雨がいよいよ激しくなり、窓を叩きつける音も、屋根をだんだんと叩く音も、バーベキューなり謎すぎるレクリエーションなりでくたびれた僕を寝かしつける気はないらしい。

 小泉はあのよくわからないタイムマシンを組み立てるために、共同フロアに出て戻ってこない。多分僕がすぐ不機嫌になるから気を利かせてくれたんだろうけれど、僕はそっちのほうが気がかりだった。

 今日の小泉の話を聞いて、海鳴が血迷って僕に襲撃をかけてこないか。それともこれも僕の被害妄想なのか。そのことが頭を渦巻いて、上手く寝付くことができずにいたのだ。

 冷房は効いているはずなのに、布団がぺたんと張り付いて、何度寝返りを打って涼しいところに移動しても、体温がずっと体中に付きまとっている感覚が残る。それでますます寝苦しくなって眠れなくなっているところで、トントン。と控えめにドアが鳴った。

 頭は冴えてしまっているけれど、体が重い。

 誰だ、こんな時間にやってくるなんて。どうかしていると思って最初は無視して、寝返りを打っていたけれど、ドアの音は鳴りやまない。最初はトントンだったのに、だんだん音は、ドンドン、ドンドンと大きくなっていく。

 ……なんなんだよ、この常識知らずが。暇なんだったら、自分の部屋でテレビでも見てたらいいだろうが。

 それで僕は蒲団を頭からすっぽりとかぶって、どうにか非常識なドアの鳴る音をやり過ごそうとしたけれど。


「ごめん……ねえ、起きて」


 鼻にかかった甲高い声で、眠さに天秤を傾けていた意識が浮上した。

 今は小泉は留守で、わざわざ僕を起こしにこんな時間にやってくるのは……池谷か、海鳴のどちらかだ。

 池谷も小泉に対していろいろこじらせているが、夜這いを仕掛けるような度胸はないと思うし、そもそも小泉に声をかけたいんだったら女子部屋は共同フロアを挟んだ先にあるんだ。そこで小泉に声をかけているだろう。

 だとしたら、ここにいるのは海鳴だ。

 ……ひとりになったのを確信して、僕を刺しに来たんだとしたら?

 それにぞっとする。僕は女子がなにを考えているのかなんてちっともわからないし、興味もないけれど、思い込みだけで殺されてもこっちだって困るし嫌だ。

 まだドンドン、とドアが叩かれるのに、僕は起き上がってダンッと叩き返す。

 ……殺されるのなんて、まっぴらごめんだ。

 僕は枕元に置いてあったスマホを手繰り寄せて、小泉にメッセージを送る。


【ごめん、中トイレの紙が切れた。他のトイレからトイレットペーパー持ってきてくれ】


 トイレのトイレットペーパーを僕の鞄の中に無理矢理隠している間に、返事が来た。


【ちょっと待ってくれ。探してくる】

【早くしてくれ】


 そうメッセージを打っている間に、ドアを叩く音が激しくなってくる。


「お願い……話をしよう、入江くん」


 か細い声を上げる、海鳴の声に僕は歯を食いしばった。

 ……そうやって油断して開けたところをブスリとする気か。そう何度も何度もお前の都合のいいように話が進むわけないだろ。僕はドアに体重をかけて、音が鳴らないようにする。ときおりドアノブをガチャガチャと回す音がするのが煩わしい。本当になんなんだよ。僕をノイローゼにでもしたいのか。

 やがて、ドアを叩く音から、カリカリ、カリカリと引っ掻く音に変わる。……なんだ? 僕は驚いてドアに耳をくっつけてそばだてる。……海鳴が、ドアを引っ掻いているんだ。


「おい……痛いんじゃないか?」

「……痛いってなに?」

「いや、普通に爪でドアを引っ掻いたら、痛いだろ。それやめろよ」


 僕がそう言うと、ようやくドアを引っ掻く音が止まった。

 ……どういうことだ? 僕はなにかあったらすぐにドアを閉められるように、ドアノブに力を込めて握りしめたあと、恐る恐るドアを開いた。

 そこには、海鳴が目を濡らして立ち尽くしていた。まるでずっと泣いていたみたいな顔に、思わず唖然とする。

 ……なんで、お前が泣いているんだよ。思わずドアノブの力が緩みそうになったのにはっとして、僕は警戒心を込めたまま、海鳴の手元を確認する。

 ペタンと汗で貼りついて、丸いラインが露わになっている薄いTシャツ。下からキャミソールが透けているように見えるけれど、廊下の非常灯の灯りだけだったら色は確認できない。下はジャージで、とてもじゃないけれどダガーナイフは隠し持てそうもない。

