君に会うため僕は君の
石田空
プロローグ
プロローグ
空は青ざめていた。
蝉時雨さえもなりを潜めた昼下がり。僕は必死に走っていた。
運動は嫌いだ。走るくらいだったら家でスマホゲームでもしていたほうがいい。一歩足を踏み出すごとに汗が噴き出し、足がもつれそうになる。そもそもインドア派に全力疾走なんて無理なんだ。それでも必死で足に叱咤しながら、僕は走っていた。
どうしてこんな住宅街だっていうのに誰もいないんだろう。
そう考えて気が付いた。今はお盆だ。里帰りだ。こんなベッドタウンにこもっている暇があったら、墓参りであっちこっちに行っているからだろうと気が付き……追っ手が来るのに喉の奥がヒュンとなった。
青ざめた空に、太陽の強い光。そして光と影のコントラストが強く映し出される。
屋根の上を走ってきたらしい。ポニーテールが揺れる。
「いたぁぁぁぁ……!」
そのまま彼女は僕の脳天目がけて飛び降りてきた。白……って暴力女のパンツを見ているわけにはいかない。
僕は「ひぃっ……!」と声を漏らしながら、彼女を避けた。彼女はこちらに飛び蹴りを食らわそうとしてきたけれど、そのままころんと体操選手のように転がって、体勢を立て直した。
セーラー服は汗で貼りついて、下着の形はわからなくっても色が透けているという際どいラインをつくっている。ポニーテールは彼女が走るたびに揺れ、うなじが煽情的だ。でも、手に持っているものがちっとも煽情的じゃないし、こちらを見る目が怖い。
爛々とした目は、まるで獲物を見つけた狼だ。
そして手に持っているもの。いったいどこでそんなものを買ったのか、分厚いダガーナイフを持って、全力疾走で追いかけてきたのだ。体格はインドア派の僕と比べて肉感的で、胸も太もももムチムチしていた。全力疾走で既に倒れたい僕と違って、呼吸だって荒くない。
「お願いだから、逃げないで……!」
そう言いながら、ダガーナイフを振りかぶった。風を切る音。僕は必至で電柱まで走ってそれを盾にして逃れた。電柱に貼り付けられたチラシがビリッと音を立ててちぎれた。
無茶苦茶だ、この暴力女。僕を見た瞬間、危ないものを振りかぶって追いかけてくるんだから。逃げるななんて言っても無理だ。自殺願望なんてないんだから、逃げるしかないだろう。
俺は必至であの女に背を向けて、逃げようとしたけれど。
耳元で風を切る音が響いた。あの女がダガーナイフを投げつけてきたのだ。思わず避けたブロック塀の隙間に突き刺さったそれを見て、だらだらと背中に冷や汗が流れるのを感じる。
彼女は爛々とした目で、こちらを睨んできた。
「さあ、観念なさい」
そう言いながら、もう一本ダガーナイフを胸元から出してきた。いったい、なにをどう観念すればいいんだよ……!
