来るな来るなと思っていても、時計は時間を刻んでいるし、カレンダーが止まることはない。七月は終わり、八月がはじまっていた。いよいよ合宿がはじまる。

 最後の悪あがきとして、合宿を休もうと、腹を下したとか言い訳をしようと思ったけれど、母さんの電話で、それも無理だと観念することになった。


「はい……はい、それで必要なものは? はい、わかった。全部まとめて持っていくから」


 母さんがメモを取って、廊下でそれを眺めていた僕のほうに振り返る。


「ああ、満? 合宿の用意ちゃんとした? 下着は新しいの出しておいたけど」

「いや、別に鞄に入れたよ……今の電話は?」

「おばあちゃん、階段から落ちたからしばらく介護が必要でね。あんたが合宿の間、お母さんはおばあちゃん家にいるから。万が一のことがあったらスマホに連絡して」


 そう言われてがっくしとしてしまった。

 もし僕に家事のスキルがあったら、たとえ母さんがいなくってもなんとかなっただろう。でも冷蔵庫をざっと見たけれど、見事にレトルト食品はなくなってしまっている。おまけにこの辺りはベッドタウンでコンビニを建てるのは規制されてしまっている。

 ……まさか食べるもんがないからっていう理由で、合宿に行く羽目になるとは思わなかった。

 覚えている限り、僕は何度も繰り返す夢の中でも、合宿に行かないって選択肢は何故か消えていた。今回はばあちゃんが怪我した、だし。他に家のリフォーム、近所の騒音。

 世界が気合を入れて僕を殺そうと考えているみたいで、それが恐ろしい。

 僕は合宿のバスを待つために、しぶしぶ学校の近くのバス停に立っていた。Tシャツにジャージ。合宿に行くための格好はもっぱらこんなラフなものだ。

 げっそり……という音が付きそうな気分だ。蝉の元気はつらつな鳴き声が恨めしい。

 あれからいったい、何回見たんだろう。あいつに殺される夢を何度も見過ぎたせいで、僕は食欲が減ってきて、特に肉とトマトが食べられなくなっていた。……自分が血を出して死んでいる現場を繰り返し見せられていたら、当然か。

 今は夏だから、夏バテで誤魔化せているけれど、いったいいつまで誤魔化せるんだろう。

 本当だったら部費のことを無視して合宿なんてボイコットしてしまえばよかったんだと思うけれど、出した部費の金額のことを考えたらついつい参加してしまうせせこましい自分が憎い。

 ……海鳴から、あんなに明確に殺意を持たれているっていうのに、わざわざ殺されに行こうとする自分は、本当どうかしているって思うよ。でもさ。


──あなたが生きてたら、わたしの好きな人が死んじゃうの


 海鳴から聞いた言葉があまりに抽象的すぎて、その言葉がこびりついて離れなかった。

 あいつに殺される夢を繰り返し見ながら、僕も考えてみたけれど、いまいちわからない。

 僕が生きていたら、あいつの好きな奴が死ぬってどういうことだ? ドミノ倒し的な意味で死ぬんだったら、ドミノ倒しの元凶に当たる僕を殺せば済むのかもしれないけど……でもあいつの言い方も変だ。

 僕は何度も何度も【夢の中で】海鳴に殺されているけれど、海鳴の言い方だったら、まるで海鳴は何度も何度も僕を殺しているようなんだ。

 何度も何度も殺されても死なない僕って、いったいんsんなんだ? それともあいつの言っていることがおかしいのか?

