38. 夕闇急行

  退院後、念のため監督から1週間の休養を言い渡された私は自室で暇を持て余していた。両親は仕事で家におらず、いるのは私と猫たちだけだ。下手に出歩くわけにもいかず試しにi phoneにダウンロードしていた音楽を大音量で流してみたが、やはり傷口の後頭部に響く。いつもは1人で過ごすことなど苦にならないのに、今日に限ってやけに心細くて誰かと話したい。ルーシーやジョーダンは仕事で私の相手をしている暇はないだろう。ウミなんて尚更忙しいに違いない。数年に一度来るか来ないかの誰かに構って欲しい日に限って誰も誘える人がいない。何をしようか。考えあぐねているところに、階下でインターフォンが鳴る音が聴こえた。


 来客はこの間カフェにいた黒人女性だった。警察から私の住所を聞いて来たという。名前はアリーシャといい、私よりも2つ年上の書店員だった。彼女は私に助けてもらったお礼を何度も伝えた。


「とりあえず入らない?」


 死ぬほど退屈していた私は遠慮するアリーシャをほぼ無理矢理部屋に連れ込んだ。アリーシャは部屋に入って床に腰を下ろすなり尋ねた。


「あの警官2人、あなたのところにも来た?」


 台所から持ってきたホットのカップコーヒーとマドレーヌを部屋の真ん中の背の低いテーブルに出した私は、昨日の病院での一件を思い出して胸糞の悪い気持ちになった。


「来たわ、昨日の夜。あの若いチャラそうな警官、最高にムカついた。あれで警官名乗れんだから世も末だわ」


「警官たちは、犯人は誰でも良いから殴りたかったんだろうって言ってたけどそんなの嘘よ。あいつは私だから殴ろうとしたんだわ。私がーー」 


「それは分からないわ」


 アリーシャの言葉を遮る。ただでさえ知らない男に殴られかけて怖い思いをし、傷ついている彼女にその先の言葉を言わせることはとても酷な気がしたからだ。だがアリーシャは興奮気味に続けた。


「私は警官たちに伝えたの、これは無差別なんかじゃないって。あの酔っ払いは私を選んで、私をまっすぐに見て歩いてきて殴ろうとした。だけど取り合ってもらえなかった。何度訴えたってあの人たちにとっては所詮人ごとなのよ」


 アリーシャの話に耳を傾けながら、これ以上何も出来ない自分に不甲斐ない気持ちになる。アリーシャの心の痛みはきっと私の後頭部の痛みとは比べ物にならない。私の傷は治っても彼女の傷が癒えることはないのだから。


「子どもの頃から黒人だからって理由でずっと差別をされてきたわ。両親はよく私たちに言った。『白人と同じ努力をして同じくらいのものを得られると思うな。私たちと彼らとは違う』って。幼い頃は、何でこんなことを言うんだろうって思ったけど、成長してからその言葉の意味が分かった。私ね、子どもの頃は舞台女優になりたかったの。だけど小学校の発表会で主役をもらえたのは白人の子だった。そのときやったのは『白雪姫』だったから仕方ないけどね」


 アリーシャは肩を竦めた。別に黒人やヒスパニックやアジア系が白雪姫を演じたっていいじゃないかと言ったが、アリーシャは首を振った。


「理想はそうだけど現実は違うわ。子どもの頃私の家は貧乏で、同じ黒人の友達の家もそうだった。私は白人の多い地域の学校に通っていて、皆じゃないけど白人のクラスメイトは裕福な子が多かったわ。同じくらい勉強や運動を頑張っても、卒業式に生徒代表としてスピーチするのは白人の子の方だった。先生も他の生徒も表面上優しくしてはくれていても、ある瞬間に下に見られてるってのが分かって失望したりね」


「大人たちが差別感情を持って接するから子どもに伝染するのよ。最低ね」


 子どもの頃に観た『青い目茶色い目』というドキュメンタリーを思い出した。まだ人種差別が蔓延する時代、アメリカの女性の先生が差別とはどういうことかを教えるためにクラスを青い目の子、茶色い目の子とグループ分けし、一方を優遇し一方を冷遇した。一定期間が開けると優遇、冷遇するグループを交換する方式だった。最初優遇された茶色い目のグループの子どもは学習意欲が上がり成績が伸びたが、冷遇されている青い目のグループの子どもは成績が落ち消極的になった。また、茶色い目の子どもが青い目の子どもを虐める場面も見られたり、泣く子もいたりとクラスの雰囲気は最悪になった。


