16
今は、カッターナイフがなくても大丈夫だと思った。理由はよく分からなかったけれど。とにかく大丈夫だと。
ヨウさんは、別にそれ以上なにを訊くでもなく、そう、と頷き、食事を再開した。俺も、それに倣った。
俺の頭の中が全部分かるなんて言われたら、いつもの俺ならかなり警戒したと思う。自分の頭の中が、人に見せられるようなきれいなものじゃないと自覚していたし、ひとに気を許すと、それが例えば母さんみたいに血がつながった人であろうと、傷つくのは自分だと分かってもいた。それなのに、今自分が、ゆったりした気分で座っていられるのが不思議だった。
「カッターなしなら、ここにいてくれていいから。俺は外すしね。」
まあ、ありでも別にいいんだけど、と、ヨウさんは軽く笑った。俺は、とっさにぶんぶん首を横に振った。
「外すって、どこに、ですか?」
言葉はたどたどしくなった。本当に言いたい言葉はそれではなかったから。本当は、外さないでください、と、単純にそう言いたかった。言えなかったのは、自分がそばにいてほしいと思ったひとは、これまで全員すっかりいなくなってしまっていたからだ。父さん、優しかった担任の先生、仲良しだった友達に、昼間の母さん。そこにヨウさんも続くのではないかと思うと、言葉は自然と喉の奥に突っかかって出てこなかった。
ヨウさんはどうでもよさそうな顔で、公園、と言った。
「公園。あそこで客引いてるから。」
客引いてる。
一瞬意味が分からなかった。数秒たって、その意味を理解して、あまり驚かなかった自分に戸惑った。
男娼。
母さんと、同じ職業。
ヨウさんからは、男娼とかいう言葉にまつわる、暗いというか、後ろめたいというか、そんな雰囲気は全くしなかった。彼は白い無表情を動かすこともなく、至極あっさりした態度で食事を続けていた。だから、俺もあまり驚かなかったのかもしれない。
「部屋にいないのはいつものことだから、ハルカは気にしなくていいよ。」
「……いつものこと、なんですか?」
「うん。大体夜は、公園にいるし。昼もたまにそうだし。」
「昼も?」
「うん。なんでだろうね。あそこにいる間だけが、生きてる感じがする。」
あそこにいる間だけが、生きてる感じがする。
俺は、鯉のいない池に、餌を撒き続けていた、やけに薄着のヨウさんの姿を思い出した。白く闇夜に浮かび上がっていた、あの姿。
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