 考えても考えても、オカルトチックが過ぎることを解明するのは僕には無理だった。

 拭かずに流しっぱなしにしていた汗の滴がメガネを濡らしたのに、僕は思わずメガネを取って乱暴にTシャツに擦り付けていたら「おはようー、入江くん」と手を振られた。

 池谷は今日も元気だ。


「ああ、おはよう」

「おはよー。朝からしみったれた顔してるねえ」


 ……ほっとけ。そうつっこむ気力も、夏の暑さが削ってくれていた。ただ目を細めてねめつけるだけで僕を無視して、池谷は「んーっ」と暢気に伸びをする。


「今日から合宿だよねえ」

「そうだな」

「小泉くんは絶対参加すると思ってたし、部費払ってまで合宿に参加する女子は私くらいだって思ってたのに、残念だなあ」

「はあ……?」


 池谷の意図が掴めずに、僕は思わず池谷の顔を見ると、池谷は真っ直ぐ前を見ていた。ちょうど道路を挟み、信号が未だに赤が点いているそこを見て、思わず目が丸くなる。

 そこにいたのは、小泉と海鳴だ。僕にはあれだけ冷え冷えとした殺意の眼差しで見てきたっていうのに、うっすらと頬を赤く染めながら、相変わらずのポーカーフェイスの小泉としゃべっている。

 車が一台過ぎて行って、エンジンの音でなにをしゃべっているのかは聞こえない。それを見ながら、池谷はちょっぴりらしくもなく目尻を下げている。


「美男美女で、お似合いだもんねえ……」

「……見てくれだけだろ」

「相変わらず入江くんは淡泊だねえ……この際、しみったれたもん同士で付き合ってみる?」


 あまりにも軽く言う池谷の言葉に、ますますげんなりと気持ちが萎えてくるのを感じる。もうげんなりなんてもんじゃない。げっそりだ。


「……そりゃしみったれたもん同士どころか、みみっちいもん同士だろ。それに池谷は充分いい線いってるんだから、僕みたいなのに妥協するなよ」


 チビでメガネ。メガネかけていてもたいして成績はギリギリ平均点って僕と、普通よりちょっと可愛い池谷。みみっちいのは僕だけであり、池谷はそうじゃないだろ。

 僕がそう言うのに、池谷は驚いたように目を丸くした。


「……すごいね、入江くんがちょっとだけ格好よく見えるよ」

「多分気のせいだからな。妥協で僕と付き合うとかいうのはお断りだ」

「だって、誰でもいいから付き合ってってタイプの人だっているもん」

「……池谷が誰でもいいから付き合ってって奴だとは思わないんだけど、僕も」


「好き」って気持ちで殺されかけているのに、妥協で「好き」なんて気持ちと向き合えるわけがないとは、あまりに不憫な池谷には言えなかった。

 やがて、信号はぽんと変わり、こちらに小泉と海鳴がやってきた。


「おはよう。今回の合宿参加はこれだけだったな」


 小泉があまりに淡々というものだから、思わず脱力しそうになる。

 池谷はいつもよりも一オクターブ高い声で「えー、今日はこんなに少ないのー?」とはしゃぐ。さっきまでネガティブなこと言っていたのはどこの誰なんだ。

 げっそりしそうになるのをこらえていたら、海鳴がこっちを見ていることに気付き、僕は思わず目を吊り上げる。いきなりナイフを向けられたんだから、こっちだって警戒しても罰は当たらないはずだ。

 夢にまで見たって言うと、スイーツ脳の女子は「そこまでエロいこと考えてるの?」とクスクス笑いながら囁きそうなもんだけれど、夢で何度も何度も首を掻っ切られるこっちの身にもなってほしいもんだ。


