第97話 ……そいつ。
―― 手紙を届ける、一週間前の出来事 ――
水崎翔子は、夢を視た。
青く晴上がった空。昔、よく家族で海水浴に行った砂浜で翔子は当時の姿のまま、波打ち際を歩いている。
「姉ちゃん、待ってよ!」
「優樹!あの岩場まで競争ーっ!」
「あっ待って、姉ちゃん!ズルだよ!」
翔子が笑顔で駆け出すと、優樹は一生懸命に姉の背中を追いかけた。
そんな二人の姿を、父と母が嬉しそうに見つめていた。
「……………」
翔子は、ベッドの上で目を覚ました。
もぞもぞと掛け布団の中で向きを変えながら、枕元のデジタル表示の置時計に目を移す。……時刻はAM10:08。
その表示を確認して、翔子はガバッと掛け布団を跳ねのける。
―――10時? 嘘、……だろ?
驚いてもう一度確認したが、間違いなく時計は午前10時8分を表示していた。
―――ここ数年。
弟の優樹が亡くなった時から、翔子は3時間以上、眠ったことは無かった。自然と、目が覚めてしまうのだ。例えば午後11時に眠りに就いたとしたら、遅くも午前2時には目が覚めてしまう。再び眠りに落ちようと願っても、その願いが聞き届けられる夜は来なかった。
昨日――警察の拘留所から解放されて、久しぶりの自宅に戻ってきたのは午後8時過ぎだった。それからシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだのは午後10時過ぎだった筈だ。
―――ざっと12時間、眠っていた計算になる。
チッと舌打ちをして、翔子はベッドから飛び起きた。夢を視たのなんて久しぶりだった。最後に視たのは、いつだったか――?
……嫌な、夢だった。
中から追い出す様に頭を何度も振りながら、翔子は顔を洗おうと洗面所へと向かった。そして冷水で寝ぼけた思考を洗い流そうと、バシャバシャと顔を叩く。
水滴が滴り落ちる鏡に映った自分。その瞳の中をじっと見つめていると、脳裏に浮かんできたのは―― あの日の出来事と、あの鳶色の瞳だった。
黒木紅葉―――
あの
正直言って自分より強い女が、この世の中にいるとは思っていなかった。そんな自惚れを抱く程に、自分は鍛え上げてきたし自信もあった。しかし――あの
―――次元が、違う。
そう感じた。あの
「………化け物、かよ?」
そう鏡の中のあの
あんな化け物が、この世の中には他にもいるのだろうか……?
それから火東の死も、翔子にはショックな出来事だった。
―――この手で!ぶち殺してやりたかったのにっ!
あと一歩だった。あと一歩で、その願いは叶った筈だ。
「―――ッ!っきしょう!」
しかし、目の前の鏡に拳を打ち込もうとした翔子の手は止まる。
―――今日は、優樹の命日。
六回目になる弟の命日。オカ研の連中が言っていた戯言が、本当だとは思っていない。ただ…… ただ、もし本当だとするなら、きっとあの子は、そんなことをしても喜ばないだろうと思った。
何とか気持ちを落ち着かせて、歯ブラシでシャコシャコと歯を磨く。そして磨きながら翔子は、ここの処ずっと考えていたことを……また、考え始める。
…………あたし、これからどうしたらいい?
もう……高校に戻るつもりはなかった。と、言うより、生きていく気力がまるで無くなってしまった。
……何も、無い。生きている目的と目標が、無くなってしまった。
ずっと心を突き動かしていた、復讐が終わりを迎えた。……それも果たせたのか、果たせなかったのか、自分でも分からない。ただ間違いなかったのは、大切な家族が誰一人もいなくなってしまったという事実だけだった。
この世界でただ独り、天涯孤独な身の上になって、何をすればいいの……?
今までは、目標があったからこそ独りでもやって来れた。だが、今は何もない。
部屋の中を見回す――
三年間、ここで生活してきたが、無機質で生活感がまるで無い部屋だ。
ただ、必要最低限な家具が置いてあるだけ―― それだけの部屋。
三年前、翔子は引き取り先になっていた親戚の家で、虐待を受けていた。それを見かねた空手道場の主で師範でもある小野涼太の義理の父親が、翔子の身元引受人になってくれた。そして、このマンションの経営者でもある師範が、翔子に提供してくれたのが、この部屋だ。
それ以来、翔子はこの部屋で独りで生活をしてきた。
時折、翔子を心配して様子を見に来る涼兄と、師範とその妻(涼太の実母)以外、来客する人もいない。
その無機質な部屋と、自分自身とを重ねながら…… 翔子は、ボーっと室内を見つめていた。
『ピンポーン……』
そんな時、突然に来客を知らせる呼び鈴が鳴り、ビクリと翔子の身を震わせる。
……誰?
