貴方の誓いと、想いの代わりに

「どう、し……て……おにい、さ、ま……」

 

 ルイーズは朦朧とする意識の中、兄の名を呼んだ。


「ダン・モルガン!一体これはどういうつもりだ!!! 実の妹を――……。なんてことを!」


 何が起きたものが分からず、動くことの出来なかったヴァージルは、ダンに向かって叫んだ。だが当のダンは、まるで気にしていない様子で、意識を失ったルゥを掴んでいた手を離して血溜まりの上に落とすと、激高するヴァージルを鼻で笑った。


「『妹』?」


 嘲笑うような声だった。


「ああ。そうだ。そのとおりだ。この女が妹だったばかりに、俺はこれまで辛酸を嘗めさせられた」

「なん……だと?」


 ヴァージルには、ダンの言葉が理解できなかった。


「彼女がお前に何をした。彼女はずっと、お前を慕っていただろう!!」

「慕っていた? ……ああ。お前には、そう見えたんだな」


「それ以外何が――」

「お前にわかるか。期待される妹と、お前と比較され、常に期待外れと言われ続けた俺の気持ちが!!!」


 まるで足元に落ちていた石ころを踏みつけるかのように、ダンはルイーズの腹部を踏みしめた。

 痛みに顔を顰めて、ルイーズが嗚咽を漏らす。


「お兄様お兄様と、いつも俺にまとわりついて。そのたびに、どれだけ俺が惨めな思いをさせられていたか、お前にわかるものか!」


 ダンの言う通り、ヴァージルにダンの感情はわからなかった。何故ならヴァージルにはこれまでのダンは、少なくとも妹に対しては友好的に見えたから。


「お前に、この世の真理を教えてやろう」


 ダンはそういうと天に手を掲げた。


「力を与えられ、手にした者が強いのではない。その力を、利用できる者が強いのだ」


「『利用』、だと……?」


「そうだ」


 ダンは静かに頷いた。


「ある日、デュアルソレイユへ繫がる抜け穴を見つけたんだ。しかし俺では、その『扉』をくぐることが出来なかった」


 ヴィクトリアは、デュアルソレイユの事件の犯人はずっとダン・モルガンだと思っていた。だから彼が『扉』を使えなかったと聞いて驚いた。


 セレネとデュアルソレイユを繋ぐ『扉』。

 本来それは現在カーライルによって『管理』されているはずだ。だが、『初代魔王ルチア』と縁を結ばなかった吸血鬼の城では、カーライルも管理が難しかったのだろう。

 そしておそらく、その『扉』によって、ヴァージルも行き来をしていたはずだ。


「しかし、妹にはそれができた。全く笑える。結局はこの世の不条理を覆すどんな機会を得ても、生まれながらの才能あるものに簡単に奪われてしまうのだ。才能、才能、才能! 生まれてからというもの、これまで何度その言葉を聞かされたことだろう!」


怒りと憎しみのこもった声。その声は、静まり返った場に高らかと響いた。


「だが俺は知ったのだ。教えてもらった。俺の力が及ばずとも、強い力を持つ者を、俺が支配してしまえば良いのだ。そしていつかその者よりも、強い力を手に入れて、そいつを殺してしまえば良い」


 ダンは、自分の足元でうずくまる妹を見下ろして言った。


「才能しか無い能なしは、利用するにはちょうど良いだろう?」


 そして、ダンは懐から中の赤い液体の入った小瓶を取り出すと、全て一気に飲みほした。


(血を飲んだ? どうしてだろう。なんだか、とても嫌な予感がする。……あれは、まさか人間の……!?)


