そのひとの家は、公園から歩いて数分のところにあるマンションの二階だった。男のひとは黙って歩いたし、俺も黙って半歩後を追った。男のひとは一度も振り返らなかった。それは、俺が付いてきていることを確信しているからという感じもしたし、俺が付いてきていようがいまいが関係ないと思っているからう感じもした。

 俺は警戒しながら男のひとの部屋の玄関をくぐった。急に襲われて刺されたりしても仕方ないくらい、無防備なことをしている自覚はあった。男のひとは俺の警戒にはすぐに気が付いたみたいで、玄関から続く短い廊下を通り抜けてリビングらしき部屋へ入りながら、なにもしないよ、と言った。表情は見えなかったから分からないけれど、あっさりした口調ではあった。

 俺はその言葉を聞いて、母さんのことを思い出した。

 なにもしないって言ったから。

 そんなふうに言っていた、裸で顔を腫らした母さん。

 あの日俺は、子供らしく健全に友達の家へ遊びに行った帰りだった。アパートのドアを開けるとすぐに、玄関に母さんが蹲っていた。どうしたの、と、俺は驚いて訊いた。母さんが裸だったから。今でも覚えているのは、痛々しいくらい白くて細い母さんの身体だ。見てはいけないものを見てしまった感じがして、俺は混乱しきっていた。母さんは、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。その顔は、一目でそうと分かるくらい、ぼこぼこに殴られた痕があった。

 なにもしないって言ったから。

 母さんがそう言った。

 後になって、母さんをレイプしたのは父さんの弟だということが分かった。そこからなにがどうなったのか、8歳だった俺には分からなかったけれど、そして今でもいまいち分かってはいないのだけれど、とにかく父さんは家を出て行った。7年前の話だ。

 「どうしたの?」

 男のひとが、くるりと振り返って俺を見た。俺は、ようやく自分が玄関のところで立ち止まっていたことに気が付いた。

 「……なんでもないです。」

 なんでもない。本当のことだった。もう、あの日の母さんを思いだしても、なんでもない。あれはずっと昔のことで、もう忘れたっていいくらいのものだ。実際母さんは、あれからとてもてとても壊れやすくなってしまったけれど。

 「ほんとうに?」

 男のひとがこちらへ歩み寄ってくるような素振りを見せたので、俺は急いで靴を脱ぎ、部屋へあがった。なんでもないことだ、もう、なんでもないこと。それでも、誰にも踏み込んでほしくない心の一部というものは、多分俺だけじゃなくて、誰にだって存在するものだと思う。

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