線を描く

下東 良雄

線を描く

 一枚のキャンバス。

 私の唯一の持ち物。

 私はそのキャンバスに線を描く。

 自分が生きていることを確認するために。

 繰り返し、線を描く。

 そうしないと、死んでしまいそうだから。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 普通の家庭で育った。

 優しい両親と頭の良い優秀な兄の四人家族。


 小学生の時に市の絵画コンクールに入賞。

 元々絵を描くのが好きだったけど、さらにのめり込むようになった。

 その時、兄は中学受験で進学校へ進んだ。


 中学生の時は美術部に所属。

 初めての油絵に四苦八苦しながらも、キャンバスに絵を描くことが本当に楽しかった。

 その時、兄は高校受験で県内でも最難関の進学校へ進学した。


 そして、私が高校生の時、兄は大学受験に失敗。

 そのことがきっかけで、兄は部屋に引きこもり始めた。


 それがすべての始まりだった。


 兄は、両親に暴力を振るい始めた。

 荒れ狂う兄にどうしたら良いのか分からず、私はただ耳を塞いで震えていた。


 そして、その暴力は性暴力へと形を変え、その矛先を私に向けてきた。

 私に為す術はなく、大事なものはすべて奪われた。

 その後も性暴力の嵐は収まらず、毎晩ただ目をつぶり、歯を食いしばり、痛みに耐えながら早く終わってくれとひたすら祈っていた。

 私の心には黒くて深い傷が刻み込まれた。


 両親も気がついているはず。

 私は父に助けを求めた。


「オマエが我慢してくれれば、アイツは暴力を振るわない。分かるだろ? なっ、なっ?」


 父は、私に犠牲になれと言った。


 やがて私の中に新しい命が宿った。

 おぞましい命。望まない命。

 病院へ行くしかなかった。

 すべての処置が終わった私は、母に助けを求めた。


「でもほら、赤ちゃんの処置なんて大したことなかったでしょ? ねっ? だから、これからもお兄ちゃんのこと、よろしくね」


 母も、私に犠牲になれと言った。


 私は自分の貯金と家にあった現金のすべて、着替えをバックパックに詰め、家を飛び出した。

 昼はあてもなく街を彷徨い、夜はネットカフェに泊まった。

 夜、目をつぶるとあの悪夢が甦り、深く眠ることができなかった。

 心に刻まれた黒い傷からは、穢れた闇が滲み出ていた。


 ネットカフェで偶然目にしたアダルト動画。

 あの夜の自分と重なった。

 あの時、自分が何をされていたのかを突き付けられ、私は嘔吐した。

 口から吐き出るおびただしい吐瀉物と共に、自分の価値が霧散していくように感じる。

 そんな時、心を埋めていく穢れた闇が私に語りかけてきた。


『あれは大したことじゃなかったんだよ』


 深夜、地域でも最大の繁華街に向かった。

 その中でも「劇場前」と呼ばれる広場には、行き場のない男女が昼夜問わずつどっている。

 コンビニの前で楽しそうにたむろしているひとたち、市販薬のオーバードーズでキマっている男、泥酔して地面に横たわり失禁している女。そして、金銭と引き換えに男たちへ一夜の慰めを与える女たち。

 私は空気が違うと感じて、数ブロック先の小さな公園にやってきた。繁華街から少し外れた場所のせいか、深夜の公園には人っ子一人いない。私はベンチに座った。


「ねぇ、キミはいくらなの?」


 しばらくすると、男性からそんな風に声を掛けられた。四十代くらいの太ったオッサンだった。無視してベンチから立ち上がろうとしたとき――


『あれは大したことじゃなかったんだよ』


 ――そうだ。あれは大したことじゃなかったんだ。うん、全然大したことない。もう一度やってみれば、それが分かるはずだ――


「ホテル代別で一万円。泊まりでホテル取ってくれるなら八千円。ゴムは絶対して」


 オッサンの顔にいやらしい笑顔が浮かぶ。

 オッサンは私の手を取り、そのままホテルへと向かった。


 私は『案件』に手を染めた。

 セックスなんて単なる粘膜の接触。大したことない。


 私は悪夢から解放された。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 家を出てから一ヶ月。

 ただ『案件』をこなす毎日。

 しかし、私は新たな悪夢に悩まされ始めていた。


 夢の中で、私は可愛い赤ちゃんを抱いている。

 やがて、その赤ちゃんは砂のように崩れ去っていく。

 泣きながら砂をかき集めた。でも、砂は砂のままだった。

 そこに、あの忘れたい兄の姿が浮かび上がる。


『オマエが殺したんだ!』


 そこで目が覚めた。

 心に刻まれた黒い傷は塞がっておらず、穢れた闇が溢れ出ている。


 私の心は、もう限界だった。


 ディスカウントストアへ向かい、なけなしのお金で出刃包丁を買った後、私は自宅へ向かった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一ヶ月振りの帰宅。

