でも持ち上げることができる。それを大きく振り下ろしていた。……小泉に向かって。

 小泉はまるで、想定範囲だと言わんばかりに、ニヤリと笑った。それが無性に腹が立って、僕は何度も何度も椅子を振り下ろしていた。

 最初はただ、小泉が床に転がるだけだったのに、椅子を振り下ろせば振り下ろすほど、聞こえちゃいけない音が連なってくるのがわかる。

 一回、二回、三回、四回……。

 小泉のメガネが吹き飛び、何回目かで椅子を振り下ろすのに巻き込んでグシャリとフレームが歪んだ。メガネはガラスだったのか、何回目かでグシャグシャに割れて飛び散った。

 粘ついた匂いに、自分はなにをやっているんだ。椅子を振り下ろすごとに、だんだんと冷静になっていき、ピクリとも動かなくなった小泉と目が合って、ようやく感情が底冷えしたことに気が付いた。

 そして、ドアが薄く開いたことに気が付いた。ドアが開いた瞬間、ポニーテールが揺れる。

 こちらを大きく見開いているのは、海鳴だった。

 床はもう、血なのかそれ以外なのかわからない液体でびしゃびしゃになってしまい、そこで赤黒くなった小泉が倒れている。僕は椅子をようやく床に放り投げた。

 椅子が倒れる音はあまりに現実味がなく遠くに感じるのに、海鳴の驚愕の表情だけは、こんなに近くに感じる。

 僕は息を吸って、吐いた。


「……信じないかもしれないけれど。僕はずっと君を好きだった」


 その言葉が、ようやく僕の中でストンと理解できた。

 こんな感情は、誰もが認められないと思う感情だ。許されちゃ絶対にいけない気持ちだ。

 平行世界の僕は、何度も何度も殺され続けて、それを僕はずっと夢として繰り返し見続けていた。

 ポニーテールで、ダガーナイフを振り回す暴力女。どちらも大嫌いだと、そう自分の意識に刷り込んで。自分を殺しに来てくれる女の子にもう一度会いたいなんてずっと思っていたなんて、本当にどうかしている。

 海鳴は混乱したまま、僕の顔を見て、死んだ小泉を見ている。

 小泉はいったいどこまで僕や海鳴の感情を弄んだのかはわからない。

 僕の知っている小泉が仕組んだのか、この世界の小泉が平行世界の観測のために細工をしたのか、それとも全ての世界の小泉が結託していたのか。でも、そんなことはどっちでもいい。

 そろそろ観測機の電源をセットしないと、戻れなくなるな。いつもこの頃になったら僕は殺されていたけれど、今は殺されていない。……今だけは、僕が全然知らない時間なんだ。

 僕は観測機のスイッチをした。ノイズのブブブという音と一緒に、ダイヤルを回して元の世界を確認する。

 ずっと立ち尽くしていた海鳴は、なにかを言おうとしているみたいだけれど、口元を抑えて、もごもごさせているばかりだ。きっと、今一番言わないといけない言葉を見失ってしまって、必死で探しているのかもしれない。

 恨み言かもしれない。あいつの好きな小泉を殺してしまったから。小泉は頭のおかしい奴だけれど、きっと海鳴はそんなことはどっちでもよかったんだろう。

 ……だって、池谷だって海鳴だって、イケメンが好きなんだから。


「海鳴、僕を殺しに来い。そうしたら、もう一度会える」


 小泉を身勝手な奴だと言ったが、訂正する。

 一番身勝手なのは、僕だ。

 イケメン以外が許されないようなことを言い逃げするなんて、海鳴をいったいなんだと思っているんだ。

 これから先、海鳴は記憶をすり減らして、感情をすり潰して、もう自分が帰る場所がどこだったのか、好きな人はいったい誰だったのかすらもわからなくなって、もしかしたら廃人になってしまうのかもしれない。

 この感情はきっと許されないものだろう。

 彼女を苦しめる結果になるって知っていても、これが呪いのはじまりだとわかっていても、それを伝えることしか、僕にはできなかった。


「僕を殺しに来い」


 モニターにノイズが満ちる。消える前にそこに飛び込まないと。

 僕は最後に海鳴と目を合わせた。彼女は完全に硬直して、こちらを凝視してしまっている。

 僕に向けてきた暴力的なものを微塵にも感じない、ごくごく普通の女の子に見えた。

 まだ彼女は、僕が好きになったあいつじゃないんだ。

 その寂しさを胸に、僕はモニターに飛び込んだ。体中がノイズになったような違和感を覚えながら、そのまま元の世界へと帰る。

 あいつは、僕のことを恨んでもいい。それこそ、殺してくれてもかまわない。

 ……小泉の言ったとおりだ。

 恋は不条理すぎる。こんな無茶苦茶な理屈がとおって、叶っていい感情なんかじゃない。それでも、その無茶苦茶な感情を僕に向けてほしいなんて、本当にどうかしている。

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