 だが最後これが授業の一環であることを先生が生徒たちにネタバラしし、生徒たちはほっと胸を撫で下ろす。差別がいかに人の心を傷つけるかを学び、笑顔で壮大なカリキュラムは幕を閉じる。


 革新的ともいえる道徳教育としてなされたこの試みは、当時大きな社会問題となった。肯定的な意見もあれば激しい批判もあった。


 私が生徒の立場なら、大人になって振り返りこの授業を受けて良かったと思うかもしれない。結局実際に差別をする側、される側にならないと問題の本質は分からない。差別する側に立って生まれる憎しみや嘲り、差別を受ける側が抱く怒りや悲しみなどといった感情を身をもって体験することで初めて理解する。人種差別がいかに人の心に深い傷を負わせ、これまで育んできた友情をもいとも簡単に破壊し、コミュニティに修復困難な分断をもたらすかということを。


「中学時代、白人の友達が私の書いた作文を盗用して賞をとったの。あとから私が代筆したものだってバレたけど学校もその子の親もうやむやにして、栄誉は全部彼女のものに……。その子はイギリスの中でもトップクラスの私立の高校に進学したわ、私は公立の高校だったけど」


「最低だわ、本当に認められるべきはあなたなのに。周りの大人も最悪」


「他にも色んな場面で人種差別を経験したり見聞きしたりしたわ。これまで嫌になるくらい、夢を叶えられる可能性が高いのは白人の子なんだということを思い知らされた。世界は残酷よ。RPGに例えたら、私は上下スウェットで武器もアイテムもなく戦いに挑む戦士。一方で白人は魔道士よ。努力さえすれば欲しいものを何でも手に入れられる。地位も名誉も愛も」


「そんなことない」


 フォローの台詞も考えないまま否定の言葉を口にする。これを肯定してしまえば世の中に希望がないことを肯定してしまうようなものだからだ。


「ハル・ベリーだって、アカデミー賞の最優秀主演女優賞を獲った。黒人の女性副大統領だって出た。時代が追いついていないだけで、あなたたちが耀く時代は絶対に来る」

 

「アカデミー賞だって所詮は白い賞よ。ハルの後は黒人の女優でその賞を取る人は出てない」


 アリーシャの言葉が胸に突き刺さる。この業界に入って、何度もSNSで誹謗中傷を受けた。私の女優としての実力不足や見た目のことについて、そして、スペインの血が入っているということについて。他のことには全く自信が無かったが、自分のルーツだけは誇りに思っていた。それが自分のキャリアを妨げるなどと考えたことはなかったし、たとえそれが原因で何らかの障害にぶち当たったとしても、きっと乗り越えていけるという根拠のない自信があった。だが先ほどのアリーシャの言葉に少なからざる衝撃を受けた。 


 アリーシャが社会の中で感じていた理不尽さや落胆は、私が感じてきたそれらとは比べられないのだろう。だがどうしても他人事と思えなかった。白人の血が入っているものの純粋な白人とは違う私自身、アイデンティティを貶されるような経験を何度もした。ドラマの撮影のときに感じたことーー。時々監督や脚本家やスタッフの中で、クレアやミアの前と私の前とでは扱いや態度が違う人間がいた。単純な好き嫌いもあるだろうし他の2人がドラマの主役で私より遥かに人気のある女優だからという理由もあるだろう。これについてあまり考えたくはなかったが、もっと別の根深い問題が潜んでいる気がしてならなかったのだ。


 私は咄嗟に祖父のパウロの話をした。移民としてこの国に来て汗と涙を流した末に彼が成し遂げた偉業のことを。ヒスパニックの私と彼女では事情は違うかもしれないと思ったが、世の中に失望し自信を失っている彼女を勇気づけるために他に1番説得力のある話を思いつかなかったのだ。


