2.蝉しぐれ
夏の終わりになると、思い出す景色がある。鳴き騒ぐ
茶色いイーゼルに、真っ青な空があった。そこだけ夏空を切り取ったかのような、真っ青と入道雲。ごうと風が吹き抜けていったかのような感覚と、その絵と向き合っていた彼女の白いシャツに包まれた小さな背中。
油絵具のにおいが、
こんにちは、先輩。今日も来たんですね。
それにどう返したのか、今はもう思い出せないけれど。ただそんな幻想は、まばたきひとつしている間に消えてしまう。
ビルの窓から切り取られた空は青く、入道雲が
ざわざわしている。腹の底で何かがざわめいているようで、どうしようもなく落ち着かない。鳴り響いた電話の音に受話器を取ろうとして、けれど他の誰かが先に出た。
「休憩、いただきます」
一声かけて、立ち上がる。時計の針はそろそろ長短どちらもてっぺんを示そうとしていて、昼食を食べるという名目で席を立っても誰も気にしない。
パンツの尻ポケットで、存在を主張するようにスマートフォンがふるりと震えた。
メッセージが一件あります。その名前も、内容も、どうせもう終わりに向かっていたのだと分かっていたものだった。
今回は少しくらい、長続きしたのだろうか。しばらく続いたのだから、これで紹介してきた友人の面目を潰すこともないだろう。
何が好きとか、何にも言わないじゃん。
それが、昨晩届いたもの。既読だけをつけて、スマートフォンをそっと引っくり返して眠りに落ちた。そして今はたった一言、別れようという言葉の羅列。
エレベーターを降りて、会社の裏手にある公園に足を向けた。何かを食べるような気にもなれず、公園のベンチに座って空を見上げる。
青い空だ。夏の空、
「……あーあ」
別に長続きすると思っていたわけでもない。どうせこうなるだろうなと、分かり切っていたことだった。それでも友人がどうしてもと言うから、付き合ってみただけのこと。
それにしたって、勝手だ。勝手に好きになって、勝手に幻滅して、一方的に別れを告げて。何か好きなものはないのかと問われて、
好きなんてことば、口にするものじゃない。
スマートフォンの画面に表示された今日の日付に、目を伏せた。今日は八月二十二日、あと一ヶ月。あと一ヶ月でまた、あの日がやってくる。
目を閉じる。思い出したのは、真っ青な空。それは窓枠に切り取られたようなものではなく、茶色のイーゼルの上、カンバスに描かれた
ただその遺伝子を遺すために、種の存続をするために、ただそのためだけに鳴き騒ぐ
夏の終わり、アスファルトの上には
この絵が好き。きみの描く絵が好き。
好きだと口にした最後の記憶が、ただ脳の中に情報として居座った。
あの子はいつも美術室にして、風景ばかりを描いていた。茶色のイーゼルの上に白いカンバス、油絵具のにおい。白くて細い腕からは、汗が伝って落ちていった。
ひとつ年下の後輩は、ほっそりとしていて白かった。冷房もかけない美術室で、汗を
空の絵を見た時に、気付けば言葉はするりと口から滑って落ちていった。その絵にあの子は、はにかんだように笑っていた。
先輩。
あの日。
九月二十二日。黒い服を着た。黒い靴を履いた。首のところにあったのは、彼女ほどには白くない、真珠だった。
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