 普段は見るのも癪なポニーテールは、風呂に入ったせいか解かれて、長い髪は背中を覆っていた。


「……なんで、こんな時間に僕のところに来て、泣いてんだよ。意味がわかんないんだけど」


 僕の吐き出す毒に、海鳴はびくん、と肩を跳ねさせる。

 ……なんなんだ、こいつは。普段の快活さがなりを潜め、僕の前でだけ見せるような無機質な無表情ですらなく、うろたえたように、肩を縮こませた。

 本当に。本当に普通の女子みたいじゃないか、これじゃあ。


「ごめんなさい……ただ、わたしはあなたを殺さないと駄目なのに……でも、小泉くんの話を聞いてたら、ぐちゃぐちゃになってきて」

「なにがそんなにぐちゃぐちゃなんだよ」


 とうとう海鳴は廊下に座り込んでしまった。そのまま嗚咽を漏らす。なんなんだよ。やめろよ。これじゃあ、僕が悪者みたいじゃないか。思わず溜息が漏れたのも、仕方のない話だ。


「……向こうの共同スペースは、小泉がいるから。話があるんだったら、自販機の前でだったら聞くけど」

「……うん」

「池谷は?」

「……池谷さんはいい子だから、心配かけたくなくって、誤魔化して部屋に残ってもらった。多分もう寝てる」


 池谷はお節介な性格だから、きっと海鳴がいきなり脈絡なく泣き出したのを見て、うろたえてるだろうに。きっと布団に入っても、寝付けず勝手に海鳴を心配している。

 本当になんなんだ。自分の好きな奴のために僕を殺しに来たくせに、いきなり情緒不安定になって泣き出して周りを振り回すって。

 悲劇のヒロインなのか殺戮系ヒロインなのか、どっちかはっきりして欲しい。

 僕は財布を鞄から取り出すと、そのままうずくまっている海鳴を引きずって自販機まで出て行った。海鳴の手は、ひどく冷たくて汗ばんでいた。

 非常灯で照らされて青白い下で、自販機にお金を入れる。


「なに飲むの」


 紙パックの小さいドリンクは、緑茶に紅茶から、オレンジジュースリンゴジュース、ココアやコーヒーまで、比較的バリエーション豊かだ。

 海鳴はむずむずした顔をしつつ、蚊の鳴くような声で「……ココア」と言った。

 僕はココアのボタンを押すと、黙って海鳴に押し付ける。僕は麦茶のボタンを押すと、黙ってそれにストローを差してチューチューと吸いはじめた。


「……意味がわからないんだけど、人が寝ているところに押しかけて叩き起こした挙句、泣かれる意味が」


 僕はぼそりと言う。我ながら女々しい性格をしていると思っているが、海鳴が僕をどうしたいのか、こっちだってさっぱりわからないんだから仕方がない。

 僕を殺したいのか、殺したくないのか。

 自分の都合のいいようにやり直したいのか、やり直したくないのか。

 そもそもそれすらも思い込みに過ぎないのか。

 ……僕だって、夢で何度も何度も見たのは、殺される直前のことばかりで、その細かい前後のことなんてちっとも知らないんだから、こっちだって海鳴との距離の取り方に困惑している。

 僕らは、殺される側と殺す側って関係性がなかったら、せいぜい同じクラスで同じ部活の、赤の他人なんだ。いくら同じコミュニティーに属していても、キャラが根暗と根明だったら話だって合わないし、長く一緒にはいられない。

 僕がチューチュー麦茶を吸っている間に、海鳴はココアの紙パックに恐る恐るストローを突き刺した。プシュッと音を立てて穴が開いたそれをひと口含んでから、ぽつりぽつりと言葉を吐き出した。