訝し気に思いながら、翔子は寝起き姿のまま玄関へと向かった。
如月ユウは、水崎翔子の住むマンションの部屋の前で、一人立ち竦んでいた。
水崎が、この部屋で一人で暮らしていたことをユウは最近知った。
一人暮らしの女性の部屋を訪れるのは、男の身としてはやはり抵抗がある。それに水崎とは、あの廃ビルでの一件以来の再会である。
………とっても、気まずい。
勇気を振り絞って足を運んだものの、やはり呼び鈴を押すのは、それ以上の勇気が必要だった。
今日は日曜日で、オカルト研究部の活動は休みだ。ここの処、部は
各々、今日は部活動の事は一切忘れて身体と頭を休める様に――との、部長からの強いお達しだ。彼女なりの気遣いなのだろう。
昨夜、水崎が警察から戻ってきたこと、優樹くんの命日が今日であることを知ったのは、今朝だった。担任の天野先生が、知らせてくれたのだ。
ユウ達が水崎のことを心配していることを天野先生は気付いていたのか分からないが、その内容を知らせると、黒木達と金森には、もう連絡してあるから…とだけ言って一方的に電話を切られてしまった。
三人と連絡を取って一緒に行こうかとも考えたが、昨夜の疲れきった彼女達の姿を思い出し、連絡するのを思い留まった。
そしてユウは今、一人で水崎翔子の部屋の前に立ち竦んでいる。
ゴクリと唾を飲み込み、意を決して呼び鈴を鳴らす―――
暫くするとガチャリと扉が開き、顔を覗かせたのはキャミソールとショートパンツという大変ラフなお身なりで、明らかに機嫌が悪そう……な、彼女だ。
「……如月かよ。何の用?」
そんな彼女が悪い機嫌を隠す様子もなく、ジロリとユウを睨みつけている。
いえ、何でもないんです。失礼、致しました……。と、逃げ出しそうな弱い心を、ユウは何とか抑え込んだ。
「……今日、優樹くんの命日だろ?お参りさせてくれないかな?」
暫くの間、頭の先からつま先までユウを訝し気に見つめていたが、「入りなよ……」と言って、彼女は玄関の扉を開いた。
「……し、失礼しまーす」
そんな風に小さな声で挨拶をし、ユウはおずおずと玄関へと入った。
彼女に続いて室内に
……その横には、海水浴を楽しむ家族写真。その頃の幼い彼女が、笑顔を向ける。
ユウは持参した花束を仏壇の前にそっと置くと、線香に火を灯した。そして…… 静かに手を合わせる。
どれ位、手を合わせていただろうか。
手を合わせている間、ユウは優樹にずっとお願いをしていた。
―――優樹くん。
少しだけ、力を貸してくれないかな?
お姉ちゃんの為に―――
お参りを終えると、ユウは斜め後ろで正座しながら待っていた彼女に向き直った。
「ありがとう、如月」
「いや、これも何かの縁だし。こちらこそ、突然来たのにお参りさせてくれてありがとう」
そう言って水崎に頭を下げると、ユウは話しを切り出した。
「―――なあ、水崎。学校には何時から戻って来れる?皆、待ってるぞ?」
「―――あん? おい如月、皆って誰だよ?こんな事件を起こしたのは、皆、知ってるんだろ?誰も……待ってやしないさ。
それに、あたしは学校の奴らが大嫌いだしな。もう分かってんだろうが、お前!」
と、卑屈な笑いを浮かべた彼女が言う。
「決まってるだろ!他の奴らは知らないけど、金森や春日、青葉や黒木先輩は少なくても待ってる。―――それから、俺な!」
だからユウは、これ以上ない真剣な眼差しを彼女へ向けた。
そんなユウの様子を見ていた彼女は、大袈裟な溜息を付いた。
「……お前らさ、本当の馬鹿なのかよ?私にあんな事されて、よくもまあ……そんな台詞が言えるよな?どいつもこいつも……、朝っぱらから同じ様な台詞を言いに来やがってさ!」
と、お手上げのポーズをする彼女。
「…………朝っぱら、から?」
今は、昼過ぎだった。
「ああ!今、お前が言った台詞を言いに、金森や黒木姉妹が朝から来たよ!それにその後には、天野の奴も来たんだ!