「おはよう。天文部の合宿なんて、夜が本番だからバスの中で寝貯めしとけば」


 できる限り、クラスメイトとしゃべるときみたいな素っ気ない口調で言うと、海鳴は意外にも素直に頷いた。


「おはよう。うん、小泉くんから聞いた。皆で天体観測しながら、星座表をつくるんでしょう? 山だったらいっぱい星が見えるよねえ。楽しみだなあ」


 前に生物室で言っていた無邪気な言葉そのままなのに、僕はなんとも言えない苦いものが込み上げてくるのを感じる。

 ……この間みたいに、はっきりと僕に殺意を向けてくれればいいのに、どうして僕を殺そうとするとき以外はこうも普通の女子なのか。それがイライラするし、むかつく。

 はっきりとこっちを嫌いだと言ってくれたら、こっちだってはっきりと無視するってスタンスでしゃべれるって言うのに。

 込み上げてくるものをぐっと飲み込んでいたところで、おっとりとした足取りで顧問がやってきた。

 基本的にうちの部は部長含めて誰も星に対して興味がない。当然ながら顧問も星にはほとんど興味がないものの、趣味が登山やアウトドアと、合宿のときだけはやけに生き生きとしている。

 既にしおりで配られて知っていることを確認しながら、僕たちはバスに乗り込み、揺られた。

 うちの県は南側は海、北側は山に囲まれている場所なため、普段は潮の匂いがするっていうのに、バスに揺られて数十分も経ったらあっという間に視界が緑に染まる。

 バスの中はクーラーが効いているっていうのに、日差しがぎらついていて、緑の葉っぱを嫌でも光らせる。

 暑苦しいと、思わず僕は目を細めたところで、隣同士で座っていた海鳴と池谷はきゃっきゃとしゃべっているのが耳に入る。池谷は手を挙げて顧問に声をかける。


「先生―、カラオケ! カラオケマシンってありますかあ?」

「カラオケー? あるよ。なんだ、池谷さんしかカラオケしないだろ」


 基本的に僕はテレビやラジオも聞かず、スマホゲームで遊んでいるために、最近の流行の曲はほとんど知らない。小泉に至っては普段聞いているのがクラシックだから、流行なんて知っているのかどうか。

 先生がカラオケマシンの設定をしつつ、マイクと曲の電子目録を池谷に渡してやると、池谷はにこにこ笑いながら海鳴にも目録を勧めてきた。


「わ、わたしそこまで歌は歌えないよ……」

「えっ、でも海鳴さん曲詳しかったじゃない」

「そりゃ好きだけど……」


 海鳴がごにょごにょ言いながらうつむくけれど、池谷はにこにこしたままだ。


「いいじゃない、女は度胸! じゃあ先に私が歌うから、曲のリクエストやってね」

「えっ、うん」


 そのまま池谷はマイクの電源を入れると、目録に曲を入力して立ち上がった。

 僕は人の歌の上手い下手なんて、音楽の授業の歌唱テストくらいでしかわからないけれど、池谷はまあまあ上手いんじゃないかと思う。

 歌ったのは、もう誰が誰だかわからない分裂しまくっているアイドルグループの一曲だった。歌詞のところどころで「海」とか「夏」とか入っているから、サマーソングって奴なんだろう。

 それを小指立てながら一生懸命歌ってるんだから、なかなか見事なもんだ。


「池谷、歌上手いな」


 一応僕はそれをさりげなさを装って小泉に言ってみる。

 池谷はやたらと空気を読みながら行動しているせいで、小泉にアピールが伝わっているのか伝わっていないのかは知らないけれど、ここでアピールしてやらないのも気の毒な気がしたのだ。

 小泉は「ふむ」と顎をしゃくりながら、にこにこ笑いながら歌う池谷を眺める。


「歌詞が単調ではあるが、池谷くんの雰囲気に合っていると思う」

「……それ、作詞家に文句言うところであって、池谷に文句言う場面じゃないと思うけど」

「この手の直球な歌詞を、世間一般は好むらしいな」


 ……ごめん、池谷。この変人は曲のよしあしはわからんらしい。その会話の中でも、池谷は綺麗に歌を歌い終えたんだから、大したもんだ。

 一方、池谷が歌っている間に海鳴も目録を入れ終えたらしい。

 いったいなにを歌うんだろう。池谷みたいにアイドルソングでも歌うんだろうか。そう単純に思っていたのに、流れてきたイントロで、思わず目を剥いた。

 流れてきたのは、ジャズのトランペットで、海鳴が歌いはじめたのは英語の曲だった。ジャズも洋楽も詳しくないけれど、歌い方はアイドルみたいにさらっとした歌い方ではなく、ビブラートを効かせまくって、体全体の筋肉使ってないと出ないような歌声に、思わず呆気に取られた。