僕はそれでも必死で逃げようとする。プラスチックのゴミ箱をひっくり返して投げつければ、甘い腐臭が漂った。彼女はそれでもなお、ゴミ箱を蹴り飛ばしてくる。足止めの役にも立たなかったゴミ箱は腐臭を撒き散らしているのを無視して、彼女は僕へと迫って来る。
勘弁してくれ、僕がいったいなにをしたって言うんだ。
だんだんと暑さで、頭が朦朧としてきた。視界が徐々に霞んでくる。
あ、これはヤバいやつだ。そう思ったときには、もう手遅れだった。僕の襟首が、無理矢理掴まれ、そのまま塀に押し付けられる。途端に、ザクリと言う音を耳にした。
「……い、だぁぁぁああ……!」
体が焼けるように熱いのは、痛いからだ。背中が、痛い。思いっきり刺されたんだ。
彼女は俺が体を折り曲げて苦しんでいるのを、そのままじっと眺めながら、塀に突き刺さっているぶんのダガーナイフを引き抜いた。
聞こえちゃいけない水音と一緒に、熱がえぐり出されたような熱さと、痛み。僕はその痛さに、子供のように泣き叫ぶ。
きっと、泣き叫ぶっていうのは痛みと恐怖を必死で発散させる自浄作用なんだ。
「ぐ……どう、して……」
「お願い。死んでよ。返してよ。あなたが死なないとあの人が死んじゃうんだよ」
今から僕にとどめを刺す人間の言葉とは言えない声色。それはひどく悲しそうだった。
どうして、あの爛々とした目の人間が、そんな声を出せるんだよ。
痛みで吐き気がしても、喉からはなにもとおって出てこない。暑さで舌を伸ばしても、ちっとも温度が下がった気がしない。
僕が焼けたアスファルトで血を垂れ流しながらびちびちもがいている上に、彼女はまたがった。ダガーナイフを閃かせて。そこではじめて彼女と目が合った。
睫毛で彩られた大きな瞳は爛々としていた。獰猛な肉食獣のような目とは少しちがう。まるでロボットアイのようで、そこから感情は読み取れなかった。
「お願いだから、もう生き返らないで。ちゃんと死んで。ねえ……」
また痛みが襲ってくる。もう痛さと暑さと熱さでめまいを覚えて、そこから先はなにも思い出せない。
ただ、思考だけがぐるぐると渦巻いていた。
なんだよ、それ。なんで僕が殺されないといけないんだ。
悲劇のヒロインぶった声出してんじゃねえよ、どう考えたって被害者は僕だろ。暴力女。狂暴女。自分勝手な悲劇の主人公なんて大っ嫌いだ。でもなあ……。
何度も何度も僕を刺すくせに、そのたびにこんなこと言うのはなんでなんだろう。
そのまま笑いながら殺してくれたら、そのまま恨めるだけだっていうのに。
理由なんて言わないでくれたら、このまま嫌いでいられるのに。まるでこっちが悪者になったような気すらする。
だんだんと痛みの感覚すら鈍くなり、ひどく眠くなってきた。ああ、駄目だ。
僕はまた死ぬんだ。
彼女の息遣いがひどく遠くに聞こえる。それを耳にしながら、僕の意識はふつりと途切れてしまったんだ──……。
****
僕はパチンと目を覚ますと、枕元の目覚まし時計を持ち上げる。
まだ時計は朝の六時にすらなっておらず、マンション内で行われている小学生のラジオ体操すらやっていない。僕は溜息をつきながら、目覚まし時計のタイマーを消しておくことにした。
小さいころから、何故か僕はずっと女の子に殺される夢を見続けていた。
最初にその夢を見た日は従兄に騙されて、孤島に閉じ込められた少年少女が最後のひとりになるまで殺し合いをする映画を観せられたから、映画のショックでそんな夢を見たんだと思っていたけれど、その夢の内容は、年を追うごとにだんだんと鮮明になっていったんだ。
セーラー服は、僕の地元の高校の制服。
お盆になったら人気がなくなってしまうのは、うちの町の特徴だ。何分ベッドタウンなせいで、長い休みになったら、里帰りや遊びに行くために町から人が消えてしまう。真昼に自転車を漕いでいても、誰にも会わないなんてことはしょっちゅうだった。
僕は女の子の知り合いなんて、ほとんどいない。
身内に気安い姉妹なんていないし、親が離婚再婚の末にとびっきりの美少女と義兄妹になったなんてラッキーハプニングとも縁遠い。可愛くっていっつも起こしに来てくれるような幼馴染とも、昔っから可愛がってくれる近所の年上のお姉さんとも、二次元でしかお目にかかったことがない。
あんまりに何度も同じ夢を見るようになったから、その高校に入るのは正直嫌だった。でも最悪なことに、肝心のその高校は地元でも有数な名門校で、公立大の入学率は地元でもトップクラス。その上家からは徒歩十五分の場所にあるもんだから、形だけでもここに入る勉強をしなくちゃいけなかった。
私立でうちの高校と同レベルのところはいくらでもあったけれど、学費のことを考えたら、うちの高校を狙わない理由がないんだ。
……受験勉強真っ只中で、「この学校に入ったらポニーテールの暴力女に殺される」なんて理由で志望校を変えるような真似、受験ノイローゼと一蹴されて無視されるのが目に見ていたからだ。
せめてもの抵抗で、万が一ポニーテールの暴力女にあったら抵抗できるようにと、空手を習いはじめたのはいいけれど。せいぜい投げ飛ばされたら受け身が取れるようになったくらいで、護身術程度に使いこなせるようになったのかは怪しいレベルだ。インドア派の僕には、どうにも空手の才能はなかったようだ。
そんなことを思いながら、僕は仕方がなく部屋から出る。うちの学校は夏季登校があるうえに、夏休みが明けるのも早い。
正直、夏に家にこもっていたら、嫌でもずっと見続けている夢のことを考えてしまうから、考える暇を与えられないほうが、僕にとってはありがたかった。
今日も蝉が鳴いているし、プールに向かう小学生が通り過ぎていくのを見ながら、僕は学校へと向かった。今日も暑い。
シャツの胸元を仰ぎながら歩いていたら「あっ、
うちの高校の真っ白なセーラー服がまぶしい、ハーフアップにしている子だ。顔はまあ、目は大きいし、華奢だし、可愛いほうじゃないかな。
同じクラスで同じ部に入っている
池谷は僕の隣まで走ってくると、にこにこと笑う。汗の替わりにシャンプーの匂いがするのが女の子らしい。
「えへへ、今度合宿あるんだけどさあ……、お願い」
「やだよ。僕、
「そこはあれだよぉ、私だって、入江くんが好きな子できたとき、無茶苦茶協力してあげるのにさあ」
そう言ってケラケラと笑う池谷。そこに僕は参ったなあと思う。
池谷はポニーテールじゃないし、狂暴でもない、強いて言うなら、恋に恋するイマドキ女子ってやつだけれど、まあ悪いやつじゃない。ただ、同じ部のよしみで、自分の恋愛事に僕を巻き込もうとするのは勘弁してもらえないのか。
僕はうんざりしながら、学校までの道を歩いている中でも、池谷は僕が聞いているのか聞いていないのかを無視してぺちゃくちゃしゃべっている。
「来年になったらさあ、もう私たちだって受験勉強に入るんだから、今年がラストチャンスだと思うんだよねえ、だからもうちょっと頑張りたいんだあ」「合宿場が山なのが残念だよねえ、ジャージだったらちっともお色気で迫れないもん。水着でアピールとかもできないしさあ」「あ、夏は合宿以外に予定ある? 合宿で必要なものの買い出しとかで、距離を縮められないかなあって思ってるんだ」
よくここまで飽きないもんだな。ここまでくると、女子と男子だったらここまで脳内がちがうのかって、ついつい感心してしまう。そう思っている間に、学校が見えてきた。
春休みに改装工事の終わったうちの高校は、夏空で白い校舎を光らせて建っていた。職員用駐車場を通り過ぎて校門を目指しているとき、僕は思わず目を見開いてしまった。
ポニーテールが揺れている。凛とした雰囲気の背筋の正しい女子。セーラー服は真新しく、むっちりとしながらも長い脚がスカートから覗いている。背は高く、胸だって大きい。はっきり言って、男が十人いたら十人凝視して、うち三人はトイレに走り出すようなタイプの女子だ。
その彼女の横顔は、見覚えがあった。
僕が彼女を凝視しているのに、池谷はひょいと顔を覗き込んで、廊下を歩いている女子を見比べて、気が付いた。
「あれぇ、こんな時期に転校生? まあ夏休みだもんねえ、よその地方だったら」
池谷がそう呑気に言っている中、僕は冷や汗が噴き出るのを感じていた。僕が通り過ぎていく彼女を眺めていると、池谷はくすりと笑う。
「あれ、入江くん。ひとめ惚れ?」
「……ちがうよ」
ああ、ちがう。そんな生やさしい感情じゃない。もっと得体のしれないなにかだ。見覚えある理由なんて、他人には到底説明なんてできやしない。
……何年も前から、何度も何度も繰り返し見た夢に出てきた女子なんだ、その子は。
僕を殺そうと迫って来る、女子。
僕の忘れられない夏は、こうしてはじまったんだ。
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