第一章
1
蝉時雨のせいで、耳がぐわんぐわんとなる。
廊下に蝉が一匹でも落ちていたら、それが突然けたたましく鳴いて跳ねるものだから、女子はキャーキャー叫び、男子は男子で箒で校舎の外にゴルフの要領で吹っ飛ばそうとする。そのたびに教師が「やめんか!」と説教するのが、夏のお約束だった。
また誰かがやらかしたらしいのを尻目に、僕と池谷が教室に向かっていると「入江くん、池谷くん」と声をかけられた。
女子がちらちらとこちらのほうに視線が集まり、池谷もまたうっすらと顔を赤らめて僕を盾にするんだから、思わずむっとする。
こちらに立っていたのは伸ばしっぱなしの長い髪に、それが様になってしまうほどに整った顔をしている男子だった。長い髪にメガネなんていったら、オタクの代名詞だっていうのに、ちっともオタクみたいに脂っぽいものを微塵にも感じないのがムカつく奴だ。おまけに白衣を羽織り、その下にはカーディガンを着込んでいる。それで汗のひとつも浮かべていないんだから、こいつの汗腺の行方について問いただしたくて仕方がなくなる。
そんな僕のみみっちい嫉妬の視線も、女子の熱いまなざしも全部スルーして、そのイケメンは……小泉はこっちに声をかけてきた。
「やあ、君たちは合宿参加でよかったな? まだ合宿参加費が払われていないんだが」
「えっ……! やあだ、私まだ払ってなかった!? ちょっと待ってね、すぐに払うから」
女子の嫉妬のまなざしを受けながらも、他の女子の牽制のために、皆の目の前でしゃべるために池谷は合宿費用を払っていなかったことを知っているのは、恐らく僕くらいだろう。
女って本当に怖い。池谷ががさがさと財布を引っ張り出すのを横目に、僕は封筒を取り出して、それを小泉に渡した。ちなみに僕まで払うのが遅れたのは、池谷もさすがにたったひとりで払ってないなんて素振りを見せたら、女子からお呼び出しを受けるかもしれない。それを避けるために巻き込まれたってわけだ。本当に女は怖い。
「ごめん、お小遣いもらうのが遅れた」
僕のあからさまな棒読みでも、小泉は気にする素振りもなく、封筒を受け取ってくれる。本人は周りから視線を集めているということすら、どこ吹く風だ。
「やあやあ、悪いな。なんたって今年は合宿の時期と流星群の日と重なりそうだからな、楽しみなんだ」
「そうかい」
「ああ、なんたって星降る夜には平行世界の観測ができるからな。楽しみだ、ああ楽しみだ」
そう言って、うちの部長が笑顔を浮かべるのに、僕はげんなりとする。
天文部は、小泉が入ってくるまでは、だらだらお菓子を食べて一日ぼーっとする、やる気の全くない部だ。
唯一の活動時期は文化祭の展示、それも部費で買った室内プラネタリウムで展示室一室をプラネタリウムにしてセラピーCD流すだけといういい加減な部だったらしい。
そこに変人の小泉が入ってきてから、大分具合が変わってしまった。
小泉は天文部で星を眺めながら、星にまつわるオカルト実験をあれこれとするようになってしまったんだから、やる気のない部員はこぞって逃げてしまった。
残ったのは、僕みたいに「特にやる気もないけれど、他の部でもやっていける自信がない人間」か、小泉のガチの変人ぶりを見ても引かない小泉のことが好きな女子だけとなってしまったという。幽霊部員じゃないのは、はっきり言って小泉以外だったら僕と池谷だけだ。
最近小泉が部室でやたら熱心に語っているのは、SF小説に書かれている「流星群の日には地球の重力に変動があり、その変動の際に平行世界が重力で引っ張り込まれる」という説の実証だ。
最近は平行世界を観測するためってタイムマシンをつくりはじめているんだから、誰か止めて欲しい。
誰も止められないのは、ひとえにこいつが変人なだけでなく頭がよくって、うちの学校の偏差値を底上げしてくれているから、教師受けが無茶苦茶いいからだ。
今年の合宿は本当にどうなるんだろうと、僕はげっそりと溜息をつく。
僕がげんなりとしている横で、池谷はきらきらとした目でゆっくりと合宿参加費を支払いながら「すごいね、楽しみだよね」と相槌を打っている。
