第四章 巣立ち

第一節 第四十話 痣

 サイは木陰に隠れてそっと涙を流していた。

「うう……。良かったなぁユミ。お姉ちゃんも嬉しいぞ……」

 若い鴛鴦を見ながら呟く。


 抱き着きながら胸に顔を押し当ててくるユミを、キリはやや膝を曲げ迎え入れる。

 ことあるごとにユミは、キリのことを可愛いと発言していたが、それもかつてのことなのだろう。

 サイの眼には、逞しい男に甘える女の図が映っていた。


「大好きだよぉ。キリぃ……」

「ユミ……」

 キリにはまだ状況が理解できていない。

 それでも体が先に動いていた。


「迎えに来たんだよ、キリ」

「うん、ありがとう……」

 胸元から響いてくる声が心地よい。

 

 しかしこの体勢では、お互いの顔を見ることも出来ない。

 キリが抱き締めていた手を緩めると、ユミとの密着が解かれていく。

 そして互いに半歩づつ下がり、見つめ合う。

 

「……姉さんからの返事読んだよ。もちろん、ユミの言葉も」

 ユミの心にぽっと灯がともる。

 

「キリの鴛鴦文をソラに読んでもらった時、私すっごくうれしかった」

「ごめんね。正直賭けだったんだ」

「それでもいい! ちゃんと届いたんだから。それよりもキリ……」

 ユミには懸念していたことがある。キリの頭から足先へと視線を這わせていく。そして気づいてしまう。

「あっ……」

 キリはとっさに自身の体を抱き締める。まるで乙女が見られてはいけない場所を隠すかのように。


「キリ、それ……」

 ユミの顔は蒼白になる。

「うん。母さんに……」

 キリに刻まれた痣は、とても隠しきれるものでは無かった。

 そしてユミの指摘を受け、キリは現実に引き戻されてしまう。

 

「ごめんユミ。ユミとの約束まだ守れてない」

「約束? アイと仲良くなるって話? そんな……、もういいんだよキリ?」

 何故キリがその約束にこだわるのか、ユミには分からなかった。

 

「私、キリのお父さんにも会ったんだよ?」

「父さんに!?」

 キリは眼を皿のようにして驚いて見せる。

「うん。トミサの医術院で」

 キリへどこまで話すべきだろうか。医術院に腰を据える義父の姿を思い出せば、元気だったと告げるには些か相応ふさわしくないと感じてしまう。


「キリ。苦労をかけました。お父さんはなんとかやってます。キリは大事なものとこれからも健やかに過ごしてください」

 ユミは淡々と、頼まれていた言葉を届ける。

「それは?」

「お義父さんは言ってたよ。大事なものは何か、もう判断がつくだろうって」

「それは……」

 言わずもがな、ユミのはずだ。そして約束を交わした相手がユミである。そのユミがもう良いと言うのだから、約束など反故にして良いはずなのだ。


「うん。僕の大事なものはユミだよ」

 淀みの無い真っ直ぐな眼で訴える。ユミの心の臓はとくんと跳ね上がった。

「だったら……」

 ユミはキリに向かって手を伸ばした。

 キリの手も自ずとその手へ向かっていく。

 しかし、てのひらが触れ合うすんでのところでぴたりと止まる。


「ごめん」

 キリは小さくこうべを垂れる。

「なんで!?」

 ユミは一歩前へ踏み出し、両手に作った握り拳でキリの胸を打つ。すると胸の硬さが、拳へと返ってくる。

 それは6年前、ケンの胸を打った時の感触にも似ていた。


「母さんとの決着を着けなきゃ、僕はユミを守れない」

「関係ない!」

 キリの言いたいことは分かっている。

 今後ユミがラシノに通い、キリとの関係を維持するのであればアイを避けては通れない。

 しかしユミにはもりすがある。かつての孵卵の時の様に、キリとの逃避行だって可能なのだ。


「キリが一緒に来るって言うまで離さないから!」

 ユミはその場で飛び上がり、両腕をキリの首へと絡めた。ユミの顎がキリの肩にのしかかる。

 地から離れた足は、キリの腰のあたりに巻き付けた。

 