 アリーシャは静かに話を聞いていたが、パウロがジェームズからバッジを貰った話に涙した。


「お祖父ちゃんは学歴や特別な特技があったわけじゃなかった。ただ誰にも負けないくらい真っ直ぐで一生懸命だったの、仕事や人に対して」


「何か大きなことを成し遂げる人って、そういう人が多いと思うわ。ただ一つのことを見つめて頑張っていけるって簡単なようで難しい。凄いことよ。私の兄もそうなの。子どもの頃差別や虐めで不登校になったりしたけど、ゲーム好きが高じて今はゲーム会社でゲームの開発をしてる。忙しいし時期によって寝る時間もないみたいだけど、すごく楽しそうよ」


「あなたの気持ちを全部理解をすることはできないけど……。私も差別を受けてきた、人前に出る仕事だから余計にね。それでも自分のルーツを誇りに思ってるし、恥ずかしいことだなんて全く思わない。おじいちゃんがいつも言ってたの、『人と違うからこそ、他の人にできないことができる』って。マイノリティだからこそ出来ること、伝えていけることってあるんじゃないかな。それにスウェット姿で一人戦う戦士がいたら、逆に強い仲間が集まって助けてくれると思う」

 

 アリーシャは僅かに顔を綻ばせた。


「何だかあなたに何回も救われてるわね」


 彼女は帰り際黄色い袋を差し出した。中には私が以前血眼で探していた、もう生産中止になったプレミアものの『トワイライト・エクスプレス』というホラーゲームが入っていた。


「これどこで手に入れたん?」


 興奮しながら尋ねるとアリーシャは少し得意げに微笑んだ。


「兄に頼んでメーカーにダメ元で聞いてもらったの。そしたらたまたま一つだけ新品の在庫があったのよ」


「すご!! ありがとう!! てか私がこのゲーム欲しいって何で知ってたの?」


「あなたのファンだっていう友達から聞いたの。あなたがずっと前に雑誌のインタビューで、このゲームがどうしても欲しくて必死で探したけど見つからないって話してたこと」


「あれ、そうだっけ」


 全く記憶がない。お返しが欲しかったわけでも期待していたわけでも全くないが、思いもよらぬサプライズに心は完全に浮き立っていた。


「喜んでもらえたなら良かった」


 アリーシャは安堵したように笑った。帰り際彼女は自分が働いている書店の名前を告げ、よければ後で遊びに来てと言った。私は絶対に行くと約束し彼女に手を振った。


 夕方アリーシャから貰ったゲームを自慢しようとウミの家に向かった。ゲームに関する情報収集に余念がない彼女には、いつも最新のゲームが出るたび先を越されていた。彼女はレアなゲームをいち早く手に入れさりげなく部屋に飾っていて、貸してと頼むといいよといつもあっさり貸してくれた。が、さすがの彼女も今日ばかりは驚くに違いない。


 車を路肩に停めウミ宅のインターフォンを鳴らした。バタバタと廊下を走る音がして扉が開くなり、強い力で抱きしめられた。驚きのあまり暫く身動きがとれなかった。


「……どうしたん?」


 思わず声が漏れる。手に持ったゲームソフトを見せびらかす間もなく棒立ちになる私。一体この状況は何だ。ウミはどうしてしまったんだろう。そういえば最近新しいアルバムの制作で忙しいと言っていたっけ。曲作りに疲れて頭がどうかしてしまったんだろうか。


「ニコルからあなたが怪我をして病院に運ばれたってメールで聞いた。良かった……生きてて」


 ウミの声は震えていた。


「そりゃ生きてるよ。ここで死んだら何にもならんでしょーが」


 感情的なウミに対し平然と言い放つ私。この温度差を国に例えるならばウミが夏のゴビ砂漠で私が冬のゴビ砂漠といったところか。国じゃないけど。砂漠だけど。


「あなたのことが心配でどうにかなりそうだった。今ちょうど会いに行こうと思ってたところだったんだ。本当はもっと早く行くつもりだったんだけど、オンラインでの仕事の打ち合わせが長引いて……」


「心配かけてすまんかった」


 私は珍しく感情的になって涙目のウミの肩を2度ほど叩いたあと本題のゲームを見せた。


「これ友達がくれたんだ。すごくない? プレミアもんだよ」


 友人はふっと目を細めて、「それなら持ってるよ」と答えた。


 まるで隕石が頭に落下したかのような衝撃を受け、心の中でエクソシストに出てくる少女さながらの白目を剥く。


「マジ?」


「うん。言ってくれたら貸したのに」


 とりあえず入って、とウミは中に入るように促した。


 地下のゲーム部屋に向かいながら、普段やることでスケジュールが埋め尽くされているために休養1日目にして暇で暇で仕方なかった旨を話すと、ウミはだろうねと短く相槌を打った。