……多分、池谷が考えているようなラッキーハプニングは起こらないと思うぞ。普段はいいやつなのに、池谷も小泉のことになった途端にポンコツになるんだから考え物だ。
僕が半眼になってふたりのやり取りを見ている間に、予鈴が鳴った。小泉と別れ、池谷とふたりで教室に入ると、女子がガヤガヤと騒がしい。
「そういえばさあ、さっき日誌取りに行ったらさ、新しい制服着てる子が職員室にいたよ。担任と話をしてた」
その言葉が耳に滑り込んできて、僕は唇が引きつりそうになるのを必死でこらえる。
池谷は呑気に「さっきの子かもねえ」と僕に振ってくるのを、僕は思わず無視して、顔を突っ伏す。
ポニーテールは嫌いだ。暴力女はもっと嫌いだ。
何度も僕の夢に出てきた女の子が、こうして僕の目の前にやってこようとしていることに、僕は唇を噛んでいた。何度も何度も夢とはいえど僕を殺した女子を好きになれるなんて、あるわけがない。そもそもどうして僕の目の前に現れるんだ。
頭の中でさんざん喚き散らしたところで、学校の決定が覆るわけもなく、再び予鈴が鳴ったと思ったら、担任が入ってきた。
「えー……他の地方だったら今夏休みなんで、転校生が来ましたー」
まとまらない言葉のあと、「入ってきなさい」と入り口に声をかける。
皆が一斉に教室の戸に視線を集中させる中、僕だけは忌々しいって顔をどうにかごまかそうと蛍光灯に視線を集中させていた。
戸がガラッと開いたと思ったら、短めのスカートのプリーツが揺れる。
結ったポニーテールも一緒に揺れて、男子が一瞬「ひゅっ」と声を上げているのを耳にする。
ああ、いいよな。傍から見たらムチムチしていてポニーテールでさらけ出されたうなじが煽情的だもんな。脚だっていい肉付きしているけれど大根足みたいに太くはないんだし。
担任はガリガリと転校生の名前を記入し出すので、それだけは視線を移す。
【海鳴なぎさ】
そう記入し終えたところで、彼女は教室をぐるっと見回すのが、ポニーテールの揺れでわかる。
全然物怖じしない性格なんだなと、ぼんやりと思ったところで、彼女が小さく息を吸って、吐き出した。
「S県から来ました、海鳴なぎさです。よろしくお願いします」
はきはきした声なのに、僕はますますムカムカするものを感じていた。
その声は知っている。夢の中で何度も何度も僕をダガーナイフを持って追いかけてきて、「お願いだから死んで」と失礼極まりない懇願をしてきた声だ。夢よりも高かった、低かったとかがあったら、夢は夢、現実は現実と区別できたのに、これだったら区別なんてできやしない。
胸糞悪いと思っていたところで、ホームルームは終了。
海鳴のために机と椅子を一番後ろに配置したところで、授業がはじまった。
僕は一番前の席で、海鳴は一番後ろの席。
僕は内心「参ったな」と苦虫を噛み潰したような顔になる。さすがに教室でダガーナイフを突き刺してくるようなことなんてしないとは思うけれど、殺すための算段は立てられるかもしれない。
……どうしたもんか。僕はぐしゃりと前髪を掻きながら、椅子に引っかけた鞄の中身をまさぐるふりをしながら、後ろの席を盗み見た。
海鳴の座っている席は、冷房が一番利きにくい席で、日光がカンカン照りで、無茶苦茶暑い。彼女は汗ばみながら、セーラー服の胸元を仰いだら、ブラジャーらしき蛍光ピンクが見えたような気がして、思わず見なかったことにする。
落ち着け。いくら小さいころから繰り返し見た夢に出てきたポニーテールの暴力女に似ているからとは言っても、同じ人間とは限らない。そもそも、夢に見た女子と同じだから嫌うっていうのも乱暴な話か。
なんとか都合のいいように都合のいいように考えようとしても、それでも不安は付きまとう。だってこんなくだらないこと、誰にも相談できないから、吐き出したことはない。
でも、こんなこといったいどうしろって言うんだよ?
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