第37話 声

 彼女はユウの右腕に優しく触れながら言った。そしてそれにユウは、小さな頷きで応えた。


「……ありがとう。話は以上よ。さあ、居間に戻りましょう。いずみちゃんが、やきもきしているわ」


「別に、やきもきなんて、していないと思いますけど?」


「ふふっ、ならいいけれど。そうだわ、如月君の生年月日を教えてくれる?」


 また唐突だな、この人は。


「いいですけど、何でですか?」


「占ってあげる。……ねぇ、如月君は私たちの相性なんて知りたくなぁい?」


 悪戯な微笑みでからかってくる彼女に、ユウは溜息を返す。


「……確か、7月7日生まれです」


「7月7日ね。ふふっ、七夕生まれなんてロマンチックなのね。生まれた時間も分かるかしら?」


「すみません、分からないです。正直言うと、生年月日も家族から聞いただけで、確かそう言っていたなと……」


 ユウは答えながら、苦笑いを浮かべた。自分の誕生日すらあやふやだなんて、何とも情けない話ではないか。


「そう、分かった。私はちょっと占ってから戻るから、先に居間に戻っていて」


 ……あれは何だろうか?紅葉は机に座って、何やら円の様な図形が書いてある紙に向かい始めた。興味はあったが邪魔する訳にもいかないので、出口に向かってユウが歩き始めた時だった。


「……抱いて」


 直ぐ近くで囁かれた、小さな声。 ……今のは、女性の声だ。


 ドキッと胸が高鳴り始める。何故なら、この部屋に女性は一人しかいないからだ。


 足を止め彼女を振り返った。しかし彼女は机に向かっていて、その美しい後ろ姿しか見ることは叶わなかった。 ……まさか、ね。と思う。それともまた、彼女の悪い悪戯が始まったのだろうか? それとも……それとも、まさか。


 ドキドキしながらしばらく待ってみたが、彼女からの反応は無い。なんだやっぱり空耳かよと一瞬でも邪な期待に胸を膨らませた自分自身をポカリとして、ユウは再び歩き出そうとした。


「ねえ、抱いてってば……」


 しかし今度はハッキリと、女性の聞こえた。静まり始めていた胸の鼓動が更に早くなっていく。それに耐えられなくなったユウは、背中を向けたままの彼女に声をかけていた。


「……せ、先生? 今、何て言いましたっ!?」


 ユウの問いかけに、彼女が顔を上げてこちらに視線を向けてくる。だがそこに悪戯な笑顔は無く、少し小首を傾げた仕草が悪魔的に可愛いだけ……


「……如月君、どうかしたの?私、何か言ったかしら?」


「いや、今……」


 いや、あんた、いま、だってさ……!  しかし言葉は続かない。


 だがこの部屋にはユウと彼女の二人しかいないのだ。だとしたら先程の言葉は彼女が発した、ということである。ここは一つ、彼女の為にも男をみせるべきなのか!?


「ねえ!抱っこしてよ!」


「ほぉおおっ!?」


 そんなこんなでユウの胸の鼓動が限界まで達した時だ。唐突に足元から声を掛けられて、ユウは飛び上がる程に驚いた。声の方に慌てて視線を向けると、そこにはじっとユウを見つめるイヌさんの姿。


「私の声が聴こえてるんでしょ?ねえ抱っこしてよ、ユウお兄ちゃん!」


「うおおおおっ!?」


 そしてイヌさんは、有ろう事かユウに話し掛けてきたのだ。その瞬間、ユウは思わず扉まで後退ってしまった。



 マジか……


 イヌさんが喋っているのか? 犬がしゃべる? 馬鹿な……


 いやいやちょっと待てって!そんな訳あるか! これ先生の手の込んだ悪戯なんじゃないのか? でもどうやってんのこれ? ……腹話術なの?


 そんなことを頭の中でぐるぐると考えながら紅葉の顔を見ると、彼女は驚いた顔をし ている。そして徐に立ち上がって、こう言ったのだ。


「如月君。貴方もしかして、イヌさんの言葉が分かるの?」


 ……言葉だって? イヌさんの?


 頭が混乱していた。先生の悪戯じゃないのか?


「そうなの紅葉。ユウお兄ちゃんはね、私の言葉が分かるんだよ。だって私の運命の人だもん!」


 ま、またしゃべった……!


「質問に答えて、如月君! 貴方、この子の言葉が分かるのね!?」


 紅葉がいつになく真剣な口調で聞いてきた。その声でユウは少しだけ我に返る。


「……はい。多分、分かります。先生にも聴こえているんですか?」


「私には、ただの鳴き声にしか聞こえないわ。キューン、キューンってね。家族の中でも、この子の言葉が分かるのは青葉だけよ」


「……先輩が?先輩はイヌさんと話せるんですか?」


「ええ、いつも二人で話しているわ。我が家では日常の光景なのよ」


 先輩は犬と話すの?やっぱり、あの人は人間じゃないじゃないか!って俺もか!?


 などと頭の中で一人ノリツッコミを繰り広げていても、話は纏まらない。話せるってことは、こちらの言葉もイヌさんに届くのだろうか?混乱する思考の中で、やっとその考えに辿り着いたユウは思い切って自分につぶらな瞳を向けてくるイヌさんに話し掛けてみることにした。


「……えーと、イヌさん。俺の言葉が分かりますか?」


 我ながら、阿呆な質問をした。


「うん!分かる!……やっと話せた。私ね、お兄ちゃんとなら話せると思ったんだ」


 そしてやはり、ギョッとした。



「……じゃあ、そういうことで。 俺、先に居間に戻ってますんで……」


「待ちなさい!」


「あん!お兄ちゃん待ってよ!」



 驚いたので、いそいそと部屋から出ていこうとしたユウだったが、結局二人から強く止められて渋々部屋に居残ることになってしまった。

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