 ヴィクトリアは目を疑った。

 何故ならダンの体が、めきめきという音を立てて変化したからだ。

 ダンの背中からは大きな黒い羽が生え、瞳は赤黒く染まり、腕は一回り大きくなったようにヴィクトリアには見えた。

 そしてダンの変化と共に、空には暗雲が広がり、ごろごろという雷の音が響いた。


「おおぅ……おお、おおおおおお!!!!」


 ルチアがもたらした『光』を覆う闇の世界に、まるで獣の咆哮のような声が響く。

 声と同時、魔力が空気を揺らし、風圧がヴィクトリアを襲った。

 

「わっ!」

「ヴィクトリア!」


 ヴァージルは、風に飛ばされそうになったヴィクトリアの身体を支えた。


「大丈夫か?」

「は、はい。ありがとうございます」


 人間の血を飲んで強化されたダンの魔力は、肉体には収まりきらず漏れ出し、周囲の空気を黒く染め上げてあた。

 重々しい空気だ。

 魔力の使えない今のヴィクトリアには、息をするのさえつらいほど。


「ははははは! 素晴らしい。素晴らしい!!! これで、この世界はこの俺のものだ! 俺の言葉だけが真実まこととなる。俺こそが、この世界の、月の世界の王になるのだ!!!」


「おにい、さま……だめ……」


 ルイーズは、血にまみれた手で兄の服を掴んだ。


「どう……して。変わってしまわれたのですか……っ」


 吸血鬼として、魔族として優秀な彼女は、それゆえに体を貫かれてもまだ意識はあったようだ。

 震える声で、必死に兄を止めようとする妹を、ダンはまるで愚かな道化でも見るかのような目で見下ろしていた。


「ルイーズ。――お前は、本当に愚かだな」


 ダンの声は冷ややかだった。


「まだわからないのか? 優しい兄など、最初からこの世界にはいなかった。あれは全部、お前を騙すためにしたことだ」


 兄の言葉に、ルイーズの瞳から光が消える。


「あの女とヴァージルの関係を知っても、お前は泣くばかりで、最後までこの女に手を出すのには反対していたな?」


 ダンは、ぐりっとルイーズの手を踏みにじった。


「あぁっ!」

「お前のそういう甘いところも、俺は、ずっとずっと嫌いだった。哀れみなど所詮、強者の特権に過ぎない。そうやってずっとお前も俺のことを、『可哀想』だとでも思っていたんだろう?」

「ちが、う。わたし、は……っ!」


 否定する妹の言葉を、ダンはもう聞きはしなかった。


「よく見ておけ。お前が罪を犯してまで尽くそうとした男が、俺に殺されるところをなあっ!」


 ダンは大きく羽を広げ、空へと飛び出した。


「死ね。ヴァージル!!!」


 ダンは自分の体に爪を突き刺すと、魔力を含んだ自身の血を飛ばした。その血は、周囲のものを切り裂きながらダンへと向けられる。


 ヴァージルはヴィクトリアの身体を抱き寄せると、背中から黒い羽をはやして、ヴィクトリアを守るように包みこんだ。

 その行動のおかげで、ヴィクトリアは無傷だった。

 だが――……。


「……っ!」


 吸血鬼の先祖返り。

 圧倒的な力を持っているはずのヴァージルは、ダンの攻撃を受け、痛みに顔をゆがめた。


「ヴァージルさん、怪我を……!」


 頑丈に見えた黒い羽は、傷を受けて内部をさらしていた。


(この様子、本調子とは思えない。それに、彼はずっと顔色が悪かった。もしかして、ずっと血を吸っていから……? どうしよう。いっそのこと私がヴァージルさんの血を吸って、戦うべき?)


 非常事態だ。

 でも、『魔王ヴィンセント』の力を解放すれば、ダンと戦うことは可能だ。


ヴィクトリアがヴァージルの怪我に手を伸ばそうとすると、ヴァージルは「はっ」と浅い息を吐いて、強くヴィクトリアの手を掴んだ。


「すま……ない」

「えっ?」


 ヴィクトリアには、ヴァージルが自分に謝罪した意味がわからなかった。

 ただその黒い瞳に後悔の色が見えて、彼女は動くことができなかった。


「私は、私はずっと、ただ一人の方を探していた。ずっとその方の魂を求めて、この五〇〇年を生きてきた」


 人間の血によって強化されたダンの血は、まるで毒のようにヴァージルの身体を蝕む。

 その痛みと心の痛みに耐えるかのように、ヴァージルはいつもより少し硬い表情で、それでいて『ヴィンセント』に対する幼い彼のように、どこか純粋さを感じる声で言った。


「あの日、君と出会ったとき、ずっと探していた方を、やっと見つけたのだと思った。記憶が無くてもそれで良かった。今度はこの命が尽きるまで、側に居たいと思った。だが……私が触れようとしたばかりに、こんなことになってしまった。最初から私が『誰か』を選んでいれば、きっとこんなことにはならなかった」