 家族全員皆殺しにして、ケジメをつけさせよう。

 そう思っていた。


『立入禁止 KEEP OUT ××県警 立入禁止 KEEP OUT ××県警』


 黄色いテープが貼られ、自宅の玄関が封鎖されている。

 どういうことか分からず、玄関前で立ち尽くす私。


「ヒロミちゃん? ヒロミちゃんじゃないの?!」


 後ろから女性に声をかけられ、振り向いた。向かいに住むおばちゃんだった。

 おばちゃんの話によると、私が家出した後、家からは毎日のように兄が暴れる音や声がしていたらしく、パトカーが来ることもあったとのこと。

 そして、半月ほど前、兄は父と母に刺殺され、その父と母は警察に通報後、並んで首を吊った。兄の遺体の損壊は激しく、もはや歯の治療履歴からでしか兄であることを証明できなかったらしい。

 父と母の遺書には、私への謝罪の言葉がつづられていたとのこと。


 私はその話を聞き、叫んだ。


「アイツら、逃げやがった!」


 収まらない怒り。膨れ上がる憎悪。

 もう私にはそれを解消する術がなくなったのだ。


 警察に行こうというおばちゃんを振り切り、私は走った。

 その後の記憶は無い。


「こんばんは。いくらだい?」


 ニヤけたオッサンに声をかけられて我に返ると、いつもの公園のベンチに座っていた。

 私はオッサンの手を取り、そのままホテルへと向かう。


 もうどうでもよくなっていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 『案件』を済ませ、今はホテルの一室にひとりきり。

 下品な内装と照明の安いラブホテルだ。


 ベッドに横たわる私。

 兄も、父も、母も、あの世に逃げ失せ、復讐する相手がいなくなった。

 身体と心を深く傷つけられ、命さえ潰したことのある汚れた魂を持つ私は、きっと死ぬまで悪夢にうなされ続けるだろう。


『生きてる意味、あるのかな?』


 心から溢れ出る穢れた闇が私に問いかけてくる。

 生きてる意味なんて、無い。

 それが私の答えだった。


 生きていく意味がなくなり、残ったのは苦しみだけ。

 私は自分の人生にピリオドを打つことにした。


 バックパックから昼間買った出刃包丁を取り出した。

 私はその刃を自分の手首に当て、躊躇なく包丁を引いた。


「痛っ」


 手首にまっすぐな傷が出来、血がツーっと流れる。

 これじゃ死ぬことは出来ない。

 もっと深く切らなければ。


 その時だった――


 手首を切った痛みと流れる自分の血。

 それを見て、私はあることに気がついた。


「私、生きてるんだ……」


 そして――


「……死にたくない……」


 心の中に溢れる穢れた闇を、生への渇望が覆っていく。


「死にたくない」


 胸が張り裂けそうな強烈な衝動に涙が止まらない。


「死にたくない!」


 顔を上げると、手首から血を流す自分の姿が大きな鏡に映っていた。


「じにだくない! じにだくない! じにだくないよぉ! うあぁぁぁ!」


 安いラブホテルの下品な内装の一室。

 私は体液で汚れたシーツを掴みながら、朝まで泣き叫んでいた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「かまってちゃんなの?」

「メンヘラってやつ? 何か流行ってるよね!」

「えー、それって地雷系とか?」

「死ぬ気なんてないんでしょ?」

「生きたくても生きられないひとがいるんだよ」

「娘や妹を心配しない家族なんてこの世にないよ!」


 私を蔑む空虚な言葉たち。

 誰も私のことは理解できないし、理解しようとしてくれない。

 いつかこの傷痕を理解してくれるひとと出会えるのだろうか。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一枚のキャンバス。

 私の唯一の持ち物。

 もうそのキャンバスは、私が描いた線でいっぱいだ。

 昨夜描いた線からは、まだクリムソンレーキの絵の具が滲み出ている。

 それでも私はそのキャンバスに線を描く。

 自分が生きていることを確認するために。

 繰り返し、線を描く。

 そうしないと、死んでしまいそうだから。


 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。

 私は線を描く。




 生きたい。


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