39. 銃声
ドラマを観終わりウミが貸してくれた2階の寝室に向かうと、天蓋付きの大きく柔らかいベッドに横たわる。何故ウミはこんな大きな家を購入したのだろう。こんな広い家に一人でいたらかえって孤独を実感してしんどくなりそうだ。
最近一人暮らしというのに憧れて真剣に考え始めたところだった。元々1人の時間をこよなく愛する自分は1人でも全然暮らしていけるという根拠のない自信があったが、昨日のように話し相手もいない部屋で1人で長い時間を過ごすとなると最初は快適かもしれないが段々虚しさと退屈さに耐えられなくなりそうだ。生まれたときから猫がいる生活を続けているために、ホームシック以上にペットシックが深刻化する恐れがある。
物思いにふけるうち深夜2時を回りうとうとしかけたとき、頭の中で銃声が轟いた。
正しくは、銃声は家のすぐ外から聞こえたものだった。夜を切り裂くような破裂音に慌てて飛び起き窓から外を見ると、門の外の歩道脇の植え込みの近くに大柄の男性が一人うつ伏せで倒れている。腹部から流れ出した血がアスファルトを赤く染めていった。
部屋を出て階段を駆け降り、外に出ようとする私の腕をウミが背後から掴んだ。
「危ないから行くな!!」
彼女はいつになく激しい口調で制止した。
「無理」
震える唇から言葉が洩れる。
「何かしないと」
「3軒先のグレゴールさんが医者だ、私は救急車を呼ぶ」
ウミの言葉が終わるのを待たずに玄関を飛び出し倒れている男性の元へ走った。男性の腹部からは大量の血が流れ続けている。続々と野次馬が集まってきてたちまち歩道は埋め尽くされる。もうダメなんじゃないか、そんな声が聞こえてくる。
グレゴール宅まで走り玄関のドアを何度も叩いた。叩きつけた拳がじんと痛んだ。まもなくドアが開きひょろっとした気弱そうな老人が顔を覗かせた。男性が撃たれて危険な状態だと告げると老人は困ったような顔を浮かべ廊下の奥の部屋に引っ込んだ。
あの老人で大丈夫か。本当に医者なのか。男性を救えるのだろうか。
幾つもの考えが頭を駆け巡ったが選り好みしている場合ではない。こうしている間にもタイムリミットは近づいている。
まもなく先ほどの老人が銀色のアタッシュケースのようなものを持って現れた。白衣を着ていると当たり前だがそこそこ医者のように見える。
「銃声は聞こえたがてっきり夢の中のことだと思っとったわい」
元々あまり声が大きくないのか、医者は消え入りそうな声で言ってサンダルを履き外に出た。ちょうど家から出てきたウミが野次馬たちに道を開けるようにと声をかけているところだった。人の群れを掻き分け倒れている男性の様子を目の当たりにしたグレゴールは言葉を失い、悲しげに額に手を当てた。
グレゴールが処置をしている間男性の奥さんらしき黒人の女性がやってきて、横たわった夫の前で頽れ半狂乱で泣き叫んだ。男性の奥さんの気持ちを思うと苦しく、何もできない無力さに打ちひしがれた。
銃社会ではないイギリスでこんな悲惨な事件が起きたことが信じられなかった。衝撃的な光景が広がる中次第に湧いてくる怒りを沈めた。
この中の半分以上の人の顔には悲しみと一緒に諦めの感情が宿っていた。だが私は一つも諦めてはいなかった。例え目の前の医者が諦めたとしても私はこの男性がーー不運にも残酷な人間の標的となり凄惨な事件の被害者となってしまった人が簡単に命を落とすだなんて考えられなかった。
だから夫の名を何度も呼び続ける女性の肩に手をやり声をかけ続けた。
「大丈夫、きっと彼は目を覚ます」
間もなく救急車がやってきて、担架に乗せられた男性は奥さんに付き添われ病院に搬送された。ウミは少し離れた場所で警官から聞き取りを受けている。
「できる限りのことはしたが……出血があまりに酷すぎた。助かる可能性は10%ってところじゃのう」
グレゴール医師は悲しげに言った。
「ありがとうございます。あなたがいなければあの男性は手遅れになっていたかもしれません」
礼を伝えると医者は「それがわしの仕事じゃからな」と返したあと深くため息を吐いた。
「この頃こんな事件ばかりじゃ。何年か前にもこの近くで黒人青年が白人警官に発砲されてな。必死に処置をしたが駄目だった」
老人は肩を落とした。あの銃撃事件のことはよく覚えている。黒人の青年が銃殺されたあとロンドンではしばらくの間激しいデモが起こっていた。
「何故同じ人間なのに憎み合い殺し合うんじゃろうな」
「同じ人間だからこそです」
そんな答えしか返せないことが悲しく情けなかった。今あの凄惨な光景を見たあとで愛だの希望だのと口にする気にはとてもなれなかった。人間同士の憎しみや人の死の前で私たちは無力だ。