「ぐっ……」

 ユミの体重の全てがキリに委ねられた。

 しかし、ユミを取り落とす訳にもいかない。彼女の尻の下へと手をやり支えてやる。

 

「お願い……。一緒に来てよぉ。ずっと頑張って来たんだよぉ……」

「ユミ……」

 ユミの孵卵の終盤、ラシノへ帰って来たキリは鳩のフデから激しい叱責を受けた。

 しかしケンからは、ユミを守りたければ孵卵での出来事を他言しない様に言いつけられていた。

 キリにとって仇とも言うべきケンではあるが、かつて父親のカラにキリを守ると約束したのだとも語っていた。

 それを全面的に信用し、焦れるフデにも黙秘を貫いた。その一方で母はキリに対して一切の関心を見せなかった。やがて呆れたフデは、キリの追求を止めてしまう。

 当時は若気の至りとして見過ごされていたのかもしれない。

 しかし、今のキリは大人だ。ユミに至っては鳩という立場にもある。ここで再びユミの手を取ってしまったら、当時よりも失う物は大きいはずだ。


「キリのバカぁ……」

 6年前の別れ際にもユミから投げられた言葉だった。そこまでなら涙を堪えることが出来ていた。

「キリなんてぇ……」

 ――キリなんて嫌い。

 バカに続く言葉には当時も耐えることが出来なかった。


「行くよ」

「キリ?」

 ユミは期待を眼に宿す。

「ユミと一緒に――」


「ソラ!」


 突然、キリの背後から声が聞こえてくる。それとともにキリの体は強張っていく。

 

 ユミもその声には聞き覚えがあった。声の主が誰であるかは明らかだ。

 しかし確かめずにはいられなかった。キリの肩に乗せた顎をくいっと上げ、声のした方向へと視線を向ける。

 

「あ、あ……」

 そこに立つアイの姿を目の当たりにして、キリにしがみつくユミの体は震え始める。彼の腰に巻き付けていた脚も力を失い、地へとすとんと落ちる。

 アイの凶行は先日ヤマから聞かされたばかりだ。ソラと同じ眼を持つユミも、同じ運命を辿ることになるかもしれない。


「ユミ、やっぱり逃げて!」

 未だ首に縋りつかれていたその腕を、必至で引きはがそうとする。

「やだ……」

 力の抜けた脚とは対照的に、ユミの両腕には力がこもる。

「キリも一緒じゃなきゃやだぁ」

 幼子の様に駄々をこねるその様は、かつて手を引いてくれた姿からは想像がつかない。


 キリの後方から徐々に足音が近づいてくる。地面から伝わる鼓動の頻度は高く無いが、それがかえって不気味だと思わせた。


「ソラぁ。今度はどこにも行っちゃダメだよぉ」

 

 キリ自身も、本当は母との生活から逃げ出したいとは思っていた。

 とは言え、この森で囲まれたラシノに逃げる場所などない。仮に森へ逃げようものなら、こんどこそ本当にユミに会えなくなってしまう。

 そのユミが一緒に行こうと提案したのだから、先ほどはその甘い誘惑に乗ってしまうところだった。

 

 前提として、ユミに再び誘拐を繰り返させるべきではない。

 しかし、ユミとキリとの逃避行が短期的なものであれば、他の鳩の眼を掻い潜れる可能性はある。

 2人きりの時間を楽しんだ後、こっそりとラシノに帰してもらえば良い。

 アイの視点からしても、一時的に関心の薄い我が子がいなくなり、のこのこと舞い戻って来ただけのことだ。

 

 ところが、ユミの姿を見られてしまっては話が変わる。


 かつてユミがソラと共にラシノへ訪れ、キリが2人の逃走を手引きした後にはアイから猛烈な折檻を受けた。

 それでもキリは堪えることが出来た。愛する鴦と、初めてあいまみえる姉を守ったのだと誇りに感じながら。

 キリが痛い思いさえすれば、いずれアイは抜け殻の様になる。しばらくは騒ぎ立てることも無くなるのだ。


 一方で、ユミとキリが共にいなくなればアイはどうするだろう。

 アイは依然としてユミへ強い執着を見せている。それを奪われたことに対する怒りの矛先を、一体どこへ向けるのか。

 暴れまわった挙句、無差別に村の誰かを傷つけるかもしれない。幼いころのキリならそこまで気が回らなかった。しかし今となっては、村の人々との共同生活に生かされているのだと身に染みていた。