 

 吸血鬼の一族と魔王側との関係は、初代ルチアの時代から変わっていない。

 

「彼女の行動に気付いたときに、もっとはやく決断すべきだった。『花嫁』を選ぶ権利なんて、最初から私にはなかった」

 

 少しの沈黙の後、ヴァージルは言った。


「……君を。巻き込んで済まなかった」


 ヴァージルは涙を流してはいないのに、ヴィクトリアには彼が、泣いているようにも見えた。


「私……は」


 ヴィクトリアは、ヴァージルになんと声を掛けていいかわからなかった。

 ヴァージルが『ヴィンセント』を待っていたのなら、彼の判断に誤りはない。しかし、吸血鬼の花嫁は、吸血鬼のように『運命』を感じるわけではないのだ。だからヴィクトリアには、ヴァージルがそれほど自分に執着する理由がわからなかった。

 それは、ルーファスについても同じ。彼らが語る愛の言葉は、ヴィクトリアにとって理解できるようで遠いところにある。それこそが、吸血鬼族や金色狼の種族としての違いでもある。

 ヴィクトリアに、ヴァージルの本心こころはわからない。

――それでも。

 

(今は、そんなことどうだっていい)


 今のヴィクトリアはそう思った。


(もう何も、失わないって決めたのに。今度は、今度の人生こそは、誰かを信じようって信じようって決めたのに)


 ヴィクトリアは、傷だらけのヴァージルを見つめた。


(『人間』の私の気持ちなんて無視して、無理矢理に血を吸えば、本当の力を使えるのに)


 黒髪黒目の吸血鬼の力。

 それを使えば、灰色の吸血鬼など相手になるはずがない。


(でも、きっと彼には出来ない)


 今のヴィクトリアには、それが分かってしまった。

 遠い昔、自分が愛した、失った誰かの代わりに、この世界に花を咲かせる。

 彼は、そういう人だ。


(私、なんで迷ってたんだろう。信じるべき人は、もうとっくにわかってたのに)


 ヴィクトリアは髪を結んでいた紐をほどいて、首筋をヴァージルに晒した。


「あの日貴方が私に見せてくれた花の名前。どうして貴方がそのなまえをつけたのか、本当は私、ずっと昔に知っているんです」


「……何を」


 ヴァージルは、意味がわからない、という表情かおをした。


 ヴァージルは、『花嫁』だからヴィクトリアを選んだ。決して、『人間だから』じゃない。

 今この場においてヴィクトリアの血を吸うことは、『戦いのための強化のために血を吸うこと』は、彼のこれまでの人生を否定することになる。

 ――だから。

 

「あの日貴方が私に差し出した花も、あの花と同じ薔薇の花でしたね」


 ヴィクトリアは、『真実』を彼に話すと決めた。

 

「この五〇〇年、ずっと私のことを想ってくれてありがとう。――だから、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン」


 ヴィクトリアはそっとヴァージルの頰に手を伸ばすと、それからその唇に指を這わせた。


「私の血を吸って下さい」


 貴方の誓いと、想いの代わりに。

 私はこの血を、貴方に捧げよう――。


「――ヴィンセント、さま?」


 ヴァージルは、震える声でヴィクトリアの瞳を見つめて尋ねた。


「……はい」


 ヴィクトリアが微笑んで、返事をした瞬間。

 ヴァージルは一瞬泣きそうな表情かおをして、ヴィクトリアの首筋に牙を突き立てた。

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