モラトリアムの終わり
新隊長の情報
サフカレントは早くも遅くもない丁度いい歩調で廊下を歩いていた。その目は半眼に開かれており、だらしのない兵士や下士官を睥睨しているようでもある。だが実際には昨夜の酒とその後の逢瀬の余韻が残っているだけだった。
──ああついてねえな
サフカレントは鼻で溜息をついてそう思った。
サフカレントは不満だった。秋期人事で大尉昇進の内示がなかったからである。先週退役した隊長は調子のいい事ばかり言っておきながら、ついに自分を大尉にすら出世させなかったのだ。あんなロートルに舐められるとは我ながら情けない。
昨夜は言わばやけ酒だった。実を言うと一人で飲みたかったが、サフカレントが一言酒と言えば黙っていても七、八人はついてくる。そしてそこそこ可愛い顔の痩躯の女が居たので結構熱を込めて口説いたのだが、脱がせてみたら胸も尻もなかった。
サフカレントが不満を抱えたまま会議室への歩みを進めていると、向こう側から彼の不満の根本原因が現れた。しかし相手は気が付かないのか、反応を示さずにそのまま会議室に入っていった。サフカレントは不満に複雑な感情を加えて会議室へ入った。
「サフカレントさん」
先に入室していたエドガーが声をかけてきた。
「…………」
サフカレントは無言で手を上げて横に座った。
「昨夜の娘はどうでした?」
エドガーが小声でそう訊いてきた。
「バカ後にしろ」
サフカレントも小声でそう窘めた。
これから士官会議が始まるのにそんな話なんてどうでもいい、サフカレントは本気でそう思っている。彼はこれまでの人生のほぼ全期間で厳しい教育を受けており、そこから要領の良さを学んでいた。公の場では真面目に振る舞うべきなのだ。
ルブラニア連邦最難関の幼年学校、将来を犠牲にした夢のバカンス、などと呼ばれるクラスフォート騎士団でも当然毎週の士官会議はある。それに今回の会議は結構重要である。なにせ先週退任した第五騎士隊隊長の後任発表がある予定なのだ。
「誰が来ますかね」
エドガーはまた小声でそう訊いてきた。
「まあ大したのは来ないだろ」
今度は会議の内容に関する事なので小声で答えた。だが全く期待してる風ではない。
「静粛に」
第一騎士隊隊長ウィッジ大佐がそう場を締めた。
それを契機にして士官会議が始まったが、大体の者は聞き流している。今日の会議で皆が興味があるのは第五騎士隊隊長の後任人事だけなのだ。
──何せ退役が先だもんな
サフカレントは内心でこの状況に呆れていた。
隊長が定年退職するなら事前に後任が決まっている筈だろう。それがしばらく代理で回せとは呆れてものも言えない。もちろんそれは我がクラスフォート騎士団に対する「信頼」の為せる業だ。少しくらい隊長不在でも問題ないだろ、みたいな。
「さて第五隊長の件だが」
ウィッジ大佐がそう言うと皆の意識が向いた。
「新第五隊長は9月1日から着任の予定だ」
ウィッジ大佐は資料を読み上げた。
「新第五隊長の名前はカイ・サーク、前歴は……」
ウィッジ大佐はそこまで言って隣に座るリッジモンド大佐に小声で何か問いかけた。
「失礼、前歴は地方巡回視察官で南方で五年半程の実務経験があるそうだ」
ウィッジ大佐はさらっとそう言った。
会議室は微妙な空気に覆われた。半分の人間は地方巡回視察官という任務そのものを知らなかったし、知っていた人間は困惑の声を上げた。
「静粛に」
リッジモンド大佐が代わりそう言った。
「質問です」
誰かが挙手してそう言った。
「何だ?」
ウィッジ大佐が質問を許可した。
「地方巡回視察官は陸軍の職制と認識しています」
その声で会議室にはさらなる混乱の声が上がった。
「え?陸軍?」
エドガーも驚いて繰り返した。
「…………?」
サフカレントは無言で困惑した。
「と、言うより……」
また誰かがそう言った。
「静粛に!質問があるなら挙手せよ!」
リッジモンド大佐がその士官を窘めた。
「失礼しました、質問です」
その士官が改めて挙手して質問を投げかけた。
「第五隊は特殊部隊になるのですか?」
その士官は意外過ぎる事を言った。その言葉に会議室の混乱はさらに広まった。
「静粛に!」
今度は両大佐が声を揃えて言った。
「まず新第五隊長は剣の騎士勲爵士位を持つ中佐で陸軍の人間ではない!」
ウィッジ大佐は怒鳴り声でそう言った。
「また第五隊の任務も従前通り変わらん!」
リッジモンド大佐も怒鳴り声でそう言った。
両大佐の回答は会議室の沈静化を齎さず別の混乱が広まった。剣の騎士が陸軍職制の任務を五年半もやってるとはどういう事だ?左遷でもされた騎士か?
「質問です」
スティーラー大尉が挙手した。
「なんだね」
リッジモンド大佐が指名した。
「新隊長はおいくつなのですか?」
その質問に会議室の混乱はある程度はまとまった。
地方巡回視察官を知る人間からすると、その任務に就くものは叩き上げのロートルか窓際士官だ。どちらにしても結構な高齢の筈である。先週第五隊長が退役したばかりなのに新任隊長が年寄りなら、またすぐに定年退役になるのではないだろうか?
「えーと、1420年5月生まれだから……29歳か」
その回答にまたも会議室内に混乱の声が上がった。意外なほど若い。
「ほとんど俺らと変わらねえじゃん」
エドガーが驚きの声を上げた。
「ああ、あと」
ウィッジ大佐は資料をめくろうとして、裏にも何か書いてあるのに気が付いた。
「同時にスティーブ・ルイソンという……下士官も着任する予定……?」
ウィッジ大佐は自分が読み上げた資料に困惑した。
「ああそれは」
リッジモンド大佐が言葉を拾いあげた。
「ルイソン氏は現在陸戦学校での研修中でまだ階級は決まっていないそうだ」
リッジモンド大佐は無表情にそう言った。
は?
会議室の空中に巨大な疑問符が浮かんだし、全員がそれを見た筈だが、両大佐はこれ以上自分たち自身にも意味不明な情報を展開しようとはせず、形式的に連絡事項を読み上げて次の議題に移行した。それが読み終わるまで挙手は一切無視された。
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