学校には話を付けてあるから、心配せずに来いだ?あいつ、余計なお節介しやがって…… あたし、もう行くつもりないのに、あんな場所………!」
そっか、みんな来てたんだ……
心の中でだけ笑みを浮かべながら、ユウは話を続けた。
「そうなのか?じゃあ、尚更来いよ。それとも学校を辞めて、何かやりたい事でもあるのか?それなら、仕方ないけどさ……」
その言葉に、内心ドキリとした翔子だったが、お前には関係ないだろ……と、毒を吐いて誤魔化した。
「まあ…… 少し身体を休めるのは良いことだと思うけどさ、休んだら来いよな、絶対に――」
そう言うとそいつは、大きなビニール袋を差し出してきた。
「―――ッ!だから如月!お前には、関係ない!」
そのビニール袋を叩き落としながら、翔子はそいつに怒鳴り声と苛立ちをぶつけ、睨みつけていた。
「もう帰れっ!二度と来んな!」
「……分かったよ、今日は帰る。 ――またな、水崎」
そう言うと、そいつは立ち上がって玄関へと歩き出した。
「てめぇ!人の話、聞いてるのか!?二度と来んなって言ったんだ!分かった!?」
背中に怒声を受けながら、そいつは片手を挙げて、それに応えやがった。
「前にも言ったでしょう!お前らに、あたしの何が分かるっての!?知った様な、顔しないでよ!」
苛立ちが治まらず、翔子は玄関で靴を履いていたそいつのところに、ドタドタと駆け寄って叫んでいた。
「……そうだな。俺達は、水崎のことを何も知らないもんな。だから、これから知っていくんだろ? ……お互いに、さ」
そいつの予想外の言葉に、翔子は上手く言葉が続かなくなってしまった。
「お前、何を言って……?」
「だから……さ。 俺たちは、お互いに知っていくんだよ、これからさ?」
そいつは、もう一度同じ台詞を言った。
「―――水崎。俺は、お前のことを何も知らない。お前と……お前の家族の苦しみが分かるのは、お前だけだよ。だけどさ、一言だけ言わせてくれないか?」
そいつはチラリと翔子の太腿に視線を送ってから、瞳の中に全てを向けてきた。
「―――もう、許してやれよ」
「――ッ!あのクソ野郎を、許せっての!?」
「違う、火東の事じゃない。俺が許してやって欲しいのは、お前のことだよ」
「お前、なに言って…………?」
「もう許してやれよ、水崎。 ―――もう、自分のこと許してやれ」
そう言うとそいつは、悲しそうに微笑んだの。
「…………それからさ、ちゃんと飯食えよ?」
一人残された翔子は、暫く玄関で立ち尽くしていた。
誰も居なくなった玄関で、何も言えずに…… ただ、立ち尽くしていた。
我に返り、玄関の鍵を閉めてリビングへとヨロヨロと歩いていく。そして小さな小さな仏壇の前で、力なく座り込んだ。
翔子の頭の中で、そいつに言われた言葉が、何度も何度も繰り返される。
”もう自分のこと、許してやれ”
ふと、リビングに置いてある鏡に写っている、自分に目が留まった。
そこに映っている自分は、背中を丸め、力なく……情けない姿。
自然と、涙が溢れ出した。止めどなく流れる涙で頬を濡らしながら、翔子はうーうーと嗚咽した。
……許せ……ない。許せ……る、はず……ない………。
心の中で叫びながら、翔子は太腿の付け根を何度も何度も殴り続けた。その部分の皮膚は長年に渡って殴り続けたせいで、青黒く変色している。もう元に戻る事は無いのでは………と、思えた。
「あたし……!あたしは、お姉ちゃんなのにっ!優樹を守れなかったの!お父さんも、お母さんも……っ!大好きだったのにっっ!大切な家族なのにっっっ!守れなかったの!許せない―――!許せるはずないよ―――ッッッ!」
―――どれだけの間、そうしていただろう?
叫び続けていた翔子は、そのまま床に倒れ込んだ。荒い息のまま何とか横になると、目の中に入ってきたのは、そいつが置いていったビニール袋だ。その袋の中から飛び出して床に散らばっていたのは、沢山のゼリー状の栄養剤や栄養食、カップ麺だった。
翔子はヨロヨロと立ち上がると、床の上に散らばったそれらを袋の中へと戻した。そして、おぼつかない足取りで洗面所へと向かう。
そして―――
棚に入っていた鋏を手に取ると、それを自分の首筋に押し当てた。
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