虹恋、オカルテット

虹うた🌈

第1話 ある雪の日の出来事



         プロローグ



 大晦日の夜から降り始めた雪は、辺りを雪景色へと変えた。


 数年に1度の寒波とやらが居座り、数日前に積もった雪が未だに溶けずに寒々とした、そして美しくもある景色を保ち続けている。


 今日は1月5日、仕事始めの日だ。


 男は、朝から取引先へ酒やタオルを持って新年の挨拶へ回っていた。このご時世で時代遅れの気もするが男が住む地方都市では、まだまだ欠かすことの出来ない習慣である。朝から十数件の取引先を回り、残すところあと数件であったが男は焦っていた。


 先程から空模様が気になっていたのだ。朝は晴れていた空が段々と曇りはじめ、今では鈍色へと変わっている。


 男は北北東の空をじっと見つめる。同じく鈍色の雲の中に、赤?いや赤紫のモヤがかかっているのが見える。夕焼けの色ではない。もっと重々しい色だ。何かとてつもない力を秘め、雲自体がぼんやりと光っているようだった。その重々しさの中に、悪意すら感じるそんな雲だ。


 とてつもない怪物を連想して、男は身震いをした。


「相当、ヤバいのが来るな」


 そう呟くと、男は吸っていた煙草を灰皿に押し付け相棒のワンボックスカーへと歩き出した。




 男が挨拶回りを終え、会社に着いたのは午後6時頃だった。


 小1時間程、書類仕事をして会社を出ると、外はまさに大雪だった。この分では、あっという間に降り積もるだろう。車のエンジンを回して帰路を急ぐ。


 だが急ぎつつも、男の運転は慎重だった。寒波の影響で、道路のアイスバーンは溶けきっておらず、急な大雪で、その上に雪が積もっている。今、いかに危険な状況なのか、長年の経験で男は分かっていた。雪国なので、もちろんスタッドレスタイヤは履いているが、滑りにくくなるというだけで決して滑らないわけではない。

 ゆっくりとしたスピードで車を運転する。周りの車も、いつもより遅いスピードで運転しているようだった。


 家路の半分程へと差し掛かった頃だろうか、片側二車線の道路の左側を走行していた時の事だ。右手を、ものすごいスピードで追い越していく車があった。


 黒塗りのSUVタイプ。外車の様だ。この悪路を正気の沙汰とは思えない。


 すると少し手前の信号が赤に変わり、SUVのテールランプが赤く点灯し停車した。

 男もゆっくりとブレーキを踏み込み停止する。


 ちょうど隣になったSUVの運転席をちらりと見ると、運転しているのは若い女性の様だった。まだ二十歳そこそこだろうか?忙しくスマホを弄っている。


 ……無理もないな


 ここ数年続いた暖冬のせいで、冬が厳しいこの辺りも雪が積もるどころか凍結すらしなった。運転して間もない若者が、冬道の怖さを知らなくても無理はない事だった。


 だが、今年の冬は違う。


 きっと彼女も怖い思いを何度もする事だろう。その体験で、取り返しの付かない事にならなければよいと思う。


 軽くクラクションを鳴らして、こちらを向いた女性に右腕を肩の位置で水平に曲げて、ゆっくりと上下に動かしてみせる。”スピード落とせ”と、合図を送ったつもりだ。


 だが女性は訝しげな顔をしてこちらを睨み、信号が変わるとまた猛スピードで車を発進させた。


 ……また余計な、お節介だったかな


 男は軽く苦笑いを浮かべ、自分もゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


 だが、車を発進させて暫くした頃、右前方を走るSUVに異変が起きた。車体の後部が左右に揺れだしたのだ。あっと思った瞬間には、ゆっくりと回転しながら男の走る車線を越えて左側の歩道へと滑り込んでいった。


 男はSUVが突っ込んだ場所の少し手前で車を停車させると、車に走った。最悪な事にそこにはバス停があったのだ。駆け寄ると、バスを待っていた人影が数人見受けられる。7~8人といったところか。皆、一様に慌てている様だった。中には腰を地面に付けて、へたり込んでいる人もいる。


「大丈夫ですか!?」


 男は大声で聞きながら、座り込んでいる人に近づいていく。


「……だ、大丈夫です」


 へたり込んでいる中年のサラリーマン風の男が、なんとか声を上げる。ざっと見回すが、怪我をしていそうな人は、いないように見えた。


 少しホッとし、今度はSUVの運転席に近づいていく。


 ドア越しに中を覗くと、先程の女性がハンドルに頭を付けて俯いている。ハンドルを握ったまま、ピクリとも動かない。ドアをノックするが、やはり反応が無い。


 ドアノブに手をかけて引くと、ガチャリと開いた。


 男は「……大丈夫、ですか?」と敢えて優しく聞いた。


 すると女性は、やっと顔を上げてゆっくりと振り向き、青ざめた顔で「・・はい」と消え入りそうな、か細い声で応えた。


 ……どうやら怪我はなさそうだな。ざっと見える部分を確認したが、流血している様子は見受けられない。エアバックが作動していないところをみると、ぶつかった時は、あまりスピードが出ていなかったのかもしれない。

