第61話 幸せの記憶


 青く高い空が広がっている。


 気持ち好く降り注ぐ太陽の光の元、小さな白い雲がゆっくりと流れては目の前に続く青々とした芝生の道に時折影を落としていく。


 左手には石垣の土手があり、右手からは水の流れが奏でる優しいせせらぎの音。



 10m程先だろうか…… 小さな人影がぽつんと一人、こちらに愛らしい笑顔を向けて立っていた。色白の肌に薔薇色のほっぺ、まん丸とした顔に、もしゃもしゃの寝癖が残る髪。まるで天使の様に可愛らしい男の子。


 俺が芝生の上に座って両手を広げると、まだよちよちした足取りで一歩一歩近づいて来たその子は、満面の笑顔を浮かべながら胸の中へと飛び込んできた。

 

 男の子は甘いミルクの香りして、俺はその香りを胸いっぱいに吸い込む。


 それは俺にとって他の何にも代えることが出来ない、しあわせの香りだ。





 ………………目を、覚ました。


 そこは家のリビングルーム。座り慣れたソファーに体を預けながら、ユウは天井をぼーっと見つめる。


 意識がしっかりしてくると、自分を心配そうに覗き込む三人の顔がある事に気が付いた。


 ユウはハッとして、上身を起こしながら慌てて自分の顔を弄った。涎でも垂らして寝こけていたら、本当にハズイ。


「すみません。俺、寝てしまったみたいで……」


「大丈夫よ、如月君。寝ていた訳じゃなくて、貴方は催眠状態だったのよ」


 三人の内の一人、黒木紅葉が優しくユウの肩に手を置いた。


「……催眠?って事は先生、俺はやっと催眠に掛かったんですか?」


 彼女は頷くと「ええ、催眠状態になったわ。気分はどう?頭は痛くない?」と言った。


 水崎の件が落ち着くと、ユウ達は本格的に記憶を取り戻す為の練習を始めた。


 催眠術の基礎知識を勉強することから始まった彼女の授業。その中で実際に催眠にかかる経験をしてみることになった。紅葉がユウに催眠を掛けて、催眠状態とはどういうものなのか、実際に体験してみようというのだ。


 だが、そこで問題が発生する。催眠を掛ける事に慣れている筈の彼女が催眠を行っても、ユウは催眠状態にならなかったのだ。彼女曰く、稀に非常に掛かり難い性格の人がいるらしいが、どうやらユウはその性格らしい。何故なら水曜日から始めて金曜日までの3日間、毎日催眠を試みたのだが何の反応もみられなかったからだ。


「……腕が、落ちたのかしら?」


 不思議そうに頬杖を付きながら、小首を傾げる紅葉。しかし試しにと毎日部室に顔を出していた金森いずみに催眠を掛けてみると、コロリと催眠状態になった。

 それから何度試してみても、彼女はいとも簡単に催眠に掛かってしまうではないか。


「何だかわたし、バカみたいだよ……」


 最後は涙目になりながら必死に催眠に掛からない様に抵抗を試みていた彼女だったが、それは全く無意味な抵抗に終わる。


 「いずみ…… 逆に大丈夫?」


 彼女の将来が心配になり、思わずユウはそう声を掛けてしまった。


「……ユウくん。違う、違うの!わたし、そんなんじゃないから…… お願いだから、そんな目で私を見ないで……」


 おいおいと泣きながら、いずみは青葉に抱きついていった。


 そんないずみを優しく抱きしめていた青葉だったが、紅葉と目が合うと慌てて視線を逸らした。


「……ねえ、青葉」


「……私、絶対に嫌です」


「ふふっまだ、何も言っていないじゃない」


「姉さん、わたし…… ぜったいに、ぜったいにいや……」


「如月君の…… 仲間の為なのよ。協力してもらえないかしら?」


 優しい微笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてくる姉の言葉に、ううっ……!と、苦しそうな呻き声を上げた青葉だったが「ユウ、ごめんなさい。私には…… 無理です」との言葉を残し、彼女は部室から逃走した。



「あらあら、あんなに怖がらなくてもいいじゃない。よっぽど如月君に、醜態を晒したくなかったのね。ふふっ青葉ったら、可愛いわ」


「紅葉ちゃん!お願いだから、醜態とか言わないでえぇぇ~!」


 そして両手で顔を覆いながら、おいおいと泣き出してしまったいずみ。修羅場の様になってしまった部室に大きな溜息を付いてから、ユウは紅葉に声をかけた。


「どうやら、先生の腕が落ちた訳じゃなさそうですね。どうしたものか……」


 少しの間、考えていた紅葉だったが、


「……後は、如月君が催眠に掛かり易い状況を作るしかないわね。貴方が一番気持ちが落ち着く場所でリラックスして行うと、催眠が掛かり易くなるの」


「俺が一番落ち着く場所ですか? ……俺の家とか、ですかね?」


 その言葉を聞いた紅葉は、パチンと指を鳴らした。


「それね!丁度、明日は土曜日で休みだし、如月君がよければお家にお邪魔してもいいかしら?」


「別に構いませんけど、逆にいいんですか?休みの日まで……」


「ふふっ、貴方の為だもの勿論いいわ。それに将来の事も考えれば、御両親と妹さんにちゃんと御挨拶しておくのも、大切なことだものね」


「将来のこと……?」


 気のせいだろうか? 訝しげに尋ねたユウの問いに今、一時ひとときだけ鳶色の瞳が揺れた気がしたのだが?


「……何でもないの。部長として、ちゃんと挨拶しておかないと、と思ったから」


「ああ、そういうことですか。そんな必要ないと思うけど、そんなもんなんですかね?でもたぶん、明日は俺以外は誰も居ないと思いますよ。うちは母だけの片親で、母は土曜日は仕事なんです。妹も部活で留守ですし」


「そ、そう残念ね。でもその方が落ち着いて、催眠に集中出来るかもしれないわね」


「……そうですね。それじゃあ先生さえよければ、お願いします」


「ふふっ、分かった。任せてね如月君」


 そうやってトントン拍子に話が進んでいき、明日の土曜日にユウの家に紅葉が赴くこととなったのだ。


「わ、私も一緒に行ってもいいかな!?」


 そしてその突然決まった家庭訪問に、もちろん泣き顔のままの金森いずみも同行者として手を挙げた。

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