「ごめん、ユミ。また次もあるから……」

「やだ! 絶対に離さないもん!」

 やはり、ユミの腕はほどけない。

 

 キリは思考を巡らせる。そして以前にも似たような状況があったことに思い至る。


「ユミ!」

「ふぇ?」

 突然の強い呼びかけに、間抜けな声を上げてしまう。そして一瞬、キリの首に絡ませていた腕の力が弱くなる。

 その隙にキリはユミの体を引きはがした。

 ユミは上目遣いに見つめてくる。キリは意を決した。

 

「!!」

 ユミの唇がキリの唇に覆われた。

 それはほんの一瞬のことであった。しかし、ユミには十分だった。

 呆然とその場で立ち尽くす。


「ソラぁああああ!」

 相も変わらず狂気を孕んだ声が聞こえてくる。

 キリは怯まず、くるりと振り返って見せた。そして体を大の字に広げる。

「ダメだよ。母さん」

 アイに向ける眼は極めて冷静だった。


「ユミ!」

 背後から投げられたサイの声。ユミははっと我に返る。

 しかしその瞬間には、ユミの体は宙に浮いていた。腰の両脇ががっちりと掴まれているのを感じる。

「アイのことは聞いてたが思った以上にやばそうだな。とにかく今は逃げるぞ!」

「離して!」

 無我夢中で両足をばたつかせる。それにも構わず、サイはユミを左肩へと担ぎ上げた。

「おーい、キリ。私はサイってもんだ! ユミなら大丈夫だからな。すまんがそっちはそっちで耐えてくれ!」

 言うや否や踵を返し、森へと駆け抜けていく。


 ユミが素直にその場から引き下がるとは、キリも思っていなかった。

 そんな中投げかけられたサイの声は、キリを信頼させるのに十分だった。ぶっきらぼうな声ではあったがユミに対する確かな慈愛を帯びていた。

 ユミには自分以外にも頼れる存在がいると知り、細やかな嫉妬を覚えるが、この場は任せてしまおうと決意する。

 

 対するアイは顔面蒼白という様子だった。長らく再会を待ち焦がれた、を眼の前で掻っ攫われてしまったのだから。

 立ちふさがるキリがまるで眼に入って居ないかのように、その肩を掴んで押しのける。

 しかし育ちあがったキリの体は、その程度で動じるほどやわでは無かった。

 

「いいからどきなさい! ソラの眼は私の物なんだから!」

「母さん、彼女はユミだよ。母さんが思う様な人じゃない」

 母がユミをソラと呼び続けること。そして眼に異常な執着を見せること。

 初めてソラを見た瞬間、その理由に気づくことが出来た。

 赤い瞳に目尻の切れた眼。ユミとソラとが横並びになると、酷似していることは明らかだった。


「あぁ、ソラ……」

 アイの声は絶望に満ちていた。アイの視界からユミが消えたということなのだろう。キリの肩からすっと荷が下りる。

 一度森に姿を隠せば、並みの人間ではそれを再び見つけ出すことなど不可能だ。


「たたかれたいの?」

 無感情で冷淡な声が聞こえてくる。

「いいよ。母さんがそれで済むなら」

 キリはぐっと下唇を噛む。


「おいで。今日はもう許さないよ」

 アイはキリの手首を掴み歩いていく。

 キリは自宅に連れて行かれるのだろうと思ったが、その足の赴く先は村の共同浴場のようだ。

 それに気づいたキリは背筋を凍らせる。これから行われる折檻はいつにも増して壮絶なものとなるはずだ。

 しかし、そこには幸せな思い出も眠っていた。浴室から漂う、ほのかな蓬の香りがその記憶を呼び覚ます。

 かつてはこの場所で、火の面倒を見ながらユミの不安を癒してやったのだ。

 

「僕は大丈夫。ユミが無事ならそれでいい」

 自ら言い聞かせるように呟いた。

 


 ――――


 