「……わたし、ずっと入江くん殺さないとって、思ってた。ううん、今もそう思ってるし、思いたいんだと……思う」

「……そう」


 何度も言われたことだ。今は凶器を持ってないから逃げないだけで、もし泣いていなかったら、そこに嘘がないって思わなかったら、今にでもすぐ逃げ出して締め出している。さっきまで締め出していたんだし。

 海鳴はチゥ……とストローの音を立てると、またぽつりと吐き出す。


「でも……今までやってきたことが思い込みかもしれないって思っても……納得できなくって……小泉くんの考えがおかしいとか、そういうのじゃないんだけど……」

「小泉は、占いイコール思い込みだって言ってただけだろ。そんなの気にしなくっても」

「気になるよ……! ……気になる……」


 いったい、小泉の話のどこにそこまで引っかかって泣いているんだ?

 占いが統計学から上位だけを拾った刷り込みだっていう話、占い信奉者じゃない限りは誰だって思いつく。

 僕は小泉が論説していたことを思い返すけれど、海鳴が泣き出した挙句に、被害者のはずの僕のところに駆け込んできた理由がわからず、ただ困惑したまま、紙パックを掌で弄んでいる海鳴を眺めた。

 まつ毛が濡れていて、ただでさえ美人な海鳴の美人度が跳ね上がっているような気がする。そうだ、海鳴は可愛いし、スタイルだってグラビアモデル並なんだ。本当だったら僕の隣になんかいるはずのない存在だ。

 そんな存在と一緒にいるのに、ときめかない。童貞にも関わらずムラムラすることもなく、ただイライラしている僕はどうかしている。そう、傍観者みたいなことを思う。傍観者どころか、一連の流れの中心人物のはずなのに。

 それにしても。海鳴はわざわざ僕のところに押しかけてきて、いったいなにがしたいんだろう。「頼むから死んでくれ」って言われたらそのまま逃げ出すだけなんだけれど、そんな感じでもないし、さっきからしている会話だって、会話が成立しているような、していないような。

 こういう場合、どう返事するのがいいんだよ。喉を潤すはずの麦茶が、返ってつっかえる感覚を覚えるのにムカムカしつつ、僕は海鳴に聞いてみる。


「こういうのって、池谷にでも泣きつけばいいだろ。あいつはお人よしなんだから、僕なんかよりもずっと話を聞いてくれただろ」

「……池谷さんは、いい子だから。あの子はわたしなんかを気にしちゃ駄目だよ」


 その物言いに、思わず喉を詰まらせる。スタイルも性格も運動神経も、どう考えたってハイスペックが過ぎる海鳴から、自分を卑下するような言動が飛び出すなんて、思いもしなかった。

 思わずつっこみを入れたいのをこらえて、僕は重ねて「どうして?」と聞いてみる。


「……わたしの手は、汚れているもの。ずっと綺麗な子が、わたしなんかに構っちゃ駄目だよ。きっと怖がっちゃう……」

「汚れてるって……」

「……手の感覚が、忘れられないの」


 人を殺すときの感覚なんて、僕には想像することしかできない。被害者として転がされた夢は何度も何度も繰り返し見たけれど、加害者として誰かを殺した覚えは、繰り返した夢の中でもない。

 前に小泉が今日みたいにレクリエーションで演説していたことがあったけれど。

 それによると、人は一度殺しをしてしまったら、殺してはいけないというトリガーが引き抜かれて、いつだって人を殺しても罪悪感がなくなってしまうらしい。万引きやスリも、やればやるほど罪悪感というものが消えていくと。

 いったい何回海鳴が僕を殺したのかはわからないけれど。それでもなお罪悪感があるって、いったいどういうことなんだ?