ゆっくり回転しながらぶつかったのが、よかったのかもしれないと思った。


 男が少し安堵しながら、そんな事を考えていると「キャーッ」と女性の悲鳴が上がった。声の方を見ると、高校生位の女の子がSUVの後方を指さしている。


「おい!人が倒れてるぞ!」


 さっきのサラリーマン風の男性の声が、男をぞっとさせた。直ぐに男を含めた数人が、倒れている人影へと駆け寄った。


「……おい。おい!」


 軽く肩を揺らすが、反応が無い。


「すいません!どなたか110番と119番に連絡して頂けませんか!?」


 声を上げると、幾つかの手が上がり、直ぐに反応があった。


「110番は俺が電話する」「119番、繋がりました」


「ありがとうございます」


 それに応えながら、男は倒れている人影を確認する。倒れていたのは、高校生位の男の子だった。横向きに倒れて、ピクリとも動かない。


 男の子の口元に手をあてがうと、 ……息は、している様だ。


 出血は……と、全身を確認していると膝のあたりの雪がみるみる赤く染まっていく。男は自分のネクタイをほどくと、男の子の太腿へキツめに巻き付けた。


「左足からかなり出血しているようです。呼吸はしています」


 119番に電話している女性に声をかける。女性は頷くと、同じ内容を電話の相手に伝え始めた。


 あと出来る事は……


 男は自分の着ていたコートを脱ぐと、男の子に掛けた。このままだと、体温が下がりすぎてしまうと考えたからだ。そして自分の車へと走ると、ダンボールを抱えて戻ってきた。男の子の横に、空のダンボールを広げると直径1.5m位になる。


「すみません。どなたか手を貸していただけませんか?」


 声を掛けると、中年のサラリーマン風の男性が駆け寄ってきて、二人で男の子をダンボールの上に移動する。


 ……これで少しは違うといいけどな


 凍てついたアスファルトの上に、寝ているよりは幾分かマシだと考えての事だった。


「あと10分位で着くみたいです」


 119番に電話していた女性が声を掛けてきた。「ありがとうございます」と男は礼を言う。


 後は救急車と警察の到着を待つしかない。男の子の傍らに膝を付いて、顔にかかった雪を払おうとした時だった。キュルキュルとタイヤの回転音がしたと思った瞬間、強い衝撃が男を襲った。


 数メートルも跳ね飛ばされた男が見たものは、黒いSUVが走り去って行く後ろ姿だった。バックして男を撥ねた後、急発進して走り去って行く。


 誰かの悲鳴が聞こえた。


 自分は撥ねられたのだ。と気付くのに暫く時間が必要だった。馬鹿野郎!と思ったが、痛みは無い。しかし起き上がろうとして、あれ?と思った。力が入らないのだ。


 どうした?どこか怪我でも?


 考えながら、男は段々と意識が遠のいていくのを感じていた。


 バス停にいた何人かが、駆け寄って来たのだろう。心配そうな顔で自分を見下ろす人達を見ながら、男はゆっくりと目を閉じた。


 男の子は大丈夫だっただろうか?


 そんな事を考えた。もう何も聞こえない。


 ああ、そうだ。家に帰らなくっちゃ……


 家には、家族が待っている。



 愛犬達は今日も全力で、自分の帰りを喜んでくれるだろうか?


 今日も子供達は全員無事で「おかえり」と言ってくれるだろうか?


 妻はきっと頬を膨らまして、でも嬉しそうにこう言うだろう。


「もう!いっつも夕飯が出来ると帰ってくるね!」


 皆で他愛もない話をしながら、夕食を囲む。


 学校の話、友達の話、楽しかった事、腹がたった事、馬鹿馬鹿しく意味のないような時間。


 だけど、とても、とても大切な時間。



 ああ、でもお父さん、ちょっと遅くなるかも。ごめん、ごめん…………


 そんな事を考えながら、男の意識は暗闇の中に消えていった。





  ――――――――――――――――――――――――――――――――





 まだ5月の中旬とはいえ、降り注ぐ日差しは汗をかくには十分な強さだった。


 坂道を登りながら、こんな山の上に学校を建てた奴に、文句の一つも言いたくなるのは仕方ない事だろう。特に左足に怪我をしている今の自分には、通学するだけで結構な運動なのは間違いなかった。しかし15分程前に電車を降りたばかりなのに、もう汗をにじませている自分を情けないなと思う。


 途中にあるコンビニで一休みしながら、スクールバッグを肩に掛け直し、空を仰ぐ。気持ちのいい晴天だ。ゆっくりと流れる風は、汗でうっすら湿った額を撫でていく。


「ふう…… 今日は、暑くなりそうだな」


 溜め息交じりに呟きながらも、空の蒼さに少し見惚れてしまう。新緑が気持ちいい季節だ。



 如月きさらぎユウは、公立の高校に通う高校二年生だ。


 ユウは持参した水筒を取り出そうとして、躊躇した。今、飲んだらすぐに終わってしまう。教室に着くまで我慢だな、と氷をたっぷり入れてキンキンに冷えた麦茶を想像しながら「ファイト」と誰にも聞こえない小さな声で呟いた。


 それからユウは、少し疼きだした左足を引きずりながら目的地である学校に歩を進め始めた。

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