「私も忙しくしてるから、いざ休みになると何して良いかわからない」


 地下のゲーム部屋に招き入れられ、相変わらず壁際の棚にぎっしりと並べられたゲームのコレクションを眺めながら「マジでここに住みたい」と漏らしたらウミは笑った。


「貸して欲しいのがあったらまたいつでも言って。家にいるのは退屈だろうし、万一借りパクされたとしても恨まないから」


 冗談か本気か分からないがのび太に対するドラえもん並みに寛容すぎる台詞を口にしたウミは、よっこらしょという謎の掛け声とともにソファに腰掛けた。


 私はいつもの流れで勝手に黒いテーブルの上に置いてあるGS5の電源を入れ、持ってきたトワイライト・エクスプレスのソフトを入れたあとでウミの横に腰掛けた。テーブルの上、投げ出されるように置かれたワイヤレスのコントローラーを握りしめると、私は何か言いたげな雰囲気を醸し出している友人に向かってひと言忠告を入れた。


「過度なネタバレは禁止な」


 今日のウミはやけに落ち着きがない。何があっても落ち着き払っているいつものクールな彼女とは別人のようだ。


「ネタバレはしない。ただあなたがここにいてくれるのが嬉しい」


 ウミがこんな台詞を口にするのは非常に珍しい。ただ口にしないだけで私も同じ気持ちだった。生きるか死ぬかの瀬戸際の体験をしてみて身に染みて分かる。以前のように友人と同じ時間を共有し楽しみを分かち合える有り難みを。


「私も嬉しいよ。こうして生きて、友達とずっとやりたかったゲームができてることが」


 神様は何を思って私と目の前のスターを出会わせたのだろう。確かなことはこの出会いが、一生のゲーム仲間を見つけるという以上の特別な意味を持っているであろうこと。

 

「考えたんだ、もしもあなたが死んでたらって。そしたら真っ暗だった。まるでマフィア映画みたいに、手足を縛られて車のトランクの中に放り込まれたみたいに。凄く苦しくて真っ暗で……いっそここまま消えてしまいたくなるような」


 普段は感情の浮き沈みが少なくて私よりずっと大人びて見える友人が、今にも泣き出しそうな悲痛な表情を浮かべている。なお物言いたげなその瞳が私の姿を真っ直ぐに捉えたときある考えが脳裏を掠め、それを必死に打ち消した。


 液晶画面にゲームの最初の画面が現れる。STARTの文字にカーソルを合わせ決定ボタンを押す。


「珍しくエモーショナルだね」


 呑気な私のコメントにウミはやや憮然とした表情を浮かべた。


「そりゃそうだよ、大切な人が怪我して意識不明になってたなんて聞いたら誰だって……」


 ウミは私の怪我のことをニコルからつい1時間前にメールで聞かされたらしい。そのとき最新のアルバムについてオンラインで打ち合わせ中だったが、私の元に駆けつけるため無理やり会議を中断し、出かけようとしていたところにちょうど私が来たらしい。


 ウミと関わりを持ってからというもの、私はそれまで以上に彼女の曲を頻繁に聴くようになっていた。アルバムにしか収録されていない曲、デビュー前に作ったマイナーな曲も。ウミの音楽が好きなのは単純に彼女が歌う声と曲調と詩が好みだという理由もあるが、音楽と歌詞の中にウミという一筋縄ではいかない、複雑で屈折した人間性が現れている気がして興味深かったのだ。


 ウミの口から出た「大切」という言葉は、彼女の曲の歌詞の中にすら滅多に見当たらないものだ。そんな言葉をかけるということは、少なくとも私のことをかけがえのない仲間の一人として認識してくれているということなのだろう。


 私は俯いているウミに打ち明けた。


「テーブルの角に頭ぶつけたとき、ああ、私このまま死ぬんだなって思ったの。だけど生きてて。目が覚めて安心したのも束の間、やっぱりこの世は理不尽なんだってことに気付かされてすごく頭に来た」