 そこで「気にするな」なんて軽く言えない。僕はいったい何年悪夢でうなされてきたと思っているんだ。「気のせいだ」っていうのも突き放し過ぎている。

 イケメンだったら、頭のひとつでも撫でてやればそれで落ち着くのかもしれないが、残念ながら僕はそんなんじゃない。背中をさするのも同様に却下だ。イケメンじゃない僕がイケメンの真似をしたところで、セクハラで訴えられることはあっても、絶対に感謝なんてされないしトラウマになったと非難されるのが関の山だ。

 仕方がなく、僕は財布の中身を確認してから、もう一度紙パックの自販機に小銭を入れた。夏休みだからと、今年は会いに行けないばあちゃんからお小遣いはたくさん送られてきていた。

 今度は僕と同じく麦茶を下から取り出すと、それを無理矢理海鳴に押し付けた。それに海鳴は涙をぽたぽたこぼしながら、僕を見てくる。


「……そんなに人を殺すのが嫌なら、やめられないのかよ。……僕を殺すの、諦めちゃえばいいだろうが……僕だって、死にたくないし」


 そう言うと、海鳴はぷるぷると首を振った。


「そんなことしたら……わたしはいったい、なんのために繰り返してるの……?」

「……なあ、それなんだけど。お前はいったい、僕のせいで誰が死ぬって思ってるんだよ。僕は人殺しなんてしたくないし、すき好んで犯罪者になんてなりたくない。それをしないって約束するんじゃ、駄目なのかよ?」


 ずっと聞いてみたかったことが、ぽろりと出てしまった。

 どうせ、小泉の名前が出てくるんだろう。あれだけ熱っぽい目で見ていたら、その手のことに疎い僕にだってわかる。でも。

 僕が問いかけた途端に、海鳴の嗚咽は止まった。

 ……これは聞いちゃ駄目なことだったのか? それとも、それを答えてしまったら僕が実行するとでも思ったのか? 僕は止まってしまった海鳴を、恐る恐る見た。


「……わかんない」

「おい……わかんないって、そんなのないだろ」

「……わからない、わたし、いったい何人殺したんだろう、わたし、何回繰り返したんだろう。わかんない、わかんないわかんない苦しいわかんないわかんない苦しいわかんないわかんない苦しい……………」

「お、おい、海鳴、海鳴……!?」

「わかんないわかんないわかんない苦しい助けてわかんないわかんないわかんない苦しい助けてわかんないわかんないわかんない苦しい助けてわかんないわかんない」

「おい、海鳴ったら……!」


 海鳴は天井を見上げて、うわ事のように同じ言葉を繰り返すけれど、その天井を見上げる瞳はおかしい。焦点を結んでおらず、言葉もだんだん支離滅裂になっていく。

 なんだよ、どうして壊れたんだよ、おい、本当に意味がわかんねえよ。

 本当だったら、海鳴を捨て置いて、そのまま逃げだしたいという気分がむずむずと沸いてくるけれど、これを放置しておくのも情がない気がする。

 僕は恐る恐る、海鳴の肩を叩こうとした、そのとき。今度はいきなり海鳴の肩がガクン、と落ちてしまった。


「……海鳴……?」


 恐々と肩を叩いてみて、海鳴を眺める。一瞬息をしてないんじゃ、気絶したんじゃとひやひやしたけれど、しばらくすると、あの大きな胸を上下させてきた。海鳴は自販機にもたれかかるように寝息を立てて眠ってしまったことに気付き、今度は僕のほうががっくりと肩を落としてしまう。

 なんなんだ、人騒がせな。こんな肝心な場面で寝落ちてしまうなんて、どんな神経しているんだよ。

 でもなあ……僕はどうにか海鳴を担ごうとするものの、元々チビでもやしなんだ。やたらとボンキュッボンな体型をしている海鳴は、筋肉がついていてはっきり言って重い。

 どうにか海鳴の腕を肩に引っかける。大きな胸が背中に当たるけれど、胸の感触にどぎまぎするよりも先に、ぶらんとぶら下がった脚やら腕やらが重く感じてしまう。おまけに僕のほうが小さいから、海鳴の足を引きずらないことには、連れ帰ることだってできない。

