積み木

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 男は博士と呼ばれていたが、いま彼をそう呼ぶもののなかで彼が本当に博士だったことを知る人は殆ど皆無であった。

 彼は若くして一流の大学を卒業し数々の革新的な論文を次々発表、生来の顔の良さも手伝い、時代の寵児だの百年に一人の天才だのとマスコミに持て囃された。

 ほどなく彼は潤沢な、ほとんど一切の紐がついていない天文学的な予算と、広大な研究施設を与えられ、そこに籠った。

 そして彼は長らく沈黙した。

 自身の研究所に籠り、外界とのあらゆる接触を断ち、やがてパトロンたちが疑心やら焦燥やらを持ち始めたころ、彼は再び人々の前に姿を現した。人々は驚いた。あどけなさと隠しようのない異能を帯びたその容貌は変わり果て、頬は痩せこけ眼は落ちくぼみ、髪と髭は仙人か覚者のように白く、ぼさぼさに伸びていた。ただ、その眼光だけはかつての鋭さ、人外の知性を湛えていた。

 さて彼はその日、14の積み木と、模造紙いっぱいに書かれた、17の母音と61の子音からなる彼自身の独自の言語をもって記述された、「この宇宙を含むすべてのモデル」を、十余年間の研究成果として披露した。発表は、彼がこほんと二三咳払いし、ようやく発話可能になるまでの時間を含め、僅か17分の出来事であった。会場と、そして画面の内外で固唾を呑んで見守っていた人々は困惑し、しかるのちに狂怒した。

 彼は研究所の長たる任を解かれ、施設は解体された。内外のメディアが彼を、およそ公共の電波に載せるべきでない言葉をもって手酷く糾弾した。

 そのうち、彼は傷害の咎で捕縛された。肌身離さず持っていた自身の理論の構成物たる14の積み木のうちひとつを無理くり奪い取ろうとした不逞の輩と揉み合いになった末の出来事であった。彼は幾つかの検査や、審議や、施設を転々とし、人々は彼と彼の理論のことをすっかり忘れ去った。

 そしていま、彼はとある木造アパートの二階の四畳半の角部屋にひとり住んでいる。その部屋には彼にしかわかり得ぬ文字──それは達筆なのか何らかの肉体的症状に起因するのか、鰻としゃくとり虫が激しく交歓しのたうったような──で書かれた紙の束が多数、そして床一面に広げられた模造紙──当然、模造紙にも鰻の如き文字や記号や数式、それに図形がびっしりと書き込まれている──と14の積み木──いくつかは欠損し、またいくつかは元の積み木の代わりに、空の酒瓶や野球ボール、チェスのコマ──が置かれていた。彼はそれの一つを慎重に手に取り、しばし考え込み、手元の紙に何ごとかを書き連ね、丁寧にそれを見直すと、うんうんと頷き、再び模造紙の上の別の場所に配置した。日がな一日、彼は生理的欲求が自身の生命の危機を知らせるまでそのようにして過ごし、電力を喪った機械がそうするように突然ふつと倒れ込むように眠った。彼の生活の糧は国から支給される僅かな金と、彼の学部時代の友人──今やその国で最も優れた研究施設の長であった──がたびたび持ってくる各種の生活物資であった。


 一方で博士の角部屋の隣には男が住んでいた。彼はファーザと呼ばれていた。彼は(恐らくは)白人で、やや癖のある栗色かかった髪と、豊かな口髭をたくわえていた。彼が衣服の類を身に着けているのを見たことのある人間は誰一人としていなかった。彼がいつから、どのようにして博士の隣に住み始めたのか、この木造アパートの大家でさえ定かではなかった。父は常に一定の呼吸──30秒吸い・30秒留め・30秒吐き・30秒留める、どんな時でもこの120秒のサイクルが乱れることはなかった──と一定の脈拍を保ち、一定の速度で移動した。彼が瞬きをするのをみたものは誰一人いなかった。彼の青い色をした眼球は一切の運動を否定し、常に彼の顔の真正面へと向けられていた。彼との対話や意思疎通に成功した人間は誰一人としていなかった。

 当初は彼がその辺を歩いたり、あるいはコンビニに立ち寄りおでん鍋からたまごを素手で掴み取りそのまま退店するたび、周囲の人々は律義に警察を呼んだ。彼は捕まらなかった。駆けつけた警官たちは彼に触れることさえできなかった。彼はその一定の呼吸──すぅーーーーーーーーーーーーっ、はぁーーーーーーーーーーーーーーーーっ──を一切乱すことなく、熟練したプリマのようにステップを踏み、詰め寄る警官たちを次々と躱した。業を煮やした若い巡査が腰から抜いたニューナンブの鉛玉でさえ彼の爪先にすら届かなかった。そのうちに彼を野放しにするコストと、彼を捕えるためのコストが天秤にかけられ、彼については存在しない・不可視のものとして扱う、そのような暗黙の取り決めが関係各所で取り交わされた。