 ウミは静かに私の話に耳を傾けている。ゲームのプロローグ、紺色の背景に血液を思わせるどす黒い赤色のタイトル。画面の下、緑の線で囲まれた白い枠の中に黒い機械的な文字が次々と羅列されていく。文字を追うことをほとんど放棄している私の耳にウミの声が響く。


「私は音楽という手段で腐った世の中に立ち向かう。あなたはもっと別の方法なのかもしれない。どんな形であれ、その手段があるのとないのとでは違う」


 先ほどよりいくらか落ち着いた、だが強い意志の込められた口調でウミは言った。祖父は行動を起こすことで世の中の理不尽さと闘った。多くの人を愛し、助け、導くことのできる類稀な存在だった。一方で私にはどんな武器があるのだろう。世の中のシステムを大きく変えることなどできなくても、その中で強く生きていくために必要なものを私は持っているのだろうか。


 その後私はウミにガイドをしてもらいながら夢中でゲームをプレイし続けた。気づいたときには22時を過ぎていて、帰ろうと立ち上がりかけた私をウミは止めた。


「泊まってったら? こんな連休なんて滅多にないでしょ? せっかく会えたんだしもう少しいてよ。夜中までゲームしててもいいし、2階の部屋使ってゴロゴロしててもいいしさ」


 ウミの提案は魅力的だった。この豪邸に一晩泊まるだけでも沢山な、ゲームを自由にしていいしホテルのような広い部屋を好き放題使って良いと言うのだから。


「仕方ないな、じゃあせっかくだから泊まってやろう。あ、ピザ頼んでもOK?」


 尋ねるとウミは嬉しそうに頷いた。


「もちろん」


 携帯で注文を取りピザが到着したあと、1階のだだっ広い大広間に並べられた長テーブルの1つに向かい合いLサイズのシーフードとポテトのピザを頬張った。ウミはピザならよく食べるのだと意外な台詞を吐いた。


「ピザって楽だからつい頼んじゃうんだよね。でも結局あんまり食べられなくて沢山余って処分に困って、家に来る友達や仕事仲間にあげちゃうんだけど」


「それなら進んであなたの家の残飯処理係になるわ」


 私が大きなピザを齧るのとほとんど同時に、ウミの白い手がおまけでついてきたペットボトルのジンジャーエールのキャップの口を切った。炭酸の弾けるプシュッという音が広間にこだまする。


 シャンデリアがぶら下がる天井、ホールの真ん中にある長いテーブルに向かい合う私たち。まるで二人だけの最後の晩餐みたいだ。時計は既に11時をまわっている。


「友達を泊めることなんて滅多にないんだけど、たまにはこういうのもいいね」と私よりもずっと遅いペースでピザを食べ進めるウミが言う。


「泊まりたい人はいっぱいいるだろうね」


 ウミと仲が良いという理由だけでゲーム部屋付きの豪邸をほぼ貸し切りできる私はかなりの幸せ者なのかもしれない。満足感に満たされながら私はピザの上に横たわるエビを手で摘んで口に放った。


 ウミ宅での楽しすぎる体験と空腹で加速した私の食欲によりピザが半分なくなったあたりで、私は今撮影している映画のことやチャドやルーカスや他のスタッフのこと、共演しているユニークな仲間たちのことについて話した。ウミは静かに微笑みながら話を聞いていた。


「何だか凄く生き生きしてるね」


 ウミは言った。


「あ、そう?」


 確かにあの映画の撮影が始まってから以前よりも毎日が充実していたし、前向きな気持ちで仕事に取り組めていた。撮影が始まってからはというよりかは、その少し前から感情に変化が現れつつあったのだが。ストレスといったらあの胸糞悪いニコルの顔を連日で拝まなければならないことくらいだ。


