第18話 記憶


「……ごめんなさい、お待たせしてしまって。私なりに色々と考えてみたのだけれど、結論からお話しするわね。正直言って私の催眠療法では、如月君の記憶を戻すのは難しいと思うわ」


 その黒木先輩の言葉に、ユウは心臓をギュッと握らる感覚を覚えた。それは心のどこかで、この人なら今の状況を変えてくれるのではないかと期待していたからだろう。


「そ、そんな。紅葉ちゃんなら何とかならないの?やってみないと分からないじゃない。私の時みたいに……!」


「いずみちゃん、落ち着いて。今から何で難しいのか、ちゃんと説明するから」


 隣で金森が必死に頼み込んでいたが、先輩の言葉にグッと口を噤む。


「まず、記憶について簡単に説明するわね。記憶はそれまで、その人が生きている中で経験した出来事や情報を、それぞれの頭の中で小さな引き出しの中に整理されながら保存されていくの。そして必要な時にその引き出しを開いて、その情報を使う。

 だけど必要な情報だけでなく関連した情報は繋がっていて、本人が望もうが望まなかろうが一緒に開いてしまうの。……いずみちゃんの時のようにね」


 隣で金森が、黙って頷いている。


当時……交通事故に遭った金森は、全ての車に対して恐怖を感じる様になってしまた。だが実際に金森を撥ねた車は一台だけであって、他の車は色も形も違う別の車だ。同機種の同じ色の車だけならまだしも、車全体に恐怖を感じるようになったということは、今、先輩が説明した関連した情報…… つまりは他の車を見ることで、本来直接的に関係のない金森を撥ねた車の記憶の引き出しも開いてしまって、恐怖を感じてしまうということが金森の頭の中で起こっていたのだろう。


「あの時、私がいずみちゃんに行った催眠療法は、事故の記憶を消す事ではなかったの。車というキーワードから、事故という引き出しを切り離したのよ」


 隣で金森が、ハッと声を上げた。確かに金森は、事故の記憶を忘れた訳ではなかった。思い出したくもないが、今でも当時の恐怖は鮮明に思い出す事が出来るのだ。


「人の記憶は、消すことは出来ないの。思い出せなくても、引き出しの奥で眠っているだけ。思い出しにくくすることは出来るけれど、いつか何かの拍子にその引き出しが開いてしまうかもしれない。だから私は、頻繁に目にする車というキーワードから事故を関連付けさせないようにしたのよ」


 ……成程。黒木先輩の説明は、納得出来るものだった。


 しかし驚いたのは当時小学生だった先輩が、そこまで考えて催眠療法を行っていた事実だ。よほど催眠について知っていなければ、思い付きもしない方法だろう。


「ここまでの説明で記憶がどんな風にストックされていて、どんな風に思い出したり、また引き出しにしまわれているか何となくイメージ出来たかしら?」


 二人がと頷くと、先輩はユウの記憶障害についても分かり易く説明をしてくれた。


「では、如月君の記憶を思い出すってケースで考えてみましょう。先程、話した様に記憶は消えることはないの。思い出せないとしても引き出しの中で眠っているだけで、無くなった訳じゃない。だから催眠療法で思い出す事は可能よ」


「……じゃあ! じゃあさ、紅葉ちゃん。如月くんの記憶を戻せるんだね!?」


 その話を聞いた金森の顔に、パッと希望の光が灯る。しかしその希望の灯は、直ぐに消えることになった。


「いずみちゃん、慌てないで聞いて……

 だけど如月君の場合は大きな問題がある。それは眠っている情報量が多すぎるってこと……。如月君に限らず、人の頭の中には数えきれないくらいに記憶の引き出しがあるの。もちろん、まだ使っていない引き出しも沢山あるけど、すでに使っている引き出しだけで数えられないくらいよ。

 そして問題なのは、実際に経験した出来事の記憶の引き出しと、情報として取り入れただけの記憶の引き出しが、如月君の頭の中でゴッチャゴッチャになって眠っているいる。と、いうこと……」


「どういう事ですか?」


「つまり貴方が実際に体験した出来事を経験と表現し、テレビや映画、本などで知っただけの出来事を情報と表現した場合。もし記憶が戻った時に、ただ情報として知っていただけなのに自分の経験として認識してしまう恐れがあるってこと。

 ……例えば、ただ映画を観て体感しただけの情報を、あたかも自分で経験したかの様に認識してしまったらどうなると思う?」


「頭の中が混乱して、どれが今までの自分の経験なのか分からなくなると思います」


「……そうよ。そうなれば記憶を忘れている今よりも、もっと酷い状況になるわ。

それこそ人格が崩壊してしまう。

 日々の中で私達がそうならないのは、毎日入ってくる経験や情報を無意識に整理しているからなの。眠っている時にみる夢も、その為だと言われているわ。

 でも、もし如月君の16年分の記憶が一気に目覚めたとすれば、経験と情報の整理が追い付かず、さっき言った最悪の結果になる可能性も十分に考えられる」


 話を聞いていて、ユウはゾッとした。


 確かに黒木先輩の言う通りだ。16年分の記憶が一気に戻ったとしたら、ちっぽけな今の自意識など膨大な記憶に呑み込まれて、すぐに崩壊してしまうだろう。


 そして後に残るのは、哀れな一人の廃人だけなのだ。

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