 その日、博士の旧友が食料やらなにやらといった生活物資と幾ばくかの金と手紙の入った段ボール箱を、部屋の前の廊下に置く。彼は一瞬ノックをしようとするが、やがて溜息をついてその場を立ち去った。するとその隣の部屋から父が現れる。彼は「すぅーーーーっ」と息を吸い、「はーーーーっ」とゆっくり吐く。吐き終えると、それを宿命づけられた工作機械のような迷いなき所作で、彼は深く腰を割り博士の部屋の前に置かれた段ボール箱の底面に指を引っかけ、持ち上げる。膝を伸ばした状態で再び深い呼吸を済ませる、彼は自室へ引き上げた。


 その夜、窓から差す月光に照らされ、博士は自らの宇宙を前に石のように固まっていた。博士は考え込んでいた。そのため部屋の扉が開いたことにさえ気が付かなかった。

 一糸纏わぬ、肉付きの良い、ちんぼう丸出しの白い肌の男が入ってきた。父だ。彼は静かに扉を閉めると、室内灯のついていない部屋を一切の迷いなくすそそそと進み、博士の宇宙を挟み、その正面に生尻を下ろした。

 父の一連の動きがあまりに自然で乱れのないものであったから、博士は自らの正面に全裸の大柄な白人男性がいることに一切気が付かなかった。あるいは気づいてはいたが、そんなことは博士の思索の前には取るに足らない事象だったのかもしれない。

 暫くの間、父の「すぅーーーーっ」「はーーーーっ」という規則的な呼吸音だけが室内を満たした。時折、博士の肉体が思い出したように息を吸い、吐いた。

 と、突然父が目の前の、博士の宇宙へと手を伸ばし、その構成物のひとつ、酒瓶を手に取ると、それを中央やや左手へ動かす。

「む」と博士がこの週に入ってはじめて声を上げる。そして動かされた酒瓶をじっと見つめ、

「……可能なのか?」

 と呟く。ようやくここで視線を正面に向ける。このとき初めて、自らの目の前に一糸纏わぬ、肉付きの良い、ちんぼう丸出しの父がいることに博士は気が付いた。父の瞳孔は真っすぐに正面の博士を捉えていた。

 父は、

「Possible.」

 と、口さえ動かさず、博士に告げた。

 博士は自身の理論を疑ったことなど一度もない。しかし自身の理論を理解しうる人間が現れたことについて、彼のこれまでの生涯で覚えたことのない衝撃を受けた。また博士の慧眼は一瞬にして父の本質を見抜いた。この男が一糸纏わぬのは、決してこの男が変態の性を持つがゆえにあらず。無垢ゆえ、原罪の穢れなきゆえに……。

 博士は、酒瓶のそばの円柱形の積み木をやや右にずらす。父は間髪入れず、手前に置かれていた小石を宙に放る。それは美しい放物線を描き、博士の側の模造紙の空いたスペースに、吸着するように着地した。博士の口角が痙攣しつつも引き上げられた。笑うなど、いつ以来のことであろうか。

 それから、二人の物言わぬ対話がしばらく続いた。それは達人同士のチェスにも似ていた。あるいは恋人同士の交歓であった。

 やがて博士がぴたりと止まる。博士は立ち上がり、壁に堆く積まれた紙の束を勢いよく退け、空いたスペース、黄ばんだ壁に向かって直接油性ペンで何やらを書き出した。インクの残っているペンを見つけるのに苦労し、何度も書き直さねばならなかった。

 博士はそれ──博士の宇宙の最後の空白を埋めるピース──を書き上げたのち、それを前にして呆然と立ち尽くした。それから、再び父の前に腰を下ろし、博士の右手側に置かれた小さな木製の球を手に取り、震える手で慎重に、模造紙の中央に置く。

 博士はそれを為したのちも、暫くのあいだ、信じられないといった面持ちでその球を見つめ、震えていた。そして目の前の父を見た。父の眼は動かなかった。しかしその瞳孔が、室内の光量の変化に関わらず、せわしなく拡大と縮小を繰り返していることに博士は気が付いた。あるいは乱れなき呼吸が、脈拍が。それらすべての生体パルスが、ある目的、ある投企プロジェのために繰り返されてきた暗号であった。博士は、目の前の男が父そのものである、ということに気が付いた。

「Exactly.」

 父が再びこたえた。


 父は博士に、ある提案を行った。博士はそれを承諾した。


 随分長い間水道のメータが変化していないことに気が付いた検針員からの通報により、室内で事切れた博士が見つかったのはそれから一か月後のことであった。

 葬儀は行われなかった。お悔やみの報道ひとつ無かった。

 時を同じくして父も消えた。地元警察はやれやれとほっと胸をなでおろした。

 ほどなく博士と父とが住んでいた木造アパートは壊された。

 博士の成した理論──14の積み木たち、彼自身の言語──を知るものは今や何処にもいない。


 私は時折、デスクの引き出しの奥に仕舞いこんだ木製の小さな球を取り出しては眺めている。それは彼のアパートを最後に訪ねた際──既に彼自身は荼毘に付され、大家の呼んだ業者が、彼が残した“ごみ”を処分している最中──に、たったひとつだけ、くすねてきたものだ。

 それを手のひらの上で転がしつつ、私は考える。彼の宇宙、彼の辿り着いた先。

 手のひらから球が零れ落ち、デスクの向こう側の床に転がり落ちる。

 それきり、彼の球は見つからなかった。


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