25. セシル

 パウロは知らなかった。彼女があの日例の酒場にいたことを。


 その日セシルは普段は行かない街外れの酒場に、飲んだくれの弟ジョージを迎えに行っていた。夕方家を出たきり深夜まで帰ってこないことを心配したのだ。店内に入ると、奥のテーブルに突っ伏していびきをかく弟の姿を見つけた。背中を叩いて起こそうとするもよほどの量の酒を飲んだのか、気持ちよさそうな寝顔を浮かべたまま口から涎を垂らしている。セシルはどうしようもない弟の姿に呆れ果てため息を吐いた。いずれホテルの後継になるであろう彼がこの状態では、曽祖父の代から続く由緒正しきホテルの行く末が慮られた。


「全く、困ったものだわ」


 独りごちていると入り口の扉が開き、賑やかな5人組の若い男性たちがやってきてカウンターの側の丸テーブルに腰掛けた。そのうちの3人がペドロと呼ばれた丸顔で背の低い男性に向かって、まるで他の客たちにも知らしめんばかりの大声で聞くのも憚られるような下品で酷い揶揄いの言葉を投げつけていた。おそらくは日常的に仲間の格好の揶揄いの的になっているであろうペドロは、言い返すでもなく背中を丸め今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。


 いかにも軽薄な若い男たちはペドロの話し方や仕草などを大げさに真似てみせ、あたかもその人を貶めるだけの行為が世界一滑稽な見せ物だとでもいうかのように手を叩いて大声で笑い合っていた。しまいには飲めないからと嫌がる彼の口にウイスキーのボトルを押しつけ無理やり飲ませようとしていた。


ーー信じられない。


 1人の罪のない若者に対する余りに残酷な仕打ちにセシルは目を疑った。こんな人の心を不幸のどん底に突き落とすような卑劣な行為がこの世の中で起こっていることを悲しみながらも、何もできない自分自身を呪った。


 するとそのときそれまで輪の中で黙ってことの成り行きを見守っていた、1人の素朴な顔立ちの男性が立ち上がった。青年はペドロを虐めていた仲間たちを恐ろしいほどの剣幕で怒鳴りつけると、彼らと激しく口論をしながら店の外に出て行った。窓の外に見えたのは、3対1の圧倒的な劣勢の中、華麗なカウンターパンチとハイキックであっという間に奴らをアスファルトの上に横たわらせる、ヒーローのような男の姿だった。


 そのときセシルは思った。この青年と一生を添い遂げたいと。添い遂げるべきなのだと。しかし彼女が声をかける間もなくその正義感に満ち溢れた勇敢な青年は、戦闘の途中で脱いだシャツを地面から拾い上げて肩にかけると、慌てて駆けつけたペドロをとともに通りの向こうの闇の中に颯爽と消えて行った。

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