 これがイケメンだったら、姫抱っことか格好いいことできるんだろうけれど、残念ながら僕には無理だ。


「……置いていってやろうか……」


 僕は鼻息荒く、どうにか海鳴を引きずって、女子部屋のドアを鳴らす。

 多分池谷は起きていると思うけれど。ここの施設は、うちの天文部以外にも、他校の部活合宿が入っていたと思うから、うるさいって苦情言われないといいけど。

 僕はそう思いながらハラハラしていたら、すぐに女子部屋から池谷が出てきてくれた。


「入江くん……どうかしたの?」

「お届けに上がりました」


 僕はどうにかして、海鳴を降ろしたくてしょうがない。僕が顔を真っ赤にして海鳴を連れ帰って来たのに、池谷は目を丸く見開いて僕たちを見比べた。


「あれ、海鳴さん寝ちゃったの?」

「しゃべってたら疲れたらしくって、そのままコテンと……海鳴、無茶苦茶重いんだけど、これ布団まで引きずらないと駄目だろ」


 重くてそのままずるずると引きずって、池谷が敷いてくれた布団の上に海鳴を転がす。海鳴の体重がなくなった途端に、僕は座り込んでぜいぜいと体中で息をした。

 池谷は不思議そうな顔で、僕と海鳴を交互に見つめる。


「……なんか知らないけど、お疲れ様」

「おう……」


 池谷は海鳴に掛け布団をかけてあげ、軽くぽんぽんと海鳴の体を叩く。その様は母親みたいだ。

眠ってしまっている海鳴はというと、子供のようにあどけない顔とはお世辞にでも言えなかった。眉間にくっきりと皺を寄せて、喉の奥から唸り声を上げている。

 そんな海鳴に、池谷は目を細めて額を撫でていた。


「海鳴さんね、小泉くんの話のあと、すぐに寝ちゃったんだよ。でもね」

「おう」


 池谷は海鳴を心配そうに見下ろしていた。

 こいつは、恋敵のはずなのに、どうしても海鳴のことを見捨てることができないらしい。


「……ずっとね、うなされてたの。悩んでるみたいだけれど、私もどう聞いたらいいのかわかんなくって。もし入江くんのほうが話を聞いてあげられるんだったら、聞いてあげてね」


 それに僕はどう答えれば正解なのかがわからず、代わりに出てきたのは「おやすみ」という打ち切るための言葉だった。

 池谷は心底困った顔をしつつも、笑顔で「おやすみ」と返してくれたけれど。僕は自分の部屋に戻りながら、なんともいえない座りの悪さを感じていた。

 海鳴は、本当に何度も何度も僕を殺そうとしたはずなんだ。でも……。なにかが引っかかっている。

いったい、なにをどう言えばいいのか。そのムカムカするものを感じながら、僕は男子部屋へと戻っていった。


   ****


 いったい、彼のどこがいいのかはわからなかった。

 不愛想だし、女心なんてちっともわからない。優しくなんてない。

 優しくされて、誰よりも大切にされて、世界で一番幸せになりたい……そんな女の子の幻想からは、あまりにも遠い位置に、彼はいた。

 それでも。

 あのときの胸の高鳴りは、他の誰からも感じたことがないものだった。心臓を掴まれる、心を奪われるって感覚は、あのときはじめてだったんだ。

 どんどんと、その感情の高鳴りが薄れていってしまう。何度繰り返しても、どうしても、この感情を守り切ることができない。ねえ、どうして。わたしの大好きな人を、いったいどうして取ってしまうの?


 もう手は血でドロドロに汚れてしまっているし、何回やり直したのかだって、もう覚えていない。やり方は間違っているのかもしれない。方法は他にあるのかもしれない。でも。

 何度もやり直しているなんて、誰に相談すればいいの? どうしたら助けてもらえるの? どうしたらあの人とずっと一緒にいられるの? どうしたら、あの心臓をもう一度掴まれたかのような高鳴りを感じることができるの?

 どうしたら、わたしの大切な人を奪われずに済むの?


 もう、わからない……助けて……助けて……──もう、わたしの大好きな人の顔がかすんでしまって思い描くことができない。

 名前だって、思い出せない。

 好きだったの? 勘違いじゃないの? そう思われても仕方がないのかもしれない。

 でも……でもね、たしかにあの感情は、恋だったんだ。

 だって、こんなに失くしたくない感情じゃないの。

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