「キリ、キリ!」

 サイの肩の上でユミは喘ぐ。

「大人しくしてくれ!」

 サイは叫ぶと、鼓を打つようにユミの尻をぱちんとはたく。

「うっ……」

 力を失ったユミは、両手両足をだらんと垂らした。


 そのまま当てもなく森を歩いていたサイだが、やがておあつらえ向きの大岩を見つけ、その上にユミを座らせた。

「キリ、めちゃくちゃいい奴だな。お前が惚れるのも――」

「サイのバカ!」

「ぐほっ……」

 ユミに眼の高さを合わせるため身を屈めていたサイだったが、その顎を膝で蹴飛ばされてしまう。


「……いい蹴り持ってるじゃねぇか」

 不意を打たれてわずかながら屈辱を覚えてしまったが、まだユミに残された気力を称えてやる。

「またキリがアイにいじめられちゃう……」

「待ちなって」

 岩から立ち上がろうとするユミの両肩を押さえる。

「ユミがキリの傷つくとこ見たくない様に、キリだってユミには傷ついて欲しくないんだ」

「うん……。きっとそうなんだろうけど……」

 今のキリの惨状を想像して涙が零れそうになる。


「アイなんて、サイがぶっ飛ばしてくれたら良かったのに……」

 いつに無く物騒な物言いだ。サイは呆れたように眉をひそめる。

「おいおい、そんなことしたら秘密の逢瀬なんてばれちまうぞ」

 なだめるようにユミの頭をぽんぽんと叩く。

「私らに言ってたよな。キリに会ったら大好きだって伝えたいって。それは出来たんだろ?」

「それはそうだけど……」

 それ以上は行動に移すべきではない。望んでしまうのは仕方のないことであるが。


「それよりも見てたぞぉユミ。キリからの口づけ」

 その場の重い空気を緩めるために、敢えて軽い口調で言い放つ。

「私も思い出すな、テコとの初めての口づけを。テコに乗せられて生のネギを食わされたことがあるんだ。そんでその辛さに悶絶してると、口直しだって言ってテコが迫って来たんだ。さすがのにぶちんの私でもあれには焦ったよ。……って誰がにぶちんだ!」

「……何それ?」

 ユミの視線が冷たい。

 

「……まあ、あれだ。あれは私が17の頃だったな。あの時点で私は大人の女になったってことだ。おこちゃまのユミも今日から大人だ。おめでとう!」

 茶化すように手をたたく。

「私、キリとの口づけならとっくに済ませてるよ。13の頃に」

 口を尖らせるユミに、サイは眼を丸くした。

「何だって!? お姉ちゃんはそんなこと許しませんよ!」

「もう呼ばないからね。お姉ちゃんなんて……」

 ユミはだんだんバカらしくなってくる。

 

「ありがとうサイ。おかげで昨日の言葉思い出した」

「んあ? 私なんか言ったっけ?」

「はぁ……」

 サイにはユミのように卓越した記憶力はないが、もう少し自身の言葉に責任を持って欲しい物だと感じてしまう。


「勝負に負けてもその後に出来ることはあるって話」

「あー、それか」

「私はここに来る前、キリを連れ出してやるんだって息巻いてた。だけどそれを勝ちだとするなら、会いに行く前から負けが確定していたんだと思う」

 鳩の縛めを破る決意はした。しかし、それも限られた範囲においてだ。

 キリを求めるあまり、ユミはその範囲を逸脱しようとしていたのだ。

「さっきの出来事は壺を開けて負けを確認しに行っただけの話」

「ユミ……」

 実際のところ、昨日のサイはその場の思い付きで語っていた。

 それを吸収し、ユミは自身の言葉に変換し適用しようとしている。

 ユミの聡明さには幾度も感心させられてきたが、改めてその意欲に畏怖の念を覚えた。

 しかしながらその能力も、キリを前にすると発揮できなくなってしまうのが玉に傷と言ったところだろうか。


「そうと決まれば話は早いな」

 サイは立ち上がり、ぽんと手を打つ。

「一旦帰って作戦会議だ! 今日は特別だ。トミサまで私が負ぶってやるよ!」

「いや」

 サイを制してユミも立ちあがった。

「ウラヤへ行く。確認しなきゃいけないことがあるの。ソラと一緒に」

 ユミは赤い眼を光らせた。

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