 間近で聞いている池谷は、口を軽く開けながらポカンとしているし、顧問も馬鹿みたいに口を開けて聞いている。なによりも。顎をしゃくって聞いている小泉は、わざとらしくメガネのフレームを押し当てた。


「……すごいな、海鳴くんは」


 そう言いながらあいつを見ている。池谷のときよりも明らかに食いつきがいいのに、僕は思わず振り返ると、真剣な顔で、歌っている海鳴を見ている。

 たかがカラオケ、されどカラオケ。歌っているときの海鳴は、普段池谷と戯れているときみたいな無邪気な顔でも、僕を殺そうと思って向けてくる無表情な顔でも、ときおりちらちらと小泉に向けてくるようなシャイな顔でもない。好きなものが好きだと言っているはつらつとした顔だ。

 この変人まで海鳴に魅入られるなんて、本当どうなっているんだ……。

 ……ん? ちょっと待て。そこまで考えて、僕は嫌なことに気が付いた。海鳴は何度も何度も、僕を殺しているって証言していた。でも海鳴が言っている「あいつが好きな奴が死ぬ」っていう未来は変えられていないらしい。

 いったい海鳴はどうやって何度も何度も同じ時間を繰り返しているんだ。

 それにはこの変人……小泉の存在が不可欠じゃないのか。小泉は相変わらず空想科学に凝っていて、タイムマシンと称した謎の物体をつくっている。普通に考えたら、それで海鳴が同じ時間を繰り返しているんじゃないか。

 普通に考えたら、小泉がタイムマシンを完成させなかったら、海鳴が僕を殺すために時間超越なんてできないはずだ。それは何回も何回も殺された僕だって思いついているんじゃないのか。……だったら。

 僕は海鳴に殺される未来を変えようとして、タイムマシン完成を阻止するために小泉を殺そうとする。

 でも海鳴の今までの反応を見ていたら。あいつが頑なに言わない「好きな奴」っていうのは、小泉のことなんじゃないのか。それに逆上した海鳴が、僕を殺そうとする。……これじゃ、やっていることなんて変わらないんじゃないのか。

 そこまで考えてぞっとした。

 ずっと殺され続けるなんて、冗談じゃない。でも……この無限ループをどうやったら突破できるんだよ。

 既に僕の耳には、海鳴の声は届いてこなかった。ただ心臓の音と、何度も何度も繰り返し見た夢だけが頭の中でぐるりと回っている。

 毎回毎回、盆の最中にナイフでぶすりと刺し殺されていた。今はいつだ。……もうすぐ盆に入る。合宿から帰る最中……と考えたほうがよさそうだ。


「入江くん、どうした? 君さっきから汗がすごいが」


 変人の小泉からそう声をかけられ、僕はようやく人から怪訝に思われるほど冷や汗をかいていたことに気が付いた。


「……窓側だからかな、暑いんだ」

 

 喉からついて出た言葉は白々しかったけれど、他に言えることもない。小泉は僕のほうをちらりと見たものの、それ以上はなにも言わなかった。

 ジャズの曲が終わる。人のいい池谷が熱心に拍手をし、顧問もまた「プロになれるんじゃないか」と海鳴を褒め称えているものの、僕にはそれすらもうすら寒いものを感じていた。

 ……何度も何度も繰り返して、どん詰まりを感じているのは僕だけじゃない。

 きっと海鳴のほうもだ。僕は合宿中も用心に用心を重ねて、できる限りひとりにならないようにしないといけないと、そっと自分に言い聞かせた。

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