結局その日は朝まで眠れなかった。ウミは私の部屋を訪れウェールズに住んでいた頃の話を始めた。小学6年のときクラスにヤーラという黒人の女の子が転校してきた。ウミと同じ寡黙で引っ込み思案な性格の彼女は休み時間もあまり喋らず読書をしていた。
ウミと彼女は少しずつ仲良くなった。ウミも日本人の血が入っていて他の子どもと違うという理由でクラスメイトから仲間外れにされることが多く、ヤーラの気持ちがよく分かったのだ。ヤーラはウミの前ではよく喋ったがそれ以外はほとんど誰とも口をきかず、休み時間は図書室で本を読んでいた。
彼女が虐めの標的になったのは、隣町で起きたテロ事件の犯人が黒人だったという理由からだった。クラスには他にも何人か黒人の子がいたが、転校生で大人しいという理由だけで彼女が虐められた。
クラスメイトの男子たちは彼女の肌の色を執拗にからかい、持ち物を隠し、酷い渾名をつけて呼んだりした。それでもヤーラは何も言い返さなかった。
ある日ウミは遂にただ傍観していることに耐えられなくなり、ヤーラをいじめていた男子たちを持っていた鞄で殴った。男子たちはウミに暴行を加えたが担任は彼らを怒るどころか、ウミばかりを注意した。ヤーラはその後転校し、今度はウミが虐めのターゲットになった。ウミは学校を休みがちになり、結果不登校になったという。
「ずっと家にいると嫌なことばかりを思い出して辛かった。人間って何でこんなに薄情で残酷で、自分と違う存在を排除しようと躍起になるんだろうって考えた。毎晩悪夢を見て飛び起きた。どいつもこいつも消えてしまえ! って叫びたくなった。それでも音楽を作っているときだけが唯一救われる瞬間だった。自分の中の怒りを吐き出せる手段なんだ。音楽がなければ今私はここにいないかも」
「辛かったね」
「今も時々夢に見るよ、学校裏にあるゴミ箱に入れられて蓋を閉められて、外からガムテープを巻かれて閉じ込められた時のことを。凄く怖かった。近くで犬の唸り声がしたときは心臓が止まりそうになった。もう誰にも見つからないままここで死ぬんだと思ったし、何で自分がこんな目にあわなきゃいけないんだって辛かったよ。幸い先生が来て助けてくれたけど……」
「辛かったね……」
例によってかける言葉が見つからない私はそうして共感を示す他になかった。私も中学の時に虐められた経験があるが、彼女の経験したことはそれの比ではないと感じ愕然とした。
「人って集団の中で異質な人間を排斥しようとする本能があるらしいね。私は色んな意味で異質だった。だから彼らは私を虐めた」
「そいつらがあなたを虐めたのは、日本の血が入ってるって理由だけじゃないと思う。あるオーディション番組の審査員の人が言ってたわ、誰かを虐めるのはその人が何か優れている部分があるからだって」
その審査員は過去に虐めを受けていたという女性の参加者に向かってその言葉をかけた。その言葉がどれだけ彼女を救ったか分からない。
「いいことを言うね、その審査員」
「実際あなたはこうして人の心を打つ凄い音楽を世に送り出してるわけだから、あなたを虐めてた下らない奴らなんかよりずっと世の中に貢献してる。胸を張っていいわ」
ウミは「ありがとう」と小さく微笑んだ。
「でも、それなら君を虐めてた人たちも同じじゃない? 君が何か人と違う凄いところがあって、羨ましかったとか」
「どうかな、ただ憂さ晴らしがしたかったのかも」
「私から見たあなたは凄くユニークで素敵だよ」
「それはどうも」
「本当だよ。あなたは電話で私のことをクールだって言ってたけど、私から見たらあなたの方がずっとクールだ」
「ないない。クールとか私に似合わないわ」
こんな褒め方をされるのはこそばゆいを通り越して、くすぐったすぎて腋の下に穴が開きそうだ。私につく称号はポンコツ大根くらいがちょうどいい。
「さっきの人、助かるといいね」
ウミがぽつりと言った。
「そう祈るしかないわね」
私は答えた。あの男性が亡くなってしまったらと考えるとどうしようもなく胸が苦しくなった。彼の奥さんの泣き叫ぶ声が耳に張り付いて離れない。私と彼らは他人のはずなのに、生きていてほしいと願う気持ちは偽りようもないほどに切実だった。
窓の外の景色はうっすらと青みがかって、おやすみと言い残してウミが去ったあと途切れ途切れの夢を見ながら短時間の睡眠をとった。
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