「以前のあなたはゲームで勝ったとき以外ほとんど笑わなかった。柔らかくなったのかもね、心が」


 ウミの安堵の表情を見て、きっと彼女なりに私のことを心配してくれていたのだろうと思い温かい気持ちになった。


 そこでふと、ウミは声を上げて笑うことがあるのだろうかという疑問が頭に浮かんだ。


「あなたは普段爆笑することとかある?」


 素朴な疑問にウミは首をかしげ、「言われてみればそんなにないかもな」と答えた。


「やっぱり。あなたってコメディドラマ観て腹抱えて笑ったりとか、そういうことなさそうだなって」


「あなたはある?」


「最近はよくある」


 子供の頃祖父と一緒にチャップリンの映画や『フルハウス』や『フレンズ』なんかのコメディドラマをよく観ていた。だが祖父が亡くなってからはそれらを観ることも、ドラマのオープニングの音楽を聴くことすら辛くなった。また観て笑えるようになったのはつい最近のことだ。


「そうだ、『ビッグバン・セオリー』って観たことある?」


 私は数年前に最終回を迎えたお気に入りコメディドラマをウミに勧めてみようと思い立った。


「タイトルだけ聞いた事はあるけど観たことはない」


「よし、じゃあこのあと観せてやろう」


 シャワーを浴びたあとウミとともにゲーム部屋に戻り、いつも持ち歩いているタブレットPCの電源を入れ液晶の動画配信サービスのアイコンを選択した。この『ビッグバン・セオリー』は、大学院で学ぶ理系の天才オタク男子4人が、ブロンド美女や製薬会社で働く聡明な女子、脳神経学を学ぶ個性的な子という3人の女の子と出会い恋愛や研究をしたり遊んだり皆で一つの部屋に集まりジョークを言い合いながらご飯を食べたりという、賑やかな日々を映したシチュエーションコメディだ。  


「アハハハ、こりゃあいいや」


 私の予想通りこのドラマはウミの笑いのツボを刺激したようで、始まって間もなく腹を抱えて笑い出した。普段テレビに出てインタビューを受けてもパフォーマンス中であっても滅多に笑顔を見せない超ミステリアス・クールガールのウミが大爆笑している姿をYouTubeにアップしたら、再生回数だけで億万長者になれるかもしれない。


「あなたの笑ってる動画私のインスタに上げてもいい?」


「それはやめて。アハハハハ、おかしい!!」


 ウミは一度ツボに入るとなかなか抜け出せないタイプらしい。ちょっとしたシーンが可笑しく感じるらしく涙を拭いながら笑っている。


 12時過ぎた頃ウミの笑い声に呼応するかのようにスマートフォンの着信が鳴った。電話に出るなり穏やかな祖母の声が耳に流れ込んできた。


『リオ、今どこにいるの? お父さんとお母さんがすごく心配してるわ』


 しまった、遊ぶのに夢中で家に連絡をするのをすっかり忘れていた。


「ごめんおばあちゃん、今友達の家にいるの。今日は遅いから泊まってくわ」


 慌てて告げると祖母のセシルはいつものゆったりとした声で尋ねた。


『もしかして恋人?』

 

「違うの、ミュージシャンの友達。ウミっていう……」


『おやまあ、Umiってあの面白い曲を作る子よね』


 祖母はよくリビングの藤椅子に腰掛けてテレビを観ている。年齢の割に若い芸能人に詳しいのはそのためだ。


 ウミと友人であることを私は家族に話していなかった。普段あまり家で友達や仕事の話をしない。かといって決して寡黙というわけではなく、むしろ他の話題に関してはよく喋る方なのだが。


「そうよ、ウミってめちゃくちゃ才能あるうえに超クールなの。ゲームもすごい沢山持ってるし私なんかよりずっと上手いの。ずるいと思わない?」


 祖母はふふふと笑った。


『そういう大スターに限って孤独を抱えてたりするものよ。エルビス・プレスリーもそうだし、カート・コバーンも……」


 そのほかにもプリンスやマイケル・ジャクソンなど往年の大スターの名を羅列したあとで、祖母は続けた。


『気をつけて見ていた方がいいわ。プライドが邪魔をして言葉にできないだけで、その子は本当はすごく寂しいのかもしれないから』


 電話を切ったあとふとウミの方に目をやる。最初に会った時に目にしたウミの悲しそうな瞳を思い出す。あれはもしかしたら祖母の言うような孤独のためだったのかもしれない。少なくとも今私の横で笑っているウミからネガティブな感情は一切感じられない。この笑顔が一時的なものだとしても、私や誰かといることで彼女の孤独が和らぐのであればそれでいい。

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