虫よけスプレーを大量に振りかけて、合宿場の庭に出た。そこに望遠鏡を設定する。湿気で土の匂いが妙に強く感じる。

 空は普段住んでいる街よりも星がくっきりと見える気がするのは、この辺りのほうが空気が綺麗なせいなんだろうか。


「ふむ……重力に以上はなし、か」


 望遠鏡をセットしながら、小泉はボソリと言う。重力で引かれ合って、平行世界がどうのこうの、と言っていたような気がする。理屈はどうなのかはさっぱりだけれど。


「それ、どうすごいんだよ」

「平行世界を観測するということは、可能性を観測することだ。世の中、いろんな情報は統計学が占めているからな。でも統計学でも、正確な予測はなかなかできない。平行世界を観測することは、その統計学の精度を上げることになる」

「……うん、これは僕が悪かった。全然意味がわからない」

「でも今日は月が隠れていて、星しか見えない。重力の変動が確認できない以上は、観測するのは難しいな」


 ……うん、こいつが平行世界の観測にこだわっていることだけはよくわかった。それ以外はなにひとつわかららないけれど。

 星はちかちか光っているものの、相変わらず僕はどの星がどの星なのかがわからない。空をぼんやりと見上げていたら、「あー、星が本当によく見える!」と女子の歓声が耳に届いた。

 既に風呂は済ませてきたらしい。池谷は首元にタオルをかけていて、海鳴はあのうざったいポニーテールを降ろしている。僕も小泉も、共同風呂の備え付けのシャンプーを使ったのに対して、ふたりからは安っぽいシャンプーの香料の匂いじゃなく、ミントや柑橘系のすっきりとした匂いを漂わせている。

 それに顧問は「おっ、お前ら洒落てる匂いさせてるな」と笑う。セクハラにならない程度に絶妙なこと言うなあと感心していたら、池谷と海鳴は顔を見合わせて笑い合う。


「今日もバーベキューのとき、蚊がすごかったでしょう? でもせっかくお風呂入ったのに虫よけスプレーかけたらあんまり意味がないからどうしよっかと言ってたら、海鳴さんがアロマオイルくれたんですよ!」


 そう言うと、海鳴は照れたように小瓶を二本ほど振る。……こいつ、本当にいったいどれだけ引き出し持ってるんだろう。


「お母さんがガーデニングが趣味だから……でも庭仕事してたらすぐに虫が寄って来るから、ハッカ油撒いてるんです。ハッカ油は瓶が大き過ぎるからあんまり持ち運びに向かないけれど、ちょっと高いけどアロマオイルだったら持ち運び便利だし」


 そう言いながら、見せてくれる。そうこう言いながら、皆で空を眺める。

 一番光っている星が三つ見えて、それが夏の大三角形だっていうのは中学の理科で習ったような気がする。星の名前は、テスト前に丸暗記したけれど、そこは忘れてしまった。

 僕はぼんやりと星を眺めている中、海鳴は設置した望遠鏡を見ながら、嬉々と空に指を差している。


「すごい……! 本当に南のリースがくっきり見える!」


 僕らだとちっとも興味ない星でも、海鳴が興奮しながら話してくれると、不思議と興味だって持てる。日本人っていい加減なもんで、人が楽しそうにしていたら、それに釣られて興味ないことにだって興味を持つことだってある。

 池谷は「どれの星?」と首を傾げると、海鳴は「あの真っ白な星を繋げていくの!」と指さして教えてくれた。


「ほーんと、海鳴、星について詳しいなあ」


 顧問が感心して言う。御多分に盛れず、この人も星には興味ないものの、最低限の星は知っている。でも教科書に載っていない星座についてはやっぱり詳しくない。

 海鳴は皆に褒められても、とことん謙虚だ。


「わたしは、詳しいって言うよりも、好きなだけですよ」

「そこがすごいと思うんだけどなあ」


 そう言いながら、顧問は星を仰ぐ。僕はなんとも言えない顔で、星を眺めていた。

 星に詳しかったら、もうちょっと天体観測を楽しめたのかもしれない。もし流星群の時期であったら、「流れ星にくだらないお願いをかけた」と言って、適当な願いを話して話題を広げられたかもしれない。でも僕らにはそんなことはない。

 ただ。僕はちらりと海鳴を見る。海鳴は目をきらきらとさせて星を眺めるものだから、どうしてこんな女子が僕の命を狙うんだと、唐突に疑問に思った。

 実際に殺されかけたし、追いかけ回されたときは必死で逃げた。普段はごくごく普通の女子で、好きなものまで全部普通なのに、人を殺すのになんの躊躇もないなんて。そんなのおかしいって、どこかでついつい思ってしまうんだ。


   ****


 星を見るのは好きだった。

 わたしの住んでいた町は、引っ越してきたここよりもひらけ過ぎていて、一番近いスーパーに行くまでに車で一時間くらいかかったし、テレビだって国営放送以外のチャンネルはない。スマホショップだって遠いもんだから、ここに引っ越してくるまでスマホだって持っていることはなかった。

 テレビの向こうでは、都会では楽しいことがたくさんあると教えてくれた。

 ハンバーガーショップやネットカフェ。服屋は量販店以外にもたくさんあって、趣味のガーデニングだって、地面に直接植えても変な種が飛んできて一気に駄目になってしまうことがないらしい。

 やることがなくって退屈で、わたしはずっと星ばかり眺めていた。知らない星は、図書館で本を借りてきて、それで一生懸命読んで覚えた。

 星にまつわる物語も、星を繋いで絵にする星座も、暇を持て余したわたしにとっては楽しくて仕方がないことだった。

 星を見ているときだけは、わたしは普通にわたしでいられた。星は遠くて、きれいで、絶対に掴めない。誰にとっても平等なもの。わたしが人を殺していたとしても、星はいきなり濁って見えなくなってしまうことがない。

 そのときは、わたしは心底ほっとできたんだ。

 わたしも最初の頃は、あの人と一緒に星を見ていたのかな。思い出そうとしても、そのあとに続く悲しいことのせいで、きれいだった思い出も、楽しかった思い出も、全部血の色で濁ってしまい、腐臭のする悪夢に変わってしまう。

 入江くんを殺せば、今度こそちゃんと殺せば。わたしのきれいだったはずの思い出もきれいに取り戻せるはずなのに、どうしてずっと失敗してしまうんだろう。


 ──僕を──に来い……


 その言葉を信じて、わたしは必死で未来を変えようとしているんだから。

 ……あれ? そこまで思い出して、疑問がまろび出てしまった。

 わたしは、いったい誰にそんなことを言われたんだろう。何回も何回も未来を変えようと思って行動してるんだもの。何回も同じことを繰り返していたら、最初のことなんて些細なことになってしまうかもしれないけれど。

 わたしが心の支えにしているこの言葉。いったい誰に言われたものなんだろう。

 そこまで気付いて、ぞっとした。もしかしてわたしは、誰だかわからない、覚えてもいないことに突き動かされてとんでもないことをし続けているんじゃないかと。

 ……ううん、そんなことない。わたしは、その人のことが大事だから、助けたいんだ。


 でも、もう一度会いたい人って、誰?

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