愛の喜びとか、悲しみとか……

喜島 塔

序章


 頭の天辺てっぺんから足の爪先まで、身体中の血管すべてに、氷水が流れている……そんな感触だった。


「全国学生ピアニストコンクール」の二次予選。


 ドビュッシーの『12の練習曲より 3.4度の音程のために』と、ラフマニノフの、『エチュード「音の絵」より Op.33-7』までは、完璧だった。


 真音まおが、名門「慧都音楽大学けいとおんがくだいがく」を卒業後、一流のピアニストとして活躍するためには、登竜門である「全国学生ピアニストコンクール」で、何としてでも優勝を勝ち取らなければならなかった。


 二次予選最後の演目、ショパンの『エチュード Op.10-4』


 真音が、幼少期から何千回、何万回も弾いてきた曲だ。例え、演奏途中で突然“全生活史健忘症ぜんせいかつしけんぼうしょう”になろうとも、嫌でも身体が憶えている。そう言い切れるほどに弾き込んできた曲だ。


 ――しかし、それは、突然、起こった。


 35小節、左手の分散和音下行のほんの僅かな乱れが引鉄となり、指の隙間からさらさらと砂が零れ落ちるように、音の粒が落ちていった。


 その後のことは、殆ど憶えていない。


 その後の演奏がどうなったのか?


 どのようにして、舞台から捌けて行ったのか?


「“ノーミスの女王“ もこれで終わったわね」


 観客席から聴こえてきた悪意に満ちたざらついた言葉だけが